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最凶の新三…『梅雨小袖昔八丈』髪結新三 2024年8月納涼歌舞伎_歌舞伎座 第2部

梅雨小袖昔八丈つゆこそでむかしはちじょう髪結新三かみゆいしんざ。河竹黙阿弥の作である。

いやはや、さすが中村屋。
中村勘九郎の新三と、中村七之助の忠七。最強の髪結新三の誕生かもしれない。

あらすじ

材木問屋の白子屋しろこやは、主が亡くなって身代が傾いている。
店のため、一人娘お熊(鶴松)は五百両の持参金付きの婿を取れと迫られる。
実は、お熊は手代の忠七(七之助)と恋仲。
連れて逃げてくれとお熊に泣きつかれ、不忠はできないと悩む忠七。
お熊と忠七の話を立ち聞きしていた廻り髪結いの新三(勘九郎)は、すべて丸く収まるよう協力すると忠七を唆し、お熊を連れ出すことに成功する…。

とにかく、悪い男

中村勘九郎、初役の新三。
ひょぇええ、と内心で声が出るほど、悪い男である。

写真を見たとき、ちょっと意外なぐらいワルそうだなぁと感じたのだが、実物はもう、写真の比じゃないくらいの悪い男。

中村勘九郎の新三。実際見ると、もっと悪どいヤツ

お熊に起きたことは悲惨で、新三という人物はとても許せないやつなのだが、それはそれとして…いや、だからこそ、心臓がバクバクと嫌な感じになろうとも、もう一回観たい!となる。

お熊は中村鶴松。
今の今まで、店の財政がそこまで苦しいとも知らなかったのに、遠目にちらっとしか見たことのない男を婿に取れと、大人3人に答えを迫られる。
鶴松は可愛らしくて不幸な役がぴったりハマっている。

真新しい筆で絵に描いたような美しい目元が、戸惑っておろおろして、やがて涙を浮かべて崩れるその姿。
なんと気の毒な、と見ている側に思わせる。

手代の忠七は中村七之助。
お熊に恋心はあるけれど、お店への不忠になることは避けたい。それで新三の話に、つい乗ってしまう。

下手から登場する新三。
戸口を開けかけて、聞こえてくる声に手を止める。軽く目を伏せて聞き耳を立てる。なるほどと状況を察すると、これは便乗しない手はない、というようにきらりと目を光らせる。

悪いやつだなぁ。

忠七の髪を撫でつけながら唆す部分は、髪結いの手さばきとか親切ごかしの口調などをこれ見よがしにせず、あれよという間に、新三の口車に忠七が乗せられている、という様子なのがいい。
完全に乗り気というわけではないのだが、このあと下見に来なせぇな、と半ば押し切られるように忠七は動かされてしまっている。

否とも応とも決めきらぬうちに、次の約束をさせられる、そういう不穏さ。

忠七の色気と、闇の川端

そして永代橋川端の場。

これ以上に呼吸の合う新三と忠七は無いのでは、と感じる。
新三が傘で忠七の眉間に傷を負わせるくだりなど、見ているこちらがヒヤッとするほど距離が近い。

”傘づくし”は新三の、七五調のセリフに聞き惚れる。
リズムに気を取られると、セリフの中身を聞き逃してしまうことがわたしはあるのだが、一言もおろそかにならない調子が心地よい。

七之助の忠七。
わたしが見た忠七の中で、誰よりも色っぽい。

川端で新三が、お熊と自分はできていて、連れて逃げてくれと言うからそうしてやったんだ、と言うと、忠七は目の色を変えて返す。

「(お熊は)わたしの情婦いろだから、」。

このセリフに、どきりとする。
大店のお嬢さんと手代という身分違いの恋だけれども、お熊と忠七は、特別な関係なのだとハッキリ感じるからだ。そのままうっかりと、2人のじゃらじゃらした様子を妄想しそうになる。

夜の中、ひとり残された忠七は、絶望と動揺、全身の痛みを抱えて右往左往する。そして橋へかかって、そこが川だとあらためて気付き、ハッと息を呑む。

忠七の目に、満々たる大川の水は、どんなふうに見えただろうか。
夜の底、真っ黒な、禍々しい闇のようだったろうか。

忠七が、「死」という選択に掴まれる瞬間。わたしには、それは罪の重さからの逃避ではなかったように見えた。

死ぬなんて言ってないで、お熊を助け出す方法を考えろやーい!と、外野は思う。
けれども、このときの忠七は、我が身を最も苦しめることができる償いは、この恐ろしい真っ黒な水へ飛び込むことしかない、と思ったのかもしれない。

新三もいいが、七之助の忠七もそうとう興味深い。もっと観たい。

なお、”傘づくし”は、18代目中村勘三郎のものを一部ではあるが文化デジタルライブラリーで聴くことができる。

心底「怖い」…二幕目三場 新三内の場

この芝居の中で、三場が最も興味深かった…というか正直、怖かった。

家主(坂東彌十郎)の交渉によって、お熊はようやく、新三の家の戸棚から解放される。家主たちが彼女を駕籠に乗せようと面倒見ている間、新三は上手のほうの柱に凭れて彼女を眺めている。

このときの新三の目つき。
お前のことはもうみんな知っているんだとでもいうような。そしてお熊の肌の温度や感触を思い出すように、自分の唇をなぞる指先。

いや恐ろしい。

18代目勘三郎の新三も観たことがあるが、ここまで恐ろしくはなかった。

お熊に取り返しのつかないことが起きたのだと、文字の上ではなく物語として気づかせてくれたのは勘三郎の新三だった。だから、勘三郎もこのシーンはなかなかに露骨だったのだが、それでも、どこか愛嬌があった。

勘九郎の新三には、愛嬌など1ミリもない。

ここは笑いにはできない。確かにそうだ。
お熊に起きたことは、まったく笑えない。

笑っているのは新三と勝奴だけなのだ。

「また来ねぇな」と半笑いで言ってお熊に近づき、新三は家主に突きのけられる。
そりゃそうだろう。

周囲が慌てて、一刻も早くお熊を駕籠に乗せて帰らせようとするのを、勝奴(坂東巳之助)となにか話しながらニヤニヤ眺めている。
こういう人物はまったく許しがたくおぞましい。
これが色気だとかワルかっこいいなどとは言わない。

この怖さは、インタビューなどを受ける勘九郎の印象からは想像もできない。
ゆえにこそ、いったいどうやってこの新三が出来上がっているんだろう(という言い訳のもとに)、もう一度観たい、と思う。

柱に凭れて、お熊をじっと見つめている新三。
文字にすればたったそれだけ。
そのわずか1分もない勘九郎の新三に、世のグロテスクさ、弱い者の阿鼻叫喚が見える。

この、見ちゃいけない、ホントはやっちゃいけないものを見せている感じ、というのも、かつての歌舞伎のひとつの側面だったのではないか、と、無理やりに真面目な方向に持っていくとすれば、思ったりする。(真面目どころか、さらに墓穴を掘っている感じもなくはない。)

以前シネマ歌舞伎で『三人吉三』を観て、似たようなことを感じた。

江戸・明治時代から時が離れるにつれ、観る側が感じにくくなってしまった、河竹黙阿弥作品のギラリとした生々しさ惨たらしさ。押し潰される者の悲鳴。
それが、痛いほど身に迫ってくる感じが、中村屋の芝居にはあるような気がする。

登場人物の一人ひとりが、役者の身体を通して、お前はこれを見てどう思うか、と問いかけてくる。そんな『髪結新三』だった。

最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。


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