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『ゆうれい貸屋』、『鵜の殿様』2024年8月納涼歌舞伎_歌舞伎座 第1部

歌舞伎座の8月納涼歌舞伎、第1部。『鵜の殿様』が、素晴らしい収穫でした。

『ゆうれい貸屋』

🕯テーマがいいだけに、惜しい!

無気力に陥った若者が、ちょっと社会人を休んで、「生きる」を考える。
おそらくそんな話なのだろうと思う。

現在にとても通じるテーマだし、舞台装置も効果的。
ライトなタイトルのわりに、観終わってからあれこれ考え出すと止まらない。
役者による登場人物の表現がもっと濃密であれば、さらに面白い芝居だったのではないかと感じる。

弥六やろく(坂東巳之助)は、腕の良い桶職人ながら、親を亡くしてから、すっかりやる気を失っている。どうせ貧乏ぐらしから抜け出せないなら、働くなんて馬鹿らしいと、昼間から酒浸り。
女房のおかね(坂東新悟)が、近所の繕いものなど引き受けてどうにか暮らしを支えていたが、このままでは弥六のためにならないと、里へ帰ってしまう。

夕立が過ぎて日の暮れた家に、弥六がひとり寝転がっていると、染次そめじ(中村児太郎)という女の幽霊が出てくる。
もと辰巳芸者の染次は、男に裏切られて相手やその家族を取り殺したのだが、強い怨念ゆえ成仏できない。弥六に惚れたので、一緒に暮らしていいか、と言ってくる。

前半のあらすじ

坂東新悟が妻のおかねを丁寧に演じていて、大家(坂東彌十郎)が、できた女房だと褒めるのも納得の、正直で優しい性格に仕上がっている。

幽霊役の中村児太郎、染次そめじは、声を張ったり緩めたり、高音から低音まで駆使して、前半の説明的なセリフをこなしていく。
幽霊に関するトリセツ部分が第一場なので、セリフ量も多いし、適度に笑いも取って、大変だろう。

ただ、辰巳芸者とは深川芸者のことで(深川は江戸の辰巳の方角にあったことから)、粋な芸者ねえさまの代表格なのだが、大量の説明的セリフに力が割かれてしまうのか、粋ないい女、という空気が出ない。

しがないおけ職人のもとに、幽霊とはいえ、水際立ったいい女が押しかけ女房になる。そういう、暑苦しい夏に見る色っぽい幻みたいな取っ掛かりだと、なお興味を引くと思う。

🕯弥六の閉塞と孤立。そして…闇バイト?

弥六は、単に親を亡くして気落ちしたから働きたくない、とは違う。
どう足掻いたって貧乏ぐらしから抜け出せない、という閉塞感がある。

さらに、近所というかコミュニティと弥六を繋いでいたお兼が里に帰ってしまって、染次が住み込んでから、よりくっきりとしてくる弥六の孤立。
昼夜逆転で締め切った戸口、恩ある大家への悪態、提灯も出さず祭りにも参加しない。

ここは、廻り舞台を使った住まいの様子、井戸端が効果的だ。

染次の提案に乗って、恨みを晴らしたい人間に幽霊を貸すという商売が繁盛しても、それを喜び合う(生きた)相手もいない。
毎晩、染次が調達してくる酒や肴は豪華になるが、そうなればなるほど、ご近所から見れば弥六の生活は不気味で不可解で、距離ができる。

2幕目で弥六の出で立ちが、カタギでない感じに変わっているのが、意味深だ。

ふと思う。あれれ、これってすごく現代っぽい話ではないか?

不貞腐れて生きている無気力な男に、「食事の世話もしてやるし、寝てるだけで金が入ってくるうまい話があるよ」、と持ちかける都会的な女。

自分で恨みを晴らせない人の代わりに、(幽霊を使って)ちょっと脅してやるだけ。元手もかからず、報酬はみんなお前の懐に入るよ。
…セリフでここまでダイレクトには言わないけれど、明らかに良からぬ仕事

🕯幽霊又蔵「生きていればこそ」

金は得られるようになったが、ふっと胸に迷いが差し込む弥六。
彼と、紙屑屋の又蔵(中村勘九郎)のやりとりのある第2幕が、この芝居の中で一番いい。

勘九郎の又蔵は、朴訥でおかしみのある喋りの中に、今にも溢れそうな悲しみ、辛さがある。こういう役は、父勘三郎よりも勘九郎がわたしは好きだ。
幽霊なのだが、又蔵という人物の素直で健気な人柄、人生、家族を感じさせる。

生きているうちに、家族を大切にすればよかった、弱いながらも闘えばよかった、と又蔵は泣く。
あの世に楽しみを求めるなんてダメだ、楽しみも喜びも生きていればこそ、という言葉を弥六に残して、又蔵は去っていく。

聞いていると良いセリフなのだが、じゃあ弥六はどうしたらいいか、という答えは又蔵からは出ない。
又蔵の言葉を、弥六はじっと考える。

働いたって楽にならない、生きるのが苦しいという現実は、ゆうれい貸屋をやめても変わらない、じゃあどうするのか…。

🕯怨霊染次

又蔵に言われたことを考えながら、家に戻ってきた弥六を、お千代(中村鶴松)が待っていて、染次ねえさんよりも私と…と誘いかけてくる。

そこへ染次が(宙吊りで)現れる。
あれほど言ったのにやっぱり裏切ったなと怨念を爆発させる。

筋書には「運悪く」染次が戻ってきて、とあるのだけど、舞台を見ている限り、染次はこの時を待っていたように思える。
(ここはオンデマンドで確認したい。)

勝手に家で待っていたのもお千代だし、しなだれかかってきたのもお千代なのだが、染次は弥六に、「とうとう浮気したな、これで存分に恨んで祟って取り殺すことができる」、みたいなことを言っていた気がする。

これって、そもそも染次は怨霊だから、弥六と永遠に仲良し夫婦をしたいわけではなく、惚れた相手を祟って取り殺すのが本領という(?)縛り、なのではないか。

結局のところ、弥六は弱った心に付け込まれ、うまい話の代償に命を取られかけている、という展開。
そう捉えると、最初のほうの「取り殺す相手もいなくなっちゃって」という染次の言葉の怖さ、彼女の性質に(勝手に)ゾッとできて面白い。

そして同時に、うまい話にはどデカいリスクが潜んでいる、という今っぽい話でもある。

弥六を誘惑する魔性の娘の幽霊お千代は中村鶴松。
第2部『髪結新三』の白子屋お熊とはまたタイプの違う若い娘を演じている。

可愛らしいのだが、セリフでも筋書でも説明が「浮気性」としかなく、30数人の相手を手玉にとる魔性の正体というかキャラ設定が良く分からない。
手当たり次第誘惑してくる、可愛いけど怖い子、というだけで良いのか、もう少し何か欲しかった感じもある。

🕯弥六の社会復帰

正直、芝居をリアルタイムで観ている間は、第2幕の又蔵の言葉から「じゃあどうするか」を、わたしは全然見つけられなかった。

あとからこの部分について考えてみると、「関係性」とか「コミュニティ」、あるいは「共闘」ということなのかもしれない、と思った。

又蔵は言う。
あの世での幸せのためにと、悪いやつにへつらうなんてしちゃだめだ、弱くても、この世で闘えばよかった、と。

又蔵の、この言葉に込められたものは、何なのだろうか。

浮気したと染次に怒りをぶつけられ、圧倒的な怨念に息の根を止められそうなとき、弥六は何を思ったのだろうか。(この苦しむシーンは、けっこう長い)

オペラグラスも使わず3階席からぼんやり観ていたので、細かく分からなかったが(おい)、弥六は葛藤の末、染次の理不尽な力に抗い、生きることを選ぶ…のではなかろうか。

そして、鉦の音で染次の霊を追い払った弥六は、介抱してくれた大家はじめ近所の人々に助けを乞う。どうか一緒にお経を唱えてくれ、染次を成仏させるのを手伝ってくれと頼む

すると、人々はみんな、仏壇に手を合わせてお経を上げてくれる。

下手しもて側にある髪結の家から、おかみさんが起きてきて、なんの騒ぎだとギョッとなる様子を見せつつ、幕になる。

弥六は、一度は何もかも嫌になって、仕事も放棄し社会参加を拒絶した。

しかし、妻や近所の人々に代わって、弥六の生活に入り込んできた幽霊たちも、生前の何かに縛られた「もと人間」。
弥六は、幽霊貸しで金を得るが、幽霊の又蔵さえ「もうたくさんだ」と逃げ出すほどの、人の心の鬼を見る。しかもその鬼へと、他人を誘い込んでいるのが自分であることに気付かされる。

すべては生きていればこそ、という又蔵の言葉から、弥六は鬼とも幽霊とも離れて生きることを選び、辛いときには助けを求めるという手段で再び社会とつながって、立ち直っていく…のかもしれない。

井戸を中心にした長屋のセットで表すコミュニティだったり、又蔵のセリフだったり、面白くなりそうな要素はいろいろある。
それだけに、染次と弥六以外のキャラクタ表現の薄さ、メッセージ性の控えめさが惜しい。

数年後に上演してほしいし、オンデマンド配信でまたじっくり観たい(そのときに、受け止め方ぜんぜん違っていたなぁと恥ずかしくなりそうな気もする)。

『鵜の殿様』

🐟衝撃と大満足の30分

さて、市川染五郎について、わたしは(遅ればせながら)当月、彼の天才ぶりを知ったところである。(感想:納涼歌舞伎第三部『狐花』

したがって、チケットを取る前とはまるで違った期待値で『鵜の殿様』を観た。

上演時間は30分と、長くはない。
が、もしかしたら当月1、2を争う衝撃度かも?という演目だった。

幕開きから、わたしは口が半開きになった。
うまっ。
…え、うまっっっ。
(馬ではない。鵜飼ごっこをする大名の役です。念の為。)

これが劇場でなかったら、感嘆、称賛の言葉をうるさく並べ続け、手当たり次第に連絡して(誰に?)、市川染五郎の素晴らしさを伝えたことだろう。

出し惜しみのない、今できる120%なのでは、と感じる、染五郎の大名。
溌剌として、高貴で、美しく、短気でユーモラス。

わがままで人使いの荒い感じも出ているし、品があり、何より身体がよく動く。
しかしアクロバティックな動きに頼って荒っぽく客席を沸かせるのではない。
鵜に巻きつけられた「縄」が、常にきちんと見えているのが、素晴らしいのだ。

太郎冠者に騙されて、鵜匠でなく「鵜」の役を選んでしまった大名。さんざんに引きずり回されるが、縄が太郎冠者の手から離れたのを見逃さず、役割を逆転させる。
このときの、気持ちよさそうな大名の様子。

染五郎演じる大名が上手に居て、幸四郎の太郎冠者が花道七三へかかる(もう太郎冠者は鵜飼ごっこから逃げたい)。
大名は容赦なく縄を引く。太郎冠者は、逆飛び六方のように本舞台へ戻される。
ここに限らず全体、歌舞伎舞踊のおおらかさと、縄が見えるような写実のバランスが心地よい。

『素襖落』や『棒しばり』などに共通する、太郎冠者と大名のおかしみあるやりとり、観ている側も一緒に踊りだしたくなる愉快な幕切れ。
明るく楽しいので、この種の踊りを観るのは好きだが、中でも圧倒的に面白かった。

腰元が市川高麗蔵、澤村宗之助、市川笑也。
長縄飛びっぽい場面も可愛らしく、高麗蔵がここに居てくれるのは大きい。

オペラグラスも持っていたが、小さな表情を追って視界が狭くなるのはもったいなかったので、使わずそのまま観て、舞台いっぱいに広がる市川染五郎の踊りを楽しんだ。

良いものを観せていただいた。5年くらい寿命が延びた。たぶん。

歌舞伎美人に『鵜の殿様』もダイジェストがありますが、実際はこの200倍面白いです。(個人の感想です)

*タイトル画像は、下記から利用しています。


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