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今西錦司氏にまつわる書籍を読み、受け取ったものとは?


はじめに

今西錦司氏という方を知っていますか?

処女作にして、有名な書籍はこちら。

各種メディアでも取り上げられている京大の前総長であり、ゴリラ総長とも言われる山極寿一さんの、師匠である伊谷純一郎氏の、さらに師匠であり、「文明の生態史観」で有名な梅棹忠夫氏、KJ法で有名な川喜田二郎氏の師匠でもあり、他にも様々な人に影響を与えた人物だそうです。

書籍プロフィール情報

1902年、京都西陣生まれ。生態学者、文化人類学者、登山家。京都帝国大学卒業。1939年、カゲロウの分布に関する生態学研究から「棲み分け理論」を生み出し、理学博士の学位を授与。戦後は、ニホンザルなどの研究を進め日本の霊長類研究の創始者として知られる。京都大学教授、岐阜大学長を歴任。79年、文化勲章受章。登山は、京都北山、日本アルプス、朝鮮白頭山、中国大興安嶺山脈、ヒマラヤにおよぶ。52年、日本山岳会のマナスル先発隊長としてヒマラヤを踏査。73年、第12代目日本山岳会会長。1992年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

私は去年まで知りませんでしたが、JUNKANだいこんというイニシアチブの中で、発起人の吉原史郎さんの紹介で存在を知り、この団体の仲間とこの今西錦司氏の書籍を読む読書会が始まったのです。

JUNKANだいこん(社団法人考案中)とは
発起人・ソース:吉原史郎

日々の暮らしでの 「じゅんかん(循環/いのちの流れ)」を土壌として、 「オーガナイジング(Organizing)・経営」、「マネー&テクノロジー」について実践探究をしている団体です。主な探究テーマとしては、ピーター・カーニックの「ソースプリンシプル(ソース原理)とマネーワーク」、また、JUNKANと親和性のある哲学(西田幾多郎、ヘラクレイトス等)があります。

書籍『岐路に立つ自然と人類―「今西自然学」と山あるき』のプロフィールを引用

読書会で読んだ書籍

入門としてオススメされ、読書会で扱ったのがこちらの本です。

今西錦司氏は、

登山家として自然に関わるなかから、細分化・専門化する生物学に対して、自然に生きる生物自体を対象とする「自然学」を唱えた。

書籍『岐路に立つ自然と人類―「今西自然学」と山あるき』から引用

とのことなのですが、この書籍では「今西自然学」の主要論考とエッセイが紹介されている、いわば詰め合わせのような本でした。

とても面白いが、オススメできない・・・

そんな本ですが、読み終えて思ったのは読めて本当によかった、私にとってはとても意味がある本だった、ということです。

しかしながら、読み切るのはとても大変でした。仲間がいなければとてもじゃなければ、読み終えることができなかったと断言できます(笑)だからこそ、誰しもにオススメできません。。。涙。(エッセイのパートは読みやすい分かりやすいので問題ないのですが、主要論考がハードルが高い・・・)

その最大の理由は、今西氏が難解で知られる西田哲学に影響を受けており、独特の言い回し・用語が頻出するためです。

その後、同じ仲間たちと西田哲学に触れ始めるのにピッタリかもしれない、書籍『福岡伸一、西田哲学を読む: 生命をめぐる思索の旅』をこれまた、ひーひー言いながら読み終えたのですが、西田哲学への理解が深まってから今西氏の書籍を読み直すととても分かりやすくなっていてビックリしました(読む順番間違えた!?)

前置きが長くなりましたが、今回は書籍『岐路に立つ自然と人類―「今西自然学」と山あるき』を読んで感じたことをいくつか紹介したいと思います。

今西錦司氏にまつわる書籍を読んでみた

感じたことは?

・今西さんの自然と人間に向けられるレンズを通じて、成人発達理論でいう「視点移動」ができた感覚がある。人間の世界の中の動物と、自然の世界の中にいる動物と。細かい関係性の解像度が上がった。これまでは、人間対人間においての似た解像度を持っていたが、それを対動物、対植物に対しても持てるように感覚が拡張してきた気がする。

・日本人と自然についての哲学が進んだ

・今西さんのレンズを通した人類史を垣間見た
→それは私が昔、ハワイ島で直観した「いのちの循環中心社会」に通ずるものがある。

・海でも川でもなく山についての解像度が高まった
→今西氏は生涯山登りをし続け、日本の山だけでも1550山に登頂されたそうです。エッセイには山登りのことがたくさん出てきます。山つながりだからか、以前読んだマタギに関する本を思い出しました。

・生命とは?に対する哲学が進んだ

興味深かった箇所は?

書籍から興味深かった箇所を引用します。

『人類の場合には、棲みわけの結果として、身体の分化に先立って文化の分化が生じた。あるいはこれを、文化の分化が身体の文化を代行したといってもよい。したがって人類は生物学上の分類位にしたがうならば、その全体がホモ・サピエンスという一つの種に属し、それ以上の分化をしていないということになるけれども、文化に着眼するならば、言語・生活様式その他さまざまな文化が、この地上を棲みわけ、それとともにこの文化のちがいに応じた各人のアイデンティティのちがいを、みるようになった。

生物は一つの種ごとに一つのアイデンティティを共有した個体のまとまりをもつ。しかるに人類では、同じ文化を共有するところに、アイデンティティを同じうした個体のまとまりをみる。この点を生物と人類とのちがいとみることもできるが、また生物と人類とにみられる類似した自然現象と見なすこともできる。いずれにしても、地球上にさまざまな文化と、それにともなう異なったアイデンティティをもった人類が分布しているとか、それにもかかわらず生物学的には、これらの人類がすべて同一の種に属しているかということを、人類自身が知ることになったのは、人類の歴史からみたらごく新しいことで、それからまだ三、四世紀しかたっていない。

書籍『岐路に立つ自然と人類―「今西自然学」と山あるき』p 132から引用

さいごに

とても書籍の紹介とはいえない記事となってしまいましたが、その後、今西錦司氏に強く惹かれた私は、今西全集全13巻を購入するまでに。

この読書の道はどこまで続くものかと思っているのですが、ソースプリンシプルにまつわる書籍『A little red book about source: Liberating management and living life with source principles』を読む中で、西田哲学における重要な概念である「逆限定」というものに通ずる(と私には思える)内容が出てきて驚きました。

色んな点がつながってきているように思えて、面白い今日のこの頃です。

続き

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