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私の思う、日本人が日常的にソースプリンシプルのレンズを用いることによってもたらされる価値

今回は、ソースプリンシプルを実践探究していく中で感じた

「大人が日常的にソースプリンシプルのレンズを用いることによってもたらされる価値」

について書いていきます。

ソースプリンシプルを実践していく中で、実践者の間ではこんなコミュニケーションを交わす機会が生まれます。

例えば、イニシアチブ(プロジェクト)のソースである人に対して「最近のソーシングはどうかな?(翻訳:このプロジェクトについて最近のインスピレーション、アイデアなどあればざっくばらんに教えてよ)」というように。

このように問いかけてもらうことで、自身がソースであること。言い換えれば、そのプロジェクト(フィールド)における創造の源ともいえる存在であることを思い出すことができます。

なぜ、このことが価値を持つかというと、私たちの多くが、プロジェクトに途中から加わるといった協働プロセスにおいて、関わる人数が多くなっていけばいくほど(その頃には、組織などと呼んでいるかもしれません)、

「私は、立ち上げた人の想いが土台にありつつも、私・あの人・この人といった、プロジェクトのメンバー個々人の想いとの重なりが、多様にその比率を変えたり、時には完全に重ならなくなることも自然なこととして共存し続けていく、という動的な協同を行なっている」

と捉えるのではなく、一緒くたに「私は組織という1つの静的なかたまりの一部として仕事をしている」と捉えてしまう傾向が強いことに関係があります。

この傾向は、関わる個々人に対して無自覚に「私に力があるのではなく、私たちには力がある」というトレードオフ的な信念を育んでしまう効果があると私は捉えています。

そして、この信念は私たちが人と何かプロジェクトを行う上でいつもつきまとってきて、”共に”ソウゾウ的(想像、想像の意)であり続けることを妨げ、誰かがソウゾウ的な時、一緒にソウゾウ的であれないという負の連鎖につながっていっているように思うのです。

この「私が不在の私たちとしてのプロジェクトが、私個人の想像する力、創造する力をないことにし続けているが、そもそもそんなことには気づけない」という無自覚な慣習が少なくとも日本では多く見られる現象なのではないかと思っています。

前提にあるのが「私たち1人ひとりにはソウゾウする力がないと思い込ませやすい環境」だからこそ、ソースプリンシプルというレンズを用いて、互いがソースになるプロセスへの感謝や尊敬の念を感じたり、ソースであることに立返らせてくれるコミュニケーションを取り合うことの価値が高いと思うのです。

話が飛躍したと感じられるかもしれませんが、ソースのレンズ的なコミュニケーション、協同とあえて言う必要がなくなった世界は十全に生きている人類が適切な人数で溢れている世界なのではないかなと思っていたりします。

そして、その世界の実現は子どもの頃から協同がそのようである、と身体で学んだ人たちが増えるほどに加速していくのではないでしょうか。


探究していく中で気づいたことシリーズはこちら。


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