正解のない問いに自分なりの意見をもつ。Ph.D.のPh.(哲学)が教えてくれたこと〜リケジョな子育てVol.11〜
noteマガジン『東工大飛び級ママの「リケジョな子育て」』/第11号です。
このnoteマガジンは、発行人・福所しのぶが日経xwoman Terraceブログに投稿したオピニオンのうち、「子育て・教育」テーマのものをピックアップし、一部再編集してお届けしています。
今回は2022年12月8日の投稿から。元の投稿は、日経xwomanに掲載された記事『豊島岡女子教諭 背伸びしてでも読んでほしい哲学書』(下記リンク)を受けて、感じたことや気づきをシェアさせていただいたものです。
では、どうぞ!
※以下の本文中、「参照記事」とあるのは上記リンクの記事を指します。
今回参照記事とさせていただいたのは豊島岡女子中学・高校の先生の『背伸びしてでも読んでほしい哲学書』という記事。その前編にあたる『理系の生徒も国語嫌いにさせない』という記事も含めて、あれ?もしや見透かされてる?と目が離せずにおりました(笑)。
「国語嫌いの理系の生徒」ご多分にもれず私もそうでした。
本や言葉が嫌いというわけではないけれど、国語という教科でのテストでは点が取れない(苦笑)。今から考えたら、「国語は習うより慣れろ」な感覚で、問題を解く上でのロジックを意識していなかったのが敗因かもしれないと思うのですが…。
そんな私も社会人になってからは、特許を扱う弁理士として科学技術を言葉で表現していくことが仕事になりましたし、また今もこうしてブログや本などで発信させていただいたり、言葉によるコミュニケーションでキャリア支援もしているわけです。国語が苦手な理系の生徒だったはずが、なぜか言葉と向き合うことが当たり前の日々を過ごしています。
だから、「理系だから国語ができなくてもいいや」を当たり前にせずに発破をかけてくれる中学・高校の先生の記事はなんだか新鮮に映りました。
そうきて、今度は哲学書のすすめ!またなにやらハードルの高そうな…。
哲学と聞くと難しいことのように感じますが、正解のない問いに対して自分なりに合理的と思える考えを導く術、と考えると身近なことのような気もしてきます。自分なりの意見を持つことは、多様性を重視するこれからの社会を活きていく上では大切ですものね。
私の場合は、国語に苦手意識がありましたから、さすがに中学高校時代に哲学書にチャレンジする機会はありませんでした。ただ、高校はキリスト教系の学校で、カリキュラムに「キリスト教概論」という授業があったのです。
その授業では聖書の勉強を一生懸命したという記憶はほとんどないのですが、「愛とは何か?」「神様はいると思うか?」といったことをクラスで議論したのが今でも印象に残っています。
まさにリアル哲学というか、ものごとを深く考えたり、自分なりの意見を持つことの大切さを意識する機会だったように思います。
正解のない問題に対して自分なりの意見を持つ。正解がないからこそ相手の意見にも耳を傾ける。そういうスタンスは、ここで育まれたといっても過言ではありません。
話は少しそれますが、実は哲学は、私の取得している博士号とも少し関係があるのです。日本の学位表記では博士(工学)といったように専門領域の区分を表記しますが、英訳表記では欧米の学位表記にならってPh.D.(Doctor of Philosophy)とするのが一般的です。Philosophy。そう、哲学です。
そんな背景もあり、「博士号をとってPh.D.を名乗るからには、一つの専門領域にこだわらずに他の分野にも目を向け、学際的であるよう心がけるべきだ!」ということは大学院生の頃から叩き込まれてきたのです。
さすがに、研究者の枠をとびこえて、法律を学び弁理士になり、さらにはキャリア支援も…となると、いささか学際的すぎやしないかという向きもなきにしもあらずですが…(苦笑)。私の根底にはそんな「哲学」マインドがあるかもなーと思ったりもするのです。
なお、高校での授業「キリスト教概論」の話は『キリガイ』(有馬平吉・著、新教出版社刊、2012年)というタイトルで書籍にもなっています。ご興味のある方はぜひ。高校生もここまで深く考えるんだ!が満載です。
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