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「潜在的な自分への期待」が認知や判断を歪ませていたりするかもしれない

はじめに

 対人関係、コミュニケーション、最近だとバウンダリー(=境界線)という言葉が少しずつ広まってきているように思います。他者との境界線を意識して健全な自立した自己を保つ事は、生きていく上でとても重要な事だと私も思います。つい最近も、下記の記事を読んで一人で大いに頷いていました。

 私は心理の専門家ではありませんのでこのような完成度の高い網羅的な記事は書けませんが、他人から自己への境界線の侵害をきちんと防ぎ、「他者への期待」に応えようとする様々な場面において、この境界線の意識を持って自分が無理していないかきちんと見極めておくことはとても大事だと思いました。
 一方で自分の体験として、「他者への期待」も大事ですが、同時に自分が(潜在的に)持っている「自分への期待」が現状にそぐわずバランスを崩した状態でいると、色々判断をする際に具合が悪くなるかもしれないとふと考えた事が以前あったので、その当時を振り返りながら、少し自分なりの考えをまとめてみたいと思います。

※注意
「潜在的な自分への期待」はすぱ郎が勝手に作って定義した言葉です。心理学の用語にそんなものは無いと思いますので予めご了承ください。あくまでいち当事者の自己分析的な考察のようなひとりごとのようなもの、というスタンスで今回の記事を読んで頂ければ幸いです。

自分への潜在的な期待って何?

 一般的に、「自分に期待する」という言葉はどちらかというと前向きなイメージを持たれている事が多いと思います。自分に期待するから、目標を立てて、それを叶えるために行動して、目標を達成して、より実りのある人生にしていく…。そんな正の循環が回るようなイメージだと思います。あくまで私見ですが、それは自分自身でそれを自覚している「コントロール可能で顕在化した自分への期待」とでも言うべきものだと思っています。今回の話で述べている期待は「コントロール困難で潜在的な自分への期待」とでも言いますか、とにかく、前者のそれとは少し位置づけが異なるものだと思っています。
 自分への期待ってそもそも何じゃろな?と思う方もいるかもしれません。自分への期待が高い状態とは、ざっくり言うと「自分なら〇〇ぐらい出来るはずだ」と判断するハードルが、現実的に可能なラインを越えて高くなってしまっている状態を指します。つまり「達成するのに無理のあるゴールを無意識に掲げてしまう」状態という事です。
 私の場合は、これが仕事の場面でとても良くあったなと、今となっては思います。そもそも「仕事は困難を乗り越えてなんぼ」といったメンタルで特に深く考えずに新卒から10年ぐらいは仕事をしてきた(それで奇跡的にやってこれた)ので、高いハードルだろうがなんだろうが上司からの依頼を無下に断ったりした事はほぼありませんでした。
 でも、それが無理になったのが育児や自分の家族と生活していく中で家事をするようになって、自分だけのペースを守ればよかった生活サイクルが保てなくなったタイミングでした。家族に迷惑をかけずに安定したリズムで生活する必要があったので必然的に仕事に対して割り振る事の出来るエネルギーは減衰し、それでもキャパを超えそうになる場面が徐々に増えていきました。そして年齢相応に周りからは以前よりも役割を期待されるようになり、時には上司からの無茶ぶりにも応えようとして、色々手が回らなくなってトラブルが起きるようになったりして、最終的な結果として心身の調子を崩す原因の一つになったかなと今は思っています。
 この時に、「相手の都合や相手の期待は本来自分とは無関係なのだからきっちり線を引こう」という考えであったり「自分の敷地は自分で守ろう」という意識を持つことは勿論必要で重要な事だと思います。
 一方で私の場合はこういう意識を持って仕事や依頼を断るようになったときに、非常に強い罪悪感や虚無感のようなネガティブな感情を抱き、気持ちがザワつくことが多くありました。その原因がずっと良くわからなかったのですが、ある時「自分への期待」という言葉を目にした時に、妙にその言葉が自分の中でしっくりきました。「これかもしれない」と思いました。
 つまり私の場合は、「人の頼みを断るのは申し訳ない」とか「気が引ける」とかそういう理由で人の頼みを断り切れずに受けていたのではなくて、「自分だったらこれぐらいのことは出来るはずだ」「これぐらいの依頼は頑張ればこなせる自分でなくてはならない」といった、「自分への期待」が非常に高い状態が続いていたために、ハードルの高い依頼でも結局受けてしまっていた事が多かったのかなと思っています。そしてその現実と期待のズレが、人間関係においても自己と他者の境界線を曖昧にさせていた可能性があると今では考えています(それが正解だとも言い切る事は出来ませんが)。

「潜在的な自分への期待」がもたらす影響

①知覚しにくい

 この「潜在的な自分への期待」は非常に厄介だと思っています。何よりまず顕在化しにくいので、期待という感情そのものを知覚しにくいという特徴を持っています。相手からの依頼を断ってその後に罪悪感を抱いたとして、それは普通であれば相手に対して抱いてしまっている感情だと思います。ただ私の場合はそれだけではなく、「自分自身が潜在的に持っている期待を裏切った」事でより強い自責感情が生じ、罪悪感が生まれている可能性があるのですが、これは非常に構造的に気付きにくく、自覚出来るようになるまでに長い時間が必要でした。

②変容しにくい

 潜在的な自分への期待は、無意識、無自覚に自分の認知や判断に影響していると考えると、いわゆる「スキーマ」とも密接に関わっている存在かもしれないと考えています。そうなると、おいそれと手を出せない難しさがあります。要するに「自分はこんな期待を持ってるんだな。よしじゃあその期待をこう修正しよう。えいっ」みたいなノリで、少し意識してぐらいで変容させる事は(少なくとも)私にとっては極めて難しい事でした。字面としてそれっぽい事を考えてそう思い込もうとしてみても、全く納得できていないし、なんというか、「沁みてこない」ような不発感が拭えません。例えば塩を舐めて「これはしょっぱくない」と頭の中で唱える事は簡単ですが、実際に「しょっぱくない」と「感じる」かどうかは別、という話に似ています(少し極端ですが)。じっくり時間をかければ変えていける可能性はあるかと思いますが、気付いて即どうにか出来るものでは無いかなと思っています。

潜在的な期待の対処法

 と、いうわけで最後は自分なりに考えた潜在的な期待の対処法です。対症療法的なものしか今は手持ちにありませんが、いくつか例示したいと思います。
①そういうものを自分が抱いているのだという自覚を維持する
 こういう期待を自分が抱いている事を「自覚」するという事がまず一つのハードルだと思っています。自覚する事で、それを踏まえてその感情に揺さぶられて意思決定を誤らないようにしたり、その後の気分の変動に対しての動揺が多少なりとも少なくなると思っています。

②感情のざわめきをしっかりモニタリングする
 どうしても、潜在的な自分の期待を裏切るような判断、行動をすると気分がざわつきます。酷く落ち込んだり、逆にイライラしたりします。
 でも、それは私は今は「仕方のない事」だとある程度割り切っています。そして、その感情を無闇に否定する事で余計苦しくなることを避けるために、自分の中に起こる感情から目を逸らさずに眺めて、なるべくそれを「受け入れる」というスタンスが、今は大事かなと思っています。

③否定するのではなく、別の価値観と共存させるようにする
※これは大分表現が比喩的になっているので、訳が分からなかったらごめんなさい。
 これは①②が出来ている前提ですが、ある程度揺らいだ感情に対して、それを受け入れつつも「でも〇〇の方が大事だし、今はこうした方がいいしね」と、共存しにくい価値観同士をその潜在的な期待の隣ぐらいに置いておきます。そしてそうすることをちゃんと自分自身で認めてあげて、そのどちらにも居場所を与えてあげる事が大事かなと思っています。自分の中に存在する「矛盾」を無闇に否定するとかえって苦しくなると経験上思っているので、その矛盾同士どちらにも居場所を与えてあげて、今の状況に応じて優先する価値観をちゃんと決める。このスタンスを維持する事が、日常生活に支障をきたすレベルで辛くなってしまうことを回避する上で大事かなと思っています。

おわりに

 あくまで上記3つの対処法は私の経験で何となく考え、実践している事です。正解なのか、不正解なのかはよく分かりません。もし似たような事を考えて色々取り組まれている方がいらっしゃいましたら、他に良い方法があれば教えて頂けると嬉しいなと思います。
 境界線(バウンダリー)という言葉に触発されて今回の記事を書いてみましたが、結論としては、「他者との境界線も大事だけど、自分の中の心の階層構造を良く分からずにいると、そっちに振り回されることもあるよ」という所になるのかなと思います。まず、自分自身がどうしたいと考えているのかをきちんと自覚する。それがそもそも出来ていない人も、意外といるんじゃないかなと個人的には勝手に考えています。今回かなり偏った内容の記事になってしまったかもしれませんが、少しでも何かの参考になれば幸いです。

 私のnoteでは、心理療法を独学でやってみている方向けに、自身が過去に取り組んでみた心理療法の感想やそれらに類する事で気付いたポイントなどを記事にしていきたいと思いますので、興味のある方はまた読んで頂ければ嬉しいです。それでは。

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