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人間関係における「境界線(バウンダリー)」の大切さ:完全版

※すでに書いた記事を、セミナーのために表現を整理してくっつけたものとなります。

みなさんは、以下の中で当てはまるものはありませんか?

  • 本当は断りたいことにも、「イヤ!」を言えない

  • なかなか助けを求めて、相談することができない

  • 本当は自分の責任ではない事柄に対しても尻拭いばかりしている気がする

  • 忙しい時でも、相手から求められたら断れない

  • 相手のちょっとした言動がいつまでも気になってしまう

  • 他人が怒られているのを見ると自分のように感じてしまう

  • ある特定の人(親や友人)と関わると、ドッと疲れてしまんだり、いつまでも落ち込んでしまう

  • 不倫など辛い恋ばかりしてしまうが、別れることはできない

  • ついつい世話を焼いてしまう

  • DVやモラハラなど、暴力をふるわれる、あるいはふるってしまう

  • 相手の言いなりになる、あるいは言いなりにさせようとしてしまう

  • 上下関係になっている、あるいは上下関係を作ろうとする友人がいるが、関係を切ることができない

このことは「自他の境界線(バウンダリー)」ができていないことで起きているかもしれません。今日はこの自他の境界線についてお話しできればと思います。

バウンダリーとは何か?

現実のバウンダリーと心的なバウンダリー

まず、バウンダリーとはなんなのでしょうか。

私たちの生きる世界は、境界線によってさまざまに区切られて構成されています。私たちもフェンスや壁によって、自分の領域を示さなくてはなりません。それは他人は許可なく入れないこと、そこで起きることの責任者を示すものであり、またそれに守られることで私たちは安心できるのです。

それは、心の世界でも同じです。境界線を区切ることで自分の領域を示し、良いものを取り入れて、悪いものを外に出して、その内部を健康な状態に保たなくてはいけません。しかし現実世界とは異なって、心の世界には目に見える壁やフェンスといったものは存在しません。そのため、どこからどこまでが自分の事柄であり、そしてどこから先が他人の事柄なのか、明確に区別することが、心的な世界においてはなかなか難しいのです。

今日お話しするのは、主に心的なバウンダリーのことになります。バウンダリーをここで定義するのであれば、精神的な領域において、自分がどこから始まってそして終わるのか、そして他者はどこから始まるのかを明確にするような心の働きである、と言えます。

バウンダリーの働き

それでは、バウンダリーはどのような働きをするのでしょうか。一通りの働きをあげていくこととしましょう。

①自分と自分でないものを区別する

私たちは、自分の身体、精神、人生といったものを「所有」しています。所有権を主張することができる場所では、私たちは自由に振る舞うことができますし、そしてその中で起きたことに対しては責任を持つ必要があります。

反対に言うと、自らが所有していないもの、すなわち他人の身体、精神、人生といったものに入り込む時には、相手の許可が必要になります。私たちはそこでは自由に振る舞うことはできませんし、そこで起きた結果については相手に降りかかることを理解しなくてはなりません。

自分の家であれば自由に冷蔵庫を開けてもいいですが、他人の家の冷蔵庫を開ける時は一言必要ですよね。自分の家ではコップを落として割ってしまっても自分の責任で対処すればいいですが、お店で許可なく触って壊してしまっては大変です。

バウンダリーは、自分の自由の範囲と、責任をとるべき範囲を明らかにしてくれます。この区別が曖昧になってしまうのであれば、本来自由であるべき場所で不自由になってしまったり、責任をとれないようなことまで責任を負わされることになってしまいます。

②人間関係の中で負うべき負荷の量を教えてくれる

私たち人間は、社会的動物です。その生命を維持する根幹の部分で、家族、地域、国家など、他人との関わり合いを前提としたシステムの中で生きています。もちろん、まずは自分自身のことについて第一に責任を持つ必要があります。ですが、全く他人に対して責任を持たなくても良い、ということにはいかないのです。

言い換えるのであれば、私たちは自分自身のことだけでなく、ある程度は他人に対しても責任を持たなくてはありません。ですが、私たちが自分で背負うことができる荷物の量は異なっています。時にその荷物があまりにも大きい時は、潰れてしまうことになります。

このことは「負荷」と「重荷」という言葉で分けて考えると良いでしょう。私たちは自分で持ち運びできるぐらいの量の荷物は、カバンに入れて自分で持たなくてはなりません。カバンが空いていれば、そこに近しい人の荷物を入れてあげたり、目的地で使うようなものを持っていくことは必要です。それはまた「負荷」と言える範囲です。しかしあなた自身の体調が良くなかったり、あるいは他人の分の荷物をあまりにも多く引き受けてしまうと、それは「重荷」となってしまいます。そうした時には、誰かに荷物を引き受けてもらったり、整理してもらったりすることが必要です。

バウンダリーはどこまでが自分が負うべき負荷で、どこから先は他人にお願いしていい重荷なのかを教えてくれるものとなります。

バウンダリーの感覚がないことは、背負い込みすぎに繋がります。例えば未成年者に対しては、とりわけその養育者は大きな責任を持っています。しかしもう一人のパートナーにも責任があります。また他の大人もまた全ての子どもの養育に対してある程度の責任を持っているのです。母親の仕事だからといって重荷を抱え込む妻、そしてパートナーに負荷を押し付けて家庭を顧みない夫、また「勝手に産んだんだろ」といって子育て支援の充実に反対するような有権者たちといったよく見られる構造は、バウンダリーの観点から見直されて良いでしょう。

また反対に、自分が背負うべき負荷も誰かに押し付けてしまうということもあります。自分の作った借金の返済を押し付けてしまう夫、妻、子どもといった存在を時折見ます。小学生に何キロもあるランドセルを背負わせる必要はないでしょうが、だからと言って手ぶらで登校することが正しい姿ではありません。ナップサックに入るぐらいの簡単なものを持ってもらうぐらいの負荷は子どもでも担うことができます。大人であれば、なおそうでしょう。バウンダリーは、人間関係の中で負うべき適切な負荷の量を教えてくれるものになります。

③良いものをとりこみ、悪いものを排出する

また私たち人間は、他者との交流の中で良いものを自分の中に取り込み、悪いものが入らないようにブロックし、そしていらないものは排出していかなくてはなりません。自分の敷地内には価値あるもの、新鮮なものを取り入れて、悪いものは入らないようにブロックして、価値がないもの、汚いものはゴミとして排出する必要があります。それによって、私たちは自分自身を良い状態に保つことができるのです。

これは精神的な領域でも同じです。バウンダリーはいわば浄化機能です。他者からの優しい言葉やねぎらい、有益なアドバイスは積極的に自分の心の内側に受け入れる必要があります。一方で自分を傷つけるような悪意や敵意は入らないようにブロックし、自分の中にある問題やドス黒いものは、それが腐って周囲に広がる前に、相談やグチによって自分の心の外側に出さなくてはなりません。そうやって心の内部をクリーンな状態に保つことは、精神的健康のためにとても重要なことになります。

しかしバウンダリーが曖昧な場合、そうした浄化機能をうまく働かすことができなくなってしまいます。本来「イヤ!」とブロックしなくてはならない悪いものに「イヤ!」をいえず、一方で受け取るべき良いものをうまく受け取れず、そして相談や愚痴によって溜まったものも排出もできないのです。

それどころが自分の領域を「汚くて当然だ」と思い込むことによって、良いものを排出し、悪いものを取り込んでしまうという、全く反対の状態が作り出されてしまっている場合もあります。こうなると、不法投棄現場にゴミが集まるように、そうなるとどんどん他人から汚いものを投げ込まれることすらあります。バウンダリーの機能をしっかり働かせることによって、私たちは自分の内側をきちんとクリーンなもの状態に保つ必要があります。

④人間的な成熟を導く

私たちの人生は、バウンダリーを構築していく過程です。出生によって母胎から切り離された幼児は、「共生関係」という心理的に母子が一体となった状態になります。共生関係においてはバウンダリーは全く存在しておらず、しかしそれゆえに深い満足感を得ることができています。

やがて子どもは母親から独立した存在となっていき、徐々にバウンダリーを確立していくことになります。しかし人間は生涯にわたって、どこかでこの共生関係への憧れを維持し続けます。バウンダリーの構築ではなく、それを解体し誰かと再び溶け合ったり、あるいは支配したりしたいという欲求を持っているのです。

バウンダリーの感覚がないにも関わらず、一見すると困っておらず、あまつさえ社会的な成功を収めているように見える人がいます。それは相手を搾取している人です。確かにバウンダリーの感覚がなくても、奪われるのではなく奪う方に回れば、搾取によって物質的な満足を得られるかもしれません。実際にそうしたことを推奨するような人は、少なくないように見えます。

しかしそれは、幼稚な満足感に過ぎないものです。バウンダリーを構築することによって、私たちは自己中心性から抜け出し、他者のみならず、より広い視野をもって、複雑で曖昧な人生をより受容できるようになっていくのです。これは「成熟(Maturity)」と呼ばれるものであり、それを通してより深い人生の満足を得ることができるのです。

どのようにバウンダリーは現れるか

では実際にどのようなものがバウンダリーを引くものになるのでしょうか。いくつかわかりやすい具体例をあげていきましょう。

肌と言葉

まず最も基本的なバウンダリーは、現実的な境界でもある肌となります。相手に触れることは許可が必要です。バウンダリーの感覚が曖昧な人は、他人の身体にも侵襲的に振る舞うことがあります。反対に身体的な接触があるところでは、バウンダリーの感覚が曖昧になってしまうこともあります。そのもっとも代表的なものはセックスの体験です。そのため恋人関係・夫婦関係ではバウンダリーの問題が頻繁に生じるのです。

次に基本となるのは、言葉によるバウンダリーです。端的な「イヤ」や「やめて」などの言葉は、明確な境界線を引くものとなります。そのため個人の言葉を受け取ってもらえない環境や関係性においては、バウンダリーの侵害が生じやすくなってしまいます。また言葉は「私は〇〇が好きで、◇◇は嫌いだ」「私は〇〇はやるけど、◇◇はやらない」といった仕方で、自分の領域を示すものもあります。そのため、そうした言葉を他者によって奪われてしまう環境においては、バウンダリーは曖昧にされます。例えば「女の子だから◯◯が好きなのはおかしい」とか、「男の子なら◯◯すべきだ」とか、「私の子どもなら◯◯じゃないと」とかいった言葉がそれに当たります。

距離・時間・感情的な距離

物理的な距離も、バウンダリーを引くためには有効です。相手が自分の領域を侵害した時に自由にそこから離れられる環境においては、バウンダリーは明確なものとなります。反対に物理的距離を取ることが困難な場所、例えば家族や閉鎖的なコミュニティにおいては、バウンダリーは不明確なものとなります。バウンダリーが曖昧になると、さらに物理的な距離を取ることが困難になってしまい、いつまでも危険な関係に留まり続けるという負のスパイラルに陥ってしまうという問題もあります。

距離と同じような働きをするのが、時間です。物理的距離と共に時間的な距離も、バウンダリーを引くことに役立ちます。バウンダリーが曖昧になりやすい、とりわけ親子関係などで一度距離を取ることが有効なのは、物理的距離と共に、時間的距離が効果を発揮するからになります。バウンダリーが曖昧な場所では、時間感覚も変化します。過去に起こった出来事であるにもかかわらず、ほんのついさっき起きたように感じるのであれば、それはバウンダリーの感覚が曖昧になっているために生じている可能性があります。トラウマ記憶によって生じるPTSDフラッシュバックは、その最も極端な形になります。

感情的な距離を取ることも、バウンダリーを引くためには有効です。これは結果に対する責任を取らせる、つまり「ゆるさないこと」と言い換えることができます。全てのことをゆるしてあげるということは、愛ではなくバウンダリーの感覚の混乱によって引き起こされる無責任から生じるものになります。私たちは自分のバウンダリーを示すことによって、相手にも自分のバウンダリーを守るように促すことが必要なのです。そのために、時には怒りなどの負の感情を背負わなくてはならない時もあります。なんでもゆるさなくてはならないというような、無条件なゆるしが暗にでも求められるような環境においては、バウンダリーは曖昧になってしまうのです。

バウンダリーの中に含まれるもの

では、バウンダリーの中に含まれるもの、言い換えるのであれば自分が所有権を主張すべきものとは、一体なんになるのでしょうか。

感情、信念、思考

まずは、感情になります。私たちは、自身の感情を所有していますし、その必要があります。感情によって、私たちは今の自分の状態を把握したり、月になすべき行動とは何かを判断することができます。時に感情は私たちを苦しめることはありますが、しかしその感情自体はあなたのものであり、その存在を否定する必要はない。ましてや「なんでそんなに怒っているんだ!」「せっかくやってやったのに、なんで喜ばないんだ!」など、他人がそこに口を出す権利はありません。

次に、信念になります。私たちは他者、人生、仕事、人間関係など、さまざまなものに対する向き合い方や態度について所有することができるし、その必要があります。支配的な人物は、こうした信念を侵食しようと試みます。嫌なことに「イヤ!」を言えないよう、それどころかイエスを言わせるようとしてきます。「お前はおかしいんだ」「こう考えるのが普通だろう」「バカだから代わりにやってやる」「親の言うことを聞いていればいい」といったニュアンスの言葉は、バウンダリーを侵犯しています。

思考も同じです。私たちが普段考えていることは、さまざまなものの影響を受けています。どこまでが自身の思考で、どこからがそうでないかについて知るためには、自分の思考についての思考、すなわち反省・内省をする必要があります。しかし知らず知らずの間に「◯◯すべきだ」「◯◯しないといけない」といったような仕方で、別の人から植え付けられた思考が入り込んでしまっていることは珍しくありません。適切な距離にいる他者との関わりの中にいると、それが決して自分自身の思考でないことに気づくことがあります。

行動、選択、価値観

そして、行動になります。私たちは行動とそれがもたらす結果についての責任を所有することができるし、その必要があります。あなたの行動は、あなたのためになされることが基本です。あなたが給与や、やりがいを持つために、働くのです。親や周囲の期待に沿うために働くのではありません。最終的な責任が放り込まれるのは、あなたの境界線の内側なのです。もしそれが他人の領域に行き着くように見えるのであれば、何かがあなたのバウンダリーを侵害しているかもしれません。

同じようなものとして、選択があります。バウンダリーの混乱につけ込んで、あなたを搾取しようとしている人は、こうした選択の権利を奪おうとしてきます。あるいはもっと巧妙に、私たち自身が選択したように誘導していくことがあります。こうした罠にハマらないためにも、しっかりと自分の選択を所有しなくてはなりません。反対に負いたくない責任を逃れるために、本来は自分がしなくてはならない選択を他者にしてもらいたくなってしまうこともあります。しかしそうだとしても、最終的な責任は自分に属してしまうということを理解しなくてはなりません。

価値観も自身のバウンダリーの中になくてはなりません。私たちは何が価値があるかの判断を、ほとんど「周囲の人が何を価値あるものとするか」という外的な基準に求めてしまいます。そのため本当に自分自身が好きな内的な価値を見つけることができないし、肯定することできなくなってしまいます。そうした内的な価値は、生理的な水準に属するものなのでしょう。こうした内的な価値は他人からの評価に依存していないため、ブレることが少なく、安定した自己評価の基盤となることができます。もし自分の境界線の中にある価値観を発見することができれば、それは豊かな人生を送る重要なリソースになります。最も身近な内的価値は「推し」になるかもしれませんね。

限界、才能、願望

また私たちは、限界をもバウンダリーの中に含んでおく必要があります。つまり他人が自分の所有地に入ってきた時に、どのようにそれを制限し、リアクションをするかを定める必要があるのです。またこれは、自分が背負うことができる、他人に由来する負荷の許容量を定めるものにもなります。これがないと、どんどんと重荷を引き受けてしまってパンクしてしまいます。

他にも、私たちのバウンダリーの中には、自らの才能や力といったもの存在します。ドラマ「セックスエデュケーション」には、親の期待に応えて水泳選手になるべく厳しいトレーニングを課せられた、生徒会長のジャクソンの姿が描かれています。しかし彼はそのことに悩み、親に対してNoを告げ、自分自身のためにその才能を使うことを選ぶことになります。ジャクソンにまつわるエピソードは、彼とその親たちとの、バウンダリーを巡る葛藤と勇気が表現されたエピソードになります。

そして私たちのバウンダリーの中には、願望や欲求も含まれます。バウンダリーを巡る問いの中核にあるのは「私が本当にしたいのは何か?」という、願望や欲求の問題です。バウンダリーが曖昧な時には、願望は本物を装って現れます。自分で本当の欲望を所有できていないがために、他人に合わせた欲望として表出されてしまうのです。典型的な例としては、本当に求めているのは無条件な愛情であるにも関わらず、相手に合わせて自分を差し出すセックスの欲望としてそれが表現されるため、いつまでも本当の欲望の充足がされずに苦しみ続けてしまうということがあります。人生における本当の充足感を得るためには、自分の欲望を持ち、それを正しく追い求める必要があります。時にそれは、成人してしまった大人には手に入れることができないような、親の無償の愛のようなものであることがあります。それを断念することには痛みを伴うものの、バウンダリーの感覚があればそれを受け入れることができるのです。

バウンダリーの混乱のパターン

それでは、自他の境界線に問題を抱えたり、混乱がある人にどんなことが起こるのか。いくつかの典型的パターンについて述べていきましょう。

「イヤ!」が言えない:「迎合」タイプの境界線摩擦

まず問題となるのパターンは「イヤ!」が言えないことです。「イヤ!」が言えないと自分の中に悪いものが入ってくることを防ぐことができません。また、「イヤ!」を言えない人は、グチを言えない人でもあります。こうなると自分の内側に悪いものが入ってくるばかりで、自分の中から悪いものを排出できず、溜まり続けてしまいます。

なぜ「イヤ!」が言えないかというと、自分と他人との境界線が曖昧になっており、他人の必要や要求がいつの間にか自分の中に溶け込んでしまうからです。知らず知らずの間に、相手に合わせた思考、感情、行動をとってしまうために「イヤ!」を言えなくなるのです。

このタイプの境界線摩擦は「迎合」タイプと呼ばれています。「イヤ!」と言えない理由を聞くと、相手の感情を傷つけたくない、見捨てられたくない、依存していたい、怒りを向けられることが怖い、罰せられることが怖い、恥をかくことが怖い、罪悪感を感じたくない・・・といった答えが聞けます。しかし、これらはいずれもバウンダリーの混乱に由来するものなのです。

気をつけなくてはならないのは、こうした「イヤ!」と言えないことを、本人だけの問題にしてしまうことです。後にも述べますが、バウンダリーの混乱は、原家族との関係やトラウマ体験に由来します。そうした人は「イヤ!」ということがとても難しく、それゆえに再被害を受けやすくなってしまいます。周囲のみならず、本人も「イヤって言えない私が悪いんだ」と思い込んでいることがほとんです。しかし、こうやって本人の意志の問題としている限り、問題は一向に解決しないどころか、悪くなっていくばかりなのです。

バウンダリーの問題があることがわかったら、その解決に向かう必要があります。ただしその方法は、本人の意志の問題とすることではありません。

イエスと言えない:「回避」タイプの境界線摩擦

次に問題となるのは「イエス」と言えないパターンです。これはつまり、自分にとって良いものに「イエス」といって、それを取り込むことができない状態です。支援者や自分を助けてくれるような人から手を差し伸べられたとしても、それを断ってしまうのです。

なぜイエスと言えないかというと、自分の問題や当然の必要を何か悪い、破壊的な、恥ずかしいものと感じてしまっているからです。そのせいで、自分の必要性を認識し、他者に助けを求めることができません。自分の問題を外に出さずに、自分で抱えるべきだと強く思っているのです。

このタイプの境界線摩擦は「回避」タイプと呼ばれています。これもバウンダリーの混乱から引き起こされています。境界線がないから、自分の内面を全て相手に晒すか、それとも完全に隠すのかの二択しかなくなってしまっているのです。一度相手に弱みを見せたら、全部相手に知られてしまい、支配されてしまうと感じてしまうから、一切話すことができないのです。その一方で、事情を知らない他者に一方的に自分の都合の良いことを話すことはできます。だから本当に必要な支援にはつながらないにも関わらず、登場人物だけが増えていき、余計に問題が混乱してしまう、なんてこともあります。

この「イエス」と言えない問題も、本人の意志だけにしては解決しません。良いものを取り込まない理由の一つとしてあるのは、自分の境界線の内側であるはずの家族でこそトラブルが起きてきた、という経験をしていたということです。例えば学校でいじめられていた、というようなことを子どもが相談すると、家族が本人の意向を無視して学校で暴れてしまう。自分の弱いところを相談すると、もっと大切なものが奪われてしまう気がする。だからこそ相談できないでいると「あんたは何も言わない」と怒られたりする。バウンダリーの侵犯された家族においてよく見られるこのパターンが、回避に帰結してしまうのです。これを自分の意志の問題としてしまっては、結局同じことの繰り返しとなってしまいます。

「イヤ!」を受け入れない:「支配」タイプの境界線摩擦

先の二つは対人関係の被害者に見られますが、加害者に多いパターンも見ていきましょう。まずは、他者の「イヤ!」を受け入れない場合です。相手に「イヤ!」と言われて境界線を示された時、それを踏み躙ってしまう人や、相手を操作することによって譲歩を引き出そうとする人が、これにあたります。

このタイプの境界線摩擦は「支配」タイプと呼ばれています。明確に他者の境界線を侵犯していく強引な支配者タイプと、巧みにこちらの要求をのませる巧みな支配者タイプという二つのサブタイプに分けることも可能ですが、多くはこの二つは入り混じっています。しばしば用いられるのは、相手の罪悪感を利用することです。「家族なんだから協力すべきだ」「恩返しをしろ」というようなやり方や、時には「もう死ぬしかない」などという脅迫も用いられます。

もちろん、自分だけでは背負うことができない重荷に対して、他人の手を借りてなんとかしようとすることは大切です。しかし本来は自分自身で背負わなくてはならない責任を他人に押し付けてしまうのが、この支配タイプの問題となります。

こうした対人関係のパターンに駆り立てられてしまうのは、多くの場合、その人自身がかつてバウンダリーを侵犯され、他人の重荷を背負わされたという過去があるからであす。「これだけ背負っているのだから、私の重荷も誰かに背負ってほしい」と思ってしまうが故に、こうしたことをしてしまうのです。

しかしこの支配のパターンを用いていては、決して人とは親密になることはできないのです。彼ら・彼女らは、自分の周囲にいる人たちが、みんな恐れや罪悪感、依存関係の故に一緒にいるのだということに気づいています。そしてもし操作することをやめたら見捨てられるという孤独感への恐れがために、そうした行いをやめることができないのです。

イエスを受け入れない:「無反応」タイプの境界線摩擦

最後の問題はやや特殊です。これは本来なすべき関わりをしないこと、つまり他人と交流して、そこから肯定的な「イエス」を受け入れずにいるというパターンです。

このタイプの境界線摩擦は「無反応」タイプと呼ばれています。私たちは、誰しも「一定の限度内で」他人の面倒を見たり助けたりする責任があります。例えば金銭的・物質的な面だけで繋がっており、情緒的な事柄に対しては全く繋がりがない家族というものが、この無反応タイプの境界線摩擦を起こしていると言えます。

こうした情緒的ひきこもりは、時に生来的な特性に由来することがあります。しかしそうであったとしても、健康的な愛着関係を築くことが幼少期にできていれば、他者と情緒的な交流をすることは十分に可能になると思います。

バウンダリーの成立過程

それでは、バウンダリーがどのように成立するのか、ここではその過程を振り返ってみましょう。

共生関係と自己の成立

生後しばらくの間、子どもは母親との間に「共生関係」という、まさに一心同体の時期があります。全てが満たされた母胎から切り離されるという体験は、凄まじい不安と恐怖感に満ちたものです。そこで幼児は母親と一体となることによって、安心感と愛着を得ることになります。

この共生関係におけるつながりは「基本的信頼感」と呼ばます。基本的信頼感は、その後の人生の中で経験する、ありとあらゆる繋がりの基礎になります。そのため共生関係においてはバウンダリーは存在していないものの、その経験の上にバウンダリーが生まれるものになるのです。

そのため、基本的信頼感への深刻な脅かしであるトラウマ的出来事が起こると、バウンダリーの感覚は必然的に無茶苦茶になってしまうのです。また、共生関係はどのようなつながりよりも強いものの、私たちがひとりの人間となるためには手放さなくてはならないものです。そのため成長してから生じる共生関係は、大人としてふさわしくないものとなってしまうことがほとんどになってしまうのです。

分離と個体化

さて幼児が安心感と愛着を得るようになると、子どもは自分と母親とは異なる存在であることに気づき、自律性や独立心が現れ始めます。母親から離れて自分を成立させるという「分離」と、それを発達させていくという「個体化」の過程に移るのです。子どもは母親から徐々に離れていき、やがて外の世界に対して積極的に興味を向けていくことになります。

するとその過程の中で、必然的に親や世間との対決が生まれることになります。それが表現されるのは、「イヤ!」という言葉なのです。バウンダリーは、この「イヤ!」という言葉から生まれます。

ナガノ『ちいかわ(1)』

「イヤ!」の言葉は、子どもが自分が好きではないものから自分を分離させる、というバウンダリーの機能を持っています。そしてもう一つの大切なことは、「イヤ!」の言葉を発する時に、自分には拒否する力と権利があるのだという感覚を持つことができるということなのです。イヤイヤ期になんでも「イヤ!」というのは、子どもが有力感を持とうとすることの表れです。

「イヤ!」は人間にとって最も大事な言葉の一つです。「イヤ!」が正しく機能する環境においては、自己の安全や権利は確立しています。そのため、子どもの「イヤ!」という権利をいかに尊重し、育て上げることができるかということは、その後の人生におけるバウンダリーの形成に大きく関わることとなります。

社会性の獲得のはじまり

やがて子どもは、養育者以外の他者がいることも認識していくことになります。社会という環境の中で、そうした他者とつながりながら生きていくという、社会性を獲得していくことが求められるようになるのです。

その過程で子どもにとって大きな課題になるのは、他人の「イヤ!」も尊重することが求められる、ということです。自分の要求には限度があり、もしそれが他人の境界線とぶつかってしまうのであれば、そこでストップさせなくてはいけないことを、子どもは学ばなくてはなりません。

ただし、これは自分の「イヤ!」と相手の「イヤ!」がぶつかった時、交流を辞めてしまえばいい、ということではありません。そうではなく、相手とのつながりを維持したまま、双方の「イヤ!」を調整することが求められるのです。その調整の際に参照されるものが、道徳や倫理といったもので定められた規範です。それらが正しく用いられるのであれば、その中には私たちが共生していくために必要な知恵が定められており、葛藤状況において、自他の境界線を引くことを助けてくれます。反対に言えばそうしたルールが届かない環境であったり、あるいはそれが捻じ曲げられて「支配」タイプの人に用いられるのであれば、境界線の侵犯は容易に生じることになってしまいます。

共生関係から分離と個体化へと移行し、社会性の獲得がはじまるのは、大体3歳ぐらいまでです。この時点で、以下の自他の境界線を確立するための3つの能力をもっていることが理想です。

  1. 自分を大事にしながら、他者と感情と結びつく能力

  2. つながりを失うことを恐れずに、他者に適切な「イヤ!」をいう能力

  3. 相手から離れることなしに、他者の適切な「イヤ!」を受け入れる能力

この能力を獲得することは簡単ではありません。大人ですらできていない人が少なくないでしょう。これを3歳の段階で達成するためには、本人の素質と養育者の知恵とセンスが必須となります。最初の一年は無償の愛情をひたすら注ぐことから始め、その後は段々と「イヤ!」を使う自身の能力と他者のそれを尊重する能力を育てる必要があります。そのためには、親自身が確固たる限界の設定する一方で、子供の自主性を尊重するという難しいバランスを達成しなくてはなりません。

親離れと自立のプロセス

3歳以降、子どもはアイデンティティの確立と自己調整の力を発展させていくことになります。その作業の中で、バウンダリーを確立することは必須の要素となります。またそれは、子どもが年齢に相応な行動ができるようになることにもつながります。

学童期には、学校での勉強や遊びを通じて、子どもらしく伸び伸びと過ごすことに加えて、相応の社会性を身につけていく必要があります。自分らしさを失うことはなしに、計画を立てて課題を最後まで取り組むことができるような自制心を身につけていかなくてはなりません。とりわけ日本の学校は「みんなと一緒」という同質性が求められることが多く、そのことがバウンダリーの問題に影響することは珍しくありません。つまり「みんなと一緒」であることが重要だという価値観が、バウンダリーの中に入り込んでしまうのです。

中学生ごろから始まる青年期においては、アイデンティティの確立に向けての準備機関として、さまざまなことが課題になりえます。自意識の高まり中で、恋愛関係や複雑な友人関係といったものを乗り切るためには、安全基地としての家庭をベースにした、しっかりとした自他の境界線の感覚が不可欠です。そのためには、親には子どもを監視し支配するのではなく、それを見守り影響を与えるという「親離れ」そして「子離れ」のプロセスを踏まなくてはなりません。

親は子どもに対して、人間関係、SNS、時間の使い方、金銭の管理などについては以前よりもより自由を与え、同時にその結果については責任を負わせるという環境を用意する必要があります。これは「何があってもあなたの味方である」という親のスタンスが前提となります。絶対に失敗してはならないという有言/無言のプレッシャーをもし親が与えているのであれば、子どもはチャレンジはできません。子どもだけでなく、親の方にもしっかりとしたバウンダリーがあることが求められます。

チャレンジに対して生じる結果は、子どもにとって年相応であり、そしてその行為に見合ったものでなくてはなりません。その範囲を超えるものは、親が責任を持つ必要があります。だからこそ、親には子どものことに対して介入する権利と義務があるのです。しかしそれが行き過ぎてしまうのであれば、子どものバウンダリーの発達を妨げてしまいます。年相応であるなら、行動の責任は子どもが追うべきです。言い換えるのであれば、親と子どもが双方にバウンダリーを築いていくことで、親離れ/子離れは達成されるのです。

こうして子どものバウンダリーは、親から離れひとりの独立した人間となった段階で、完成を迎えます。もちろんこれは、親と子どもの関係が切り離されるという意味では全くありません。成熟した大人同士の関係として、再構築されることになるのです。

バウンダリーと家族

このようにバウンダリーは発達していきますが、その主な場所は家族となります。家族がそこそこ健康か、それともしょっちゅう侵犯されている不健康な家族かによって、子どもの自己像やバウンダリーの発達は大きく異なることになります。それぞれについて、上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』の記述を参考にしながら、以下で見ていくことにします。

そこそこ健康な家族の場合

まずは、そこそこ健康な家族です。「そこそこ健康な家族」の条件とは、まずそこに、いつまでも続くであろうという安定性があることです。いつ壊れるかわからないという緊張感の中では、子どもはバウンダリーを発達させることができません。

次にそれは、自分が中心にいると子どもが感じられる環境である、ということです。真ん中に自分がいて、その周りには自分を助けてくれるような父・母・きょうだいが、次に祖父母やいとこ、その次に友達や近所の人たちがいてくれる。これは中心にある子どもの境界線が、何重にも守られている状態です。『その後の不自由』によれば、これは自分のまわりに「応援団」を持っている状態であると表現されています。

上岡陽江・大嶋栄子『その後の不自由』より

そもそも子どもは、自分自身の中にある感情や思考について、教えてもらうことなしにそれがどんなものであるかを把握することができません。自分の中にある感情や思考といったものがどのようなものかを、周囲から教えてもらわなくてはならないのです。そこそこ健康な家族にいる子どもは、安定していて真ん中にいるので、何よりもまず自分が体験する感情や思考に注意を向けることができるのです。

自分が真ん中にいるので、きちんと自分の痛みを一番の優先にすることができます。さらに応援団がいるから、その痛みも自分だけで背負わなくても良い。抱えきれないものは「誰かになんとかしてほしい」と訴えることができます。そしてバウンダリーの中で慰撫され、勇気づけられるのです。こうした経験があるからこそ、他人に助けを求められたとしても、自分が引き受けれる範囲の問題だけを引き受けることができます。自分は誰かの救世主にはなれないことを自覚できる一方で、応援団としてサポートすることができるのです。

また応援団があることは、生活全体のストレス耐性を増すことになります。会社や学校など外の世界で何か嫌なことがあったとしても、自分のコミュニティがあるなら、そこに戻って外部の価値が全てではないということに気づことができます。そこは「失敗しても大丈夫」だと思えるような環境なのであり、それは新たなチャレンジをよりしやすいものとします。

不健康な家族の場合

それでは、不健康な家族とはどのようなものでしょうか。まず、不健康な家族の基本にあるのは、安心ではなく緊張です。支配や暴力が存在し、いつ壊れるかわからないという、緊張感が常にあるのです。そうした家族の中で育つと、子どもは中心に自分ではなく、他人を置いてしまいます。その他人とは、家庭でアルコールを飲んで怒鳴る父だったり、それに耐えて愚痴をいう母親であったり、贔屓されて優先されるきょうだいだったりします。そうした人物が自分に成り代わり、真ん中に居座ってしまっているのです。

こうした家族の中では、子どもは家族を維持するという調整役を必然的に担ってしまうのです。子どもには、周囲の事柄を自分の視点からしか見ることができないという、自己中心性という特徴があります。これが緊張感ある家庭の状況と結びつけられ「自分が頑張らないと家族が壊れてしまう!」という認知が自然に出来上がってしまうのです。実際、子どもが他の誰を優先して調整役を担うのであれば、緊張は緩和されます。しかしすぐに誰かが起こすトラブルによって緊張が生じてしまい、そしてまたその調整を子どもが行わなくてはならなくなるのです。もちろん、大人の問題は子どもが背負えるようなものではないですから、結果としてその試みは必ず失敗して「自分のせいだ」という自責感と、抑うつへと帰結してしまうのです。

家族の調整役を果たすために、子どもは自分の感情や思考よりも、他人の感情や思考を知ることを優先します。そうなると、自分の気持ちはわからないけども、他人の気持ちはわかるという、逆転した心の構造が出来上がってしまいます。これが「迎合」タイプや「支配」タイプの境界線摩擦の原型となるのです。また、こうなると子どもは自分にとって良いもの(内的価値)で満たされるのではなく、誰かにとって良いもの(外的価値)で満たされることを指向するようになってしまいます。これはしばしば思春期・青年期以降の自己愛の葛藤として表出されます(参考:臨床で扱う自己愛の問題)。

また感情や思考だけでなく、心の「痛み」も混乱していきます。父や母の痛みを自分のものとして背負っていると、今自分が感じている痛みが、自分のものか他人のものかわからなくなってしまうのです。こうなると、何が自分が責任を取らなくてはいけない問題で、何が自分が責任を取らなくても良い他者の問題なのか、全くわからなくなってしまいます。こうして、バウンダリーの混乱が必然的に生じてしまうのです。

そして応援団が不在であるため、子どもは何かストレスがあってもそれを自分一人で抱え込まなくてはなりません。外部の誰かに相談しようものなら、余計に大きなトラブルとなり、最終的に父や母から責められてしまいます。孤立した環境の中で、他人の痛みを背負う一方で、自分の痛みは誰も背負ってはくれません。こうした絶望的な状況が背景にあると理解すれば、もし誰かと繋がることができたときに、強烈な執着と依存の関係が生じてしまうことは想像に難しくないでしょう。

『その後の不自由』ではこの状態を「ニコイチ」と呼び、DVやモラハラといった危険な関係と表裏一体であると指摘しています。健康な人の持つ応援団の距離では、いつ離れていってしまうか不安になってしまいます。だからこそ密着を求め、そしてそれが満たされない場合に攻撃という手段を用いてしまうのです。他人に対しても応援団の距離ではなく、救世主になろうと献身的な犠牲を自ら引き受けようとします。しかし成人した世界においては、幼児と母との間にあった共生関係を維持することはできません。ニコイチの関係はいつか必ず破綻し、そしてまた絶望してしまうのです。

また応援団の不在は、生活全体のストレス耐性を著しく減少させます。かろうじて存在する人間関係やコミュニティに対して、過剰にコミットしてしまうので、ちょっとのミスでも自分自身で許すことができず、強いストレス反応を引き起こしてしまいます。こうした環境では、新たなコミュニティに参加するハードルは極めて高いものとなってしまうのです。

バウンダリーが侵犯された家族

不健康な家族ほど極端ではないものの、子どもの境界線への配慮がなされなかった家族で育った場合、その発達に影響を及ぼすことになります。ここではいくつかそのパターンをあげることとしましょう。

まずは「バウンダリーからの引きこもり」のパターンです。これは、子どもの「イヤ!」に対して、親が一方的に情緒的な絆を切り離すことで対応してしまうことを指します。「そんなわがままな子は、うちにはいりません」というようなメッセージが典型的です。これは、子どもがわがままを全部聞かなくてはならないということでも、怒ってはいけないという意味でもありません。親が子どもと問題を直接話し合うのではなく、情緒的な絆を切り離すぞ!という脅迫を用いてはならない、ということです。ここには「あなたが怒るとお母さん(お父さん)は傷つくの!」と、親の感情を管理する責任を子どもに負わせることも含まれています。実際には子どもは親の感情を管理することなどできませんが、自己中心性を持つ子どもがする勘違いを逆手にとって、そう思い込ませて脅迫しているのです。

次に「境界線に対する敵意」のパターンです。これは、子どもが親から物理的・心理的に独立しようとすると腹を立てるというものです。子どもに対して監督責任がある親は、時に強制権を持つことは正当化されます。しかし、「私の言う通りにしなさい」に加えて、「喜んでそれをしなさい」と強制するのであれば、それは子どものバウンダリーを侵害するものです。「親にたてつくものではありません」というような言葉の裏には、そうした境界線への敵意が隠されています。親は子どもが自分と異なる考えを持つことや、不従順や、あれこれ試して見ることに対して、広い心を持たなくてはなりません。親が敵意を示している状態では、子どもはバウンダリーを発達させることはできないのです。

他には「過度の支配」のパターンがあります。これは、親が子どもに間違った選択をさせまいと厳しすぎる規則や制限を設けることです。例えば「あの子とは遊んじゃいけません!」と交流関係を制限したり、「私の言う通りにしていればいい」と選択を奪ってしまうような場合です。自由に行動して失敗する余地が全くない状況においては、子どもは自らの行動に責任を持つことができず、バウンダリーの感覚を発達させることができません。いくら危ないからといって、SNSや金銭管理といったものについて年相応の自由を与えないことは、結果的に子どもの利益を損なうことになります。

また「限界の欠如」というパターンもあります。子どもの行動に対して一切の限界を設けずに許容してしまうことも、境界線の侵害のパターンです。子どもの失敗をなんでも親が後始末をしてしまう、ということがこれに当たります。これは愛情深さの一つの表現であるかもしれないが、とるべきところで責任をとる方法を学ばないままいつまでもいるのであれば、人生から大きなしっぺ返しを喰らうことになってしまうのです。

最後は「一貫性のない限界」というパターンである。アルコール依存症や精神疾患、あるいはDV・モラハラなど親自身に何か問題があり、その対応に一貫性がない場合、子どもの境界線の感覚は大きく混乱してしまいます。子どもにとって、安定した外部の刺激は必須のものです。親からこれが与えられない場合は、自分でそれをなんとか確立しなくてはなりません。その方法の代表が依存です。ほとんどの場合、このパターンの背後には未治療の親の問題というものが隠されています。親へのサポートを行うとともに、子どもに対して一貫性を持った他者の存在が不可欠となります。

バウンダリーとトラウマ

ここまで家族の問題について扱っていたが、自他の境界線の感覚に深刻な影響を与えるものが、もう一つあります。それがトラウマです。

バウンダリーの混乱と汚れた自己像

ここでいうトラウマとは、単なる嫌な過去の出来事という意味ではありません。実際に死にそうになるような傷害を負ったり、性被害に遭うような経験です。

家族関係とトラウマがバウンダリーに与える影響の性格の違いについては、それを森の木に例えてみるとわかりやすくなります。家族の影響でバウンダリーが十分に機能しないことは、土地がやせていたり、光や水が多すぎたりという理由で十分に木が育たないという状態です。一方でトラウマは、雷が木に落ちるようなものである。それは一瞬で全てのバウンダリーの感覚を焼き尽くすのです。

トラウマは基本的信頼感を脅かすことによって、「世界はそこそこ安全である」「私は自分の人生を所有している」という感覚を揺るがすことになります。こうした状況においては、誰でもバウンダリーは混乱し、他人と距離をとったり、反対に密着してしすぎてしまうことが起きます

また境界線の中にある自己像への傷つきも深刻です。特に対人関係でのトラウマ体験によって、そこにある自己像が「汚れた」ものとなってしまうのです。加害者への抵抗や状況の打開の試みが失敗したという経験によって「こんなことになったのは自分のせいだ」「こんな自分は恥ずかしい存在だ」と自分は汚れてしまっており、もう取り返しがつかないと感じてしまいます。時には、もはや自分は生者ではなく死者だという思いにとりつかれてしまうことすらあります。

トラウマを負うことに責任はなく、そうした扱いは不当です。それに対する行動も、その場では合理的なものです。しかしそのことを頭ではわかっていたとしても、心に自分自身の否定的イメージが刻まれてしまうのです。そしてこうした否定的な自己イメージを、いわゆる「セカンドレイプ」という周囲の反応によって強調されることは、非常に残念なことに一般的なのです。

トラウマと虐待の影響

トラウマ体験を追った場合でも「そこそこ健康な家族で育つ」ことができている場合は、一時的な境界線の混乱はあったとしても、やがて応援団の中でそれを回復させることができます。しかしあまりにもトラウマ体験が苛烈で反復したり、加害者が狡猾であった場合には、バウンダリーの感覚の混乱が継続し、自己イメージの障害や対人関係の障害が生じてしまいます。ICD-11ではこれらは複雑性PTSDの症状としてまとめられています。

またトラウマ体験自体が比較的シンプルだったとしても、不健康な家族や境界線の侵犯された家族で生育していた場合、複雑性PTSDと類似した自己イメージの障害や対人関係の障害が生じることがしばしばあります。これはフラッシュバックなどPTSD特有の症状を伴わないものであり、発達性トラウマ障害や(診断名ではない)愛着障害と呼ばれることがあります。

さらに深刻な場合が、児童虐待です。これは不毛な地で雷に打たれ続けるという状態となります。もちろん、通常のようなバウンダリーの発達は、全くもって不可です。虐待後においては、バウンダリーの混乱によって生じることの全てが起こることが普通です。さらには、現実と空想の境界線をも侵犯され、そのことで統合失調症と診断されるような症状が生まれることも珍しくありません。

児童虐待によって起こる、境界線の中心にある自己イメージの汚染はさらに深刻です。子どもにとって絶対的に力があり、逆らうことができない存在である養育者から暴力を振るわれたり、支配的な扱いをされたりしてしまうことは、子どもにはどうしようもない経験です。しかし、この「どうしようもない」状態を子ども自身が認めてしまうことは、子どもにとって、生きる希望が断たれることと同義です。そのため子どもは、希望を残すために「大人ではなく、自分が悪いのだ」と思い込むことにあります。自分が悪いからこうなったと思い込むことで、その後なんとかなるという希望によって生き残ろうとするのです。

精神科医のハーマンは、これを「加害者の悪を取り込む」と述べています。その結果、自分を「普通の人間関係に入れない人間」と思い、自分は汚れた、世をはばかるものだという自己概念に染まってしまうのです。

こうして取り込んでしまった自己否定感が境界線の真ん中に置かれてしまうと、自分の内側に良いものを全く取り込むことができず、反対にどんどんと悪いものを取り込んでしまうという、健康な人とは逆転したバウンダリーの機能が身に付いてしまいます。それによって自傷や他害、あるいは再演と呼ばれる、トラウマを負った人の一見矛盾するような行動が生じることに繋がってしまうのです。

バウンダリーの混乱によって何が起こるのか

それでは、境界線が混乱したり問題があったりする人は、どのような問題が生じてくるのでしょうか。その人が関わるコミュニティによって、そこで生じやすい問題にはある程度パターンがあります。

バウンダリーが混乱した人に起こること:家族関係

まずは家族関係です。家族と関わるだけで、落ち込んだり、苛立ちやすくなったり、自分を責めてしまい体調を崩してしまうということがあれば、その人は家族との間にバウンダリーの問題を抱えているでしょう。あるいは自分の夫や妻よりも、自分の実母や実父、祖父母のことを優先してしまうことは頻回であれば、そこにもバウンダリーの問題が存在しているでしょう。バウンダリーがないことによって、金銭的にいつまでも実家に依存し、それがないと満足する暮らしができないという状況もしばしば見られます。成人しているにもかかわらず、生活面で自立できずに世話を受け続けているというパターンもあります。

あるいは自分がいないと家族が壊れてしまうからと、いつまでも実家に縛り付けられてしまう子どもも、境界線が混乱させられてしまっています。「ヤングケアラー」として親の面倒を見させられる子どもや、あるいはきょうだいが優先され、あたかもそれの生贄として不当な扱いを受けるような子どもの存在の背景にも、バウンダリーの問題があります。

そしてバウンダリーが混乱した家族の極地にあるのが、児童虐待や家庭内暴力です。逆説的であるが、問題が深刻であればあるほど、それは家族の中で隠匿されやすくなるのです。なぜならそれは、被害者の罪悪感と恥の感覚を強く喚起させるからです。加害者にとってそれを操作することは容易なものとなります。バウンダリーが最も侵害された時に生じるのが性的虐待であり同時に最も強い否認の力が加わる場所になります。

ですが、児童虐待や家庭内暴力がバウンダリーの混乱の極地にあることを理解するのであれば、その隠された暴力に周囲が気づくきっかけを得ることができるかもしれません。それは比較的な小さなバウンダリーの侵害から始まります。例えば、やたらと娘の行動や生活を制限する父親に対する違和感から、性的虐待に気づくというようなパターンです。少なくとも家族の問題に関わる支援者は、バウンダリーの問題の特徴を理解しておいた方が良いと思われます。

バウンダリーが混乱した人に起こること:友人関係

また友人関係です。どちらか、あるいは双方が境界線の問題を抱える時に、友人関係はお互いを満たすものではなくなることがあります。

支配タイプと迎合タイプの関係は、「フレナミー(friend + enemy)」と呼ばれるような一方が一方を支配し搾取するという、破壊的なものとなってしまうことがしばしばあります。操作的な支配タイプの人間は、迎合タイプの人間を捕まえるのがうまいです。「悪い子じゃないんだけど・・・」と言いながら、片方は片方の尻拭いをし続けて、フラストレーションを貯めることは頻繁です。いつも一緒にはいるものの、お互いが相手に合わせていつまでも不満を抱えているというのは迎合タイプ同士の友人関係となります。

バウンダリーが混乱した人に起こること:恋愛関係と性

そして、恋愛関係である。恋愛関係は、バウンダリーの問題が生じやすいポイントです。なぜならそこには性という、境界線が溶け合ってしまう場所が存在するからです。そのため、もともとバウンダリーの感覚が未成熟である人にとっては、より複雑な問題が現れてしまうのです。

バウンダリーに困難を抱える人は、それを成熟させたいと願うよりも、それが確立する以前の母子の共生関係へ回帰したいと思うことが一般的です。主観的には、それは腹の底からの「寂しい」という感覚として生じます。しかし、大人になると母子の共生関係に戻ることはできないのです。しかし、セックスによる肉体的なつながりや、それに対する強力な渇望は、かつての共生関係と重なるところがあります。そのため、一時的にではありますが、その寂しさを紛らわせるという効果があるのです。そのために性的関係をどうしても求めてしまったり、あるいはそれを拒否されると激しい不安や怒りを感じたりすることが起こります。

バウンダリーに問題を抱える人にとっては、バウンダリーを引く努力を恋愛関係において行う試みは、大体は失敗してしまうと考えて良いです。本当は傷ついた人にとって、恋愛関係というものは、癒しを求めるには向かないものなのです。そうした癒しは、恋愛を伴わない友情や尊敬できる大人との関わり、あるいはセラピーの中でゆっくりと育んた方がよいものです。

うまくいく交際とは、お互いがお互いを「試す」ものであり、いつ終わらせても良いという自由がある中で行われるものです。絶対に別れることができない相手との関係の中では、本当の自分/あるがままの自分を出すことは困難です。そうなると相手が自分にとって理想的なパートナーなのか、いつまでたってもわからなくなります。

しかし、バウンダリーに傷を抱える人にとっては、そうした関係は稀になります。大体はニコイチ関係が生まれてしまい、デートDVのような支配関係が出来てしまうのです。

バウンダリーが混乱した人に起こること:婚姻関係

同様に、婚姻関係においてもバウンダリーの問題は生じやすいです。DVやモラハラなどはもちろんですが、どちらかが相手の人格に侵入し、その人の感情や態度、行い、選択、価値観などを支配しようとするのであれば、そこにはもうバウンダリーの問題が存在していると言えます。

恋愛関係と同じく、その混乱は性の問題として生じることがあります。もし婚姻関係の人と肉体関係を持つことがあれば、どこかにバウンダリーの問題が存在すると言えます。

厄介なのは、いわゆる「家父長的」な家族観からは、夫の妻への一方的なバウンダリーの侵犯が正当化されていることです。「妻は夫のいうことを聞くべき」という家族観では、夫は自らの行動に対して責任を持たず振る舞うことが正当化されます。それに対して妻は、「私がいないと、この人はダメなのだ」というように、ケアという権力を通じて対抗することになります。これは共依存の状態であり、これは夫婦間のバウンダリーの消失という状態となってしまう。

バウンダリーが混乱した人に起こること:職場

職場というのも、バウンダリーの問題が生じやすいポイントであるといえます。典型例としては、仕事を押し付けあったり、または抱え込んでしまうという仕事上のものがあります。あるいはハラスメントなどに代表される人間関係の問題もあります。これらはほとんどの場合、「イヤ!」が言えないことによって生じるバウンダリーの問題であるといえます。

なぜバウンダリーの問題が生じやすいのかというと、そこには権力関係が存在するからです。上司と部下という関係が、そもそもバウンダリーの侵犯が生じやすい構造です。さらに、もともとバウンダリーに傷を抱えた人にとっては、かつて両親とあった関係を上司との間に投影しやすくなっています。かつて両親に言えなかったように、自分の上司に「イヤ!」が言えなくなってしまうのです。

また職場でのバウンダリーの混乱は、いわゆる「意識の高い」人にとって起こりやすいということがあるかもしれません。デンマークの心理学者であるスヴェン・ブリンクマンは、自己啓発本が盛んになんでも「イエス!」を言うことを勧めていることを指摘しています。現代においては「イヤ!」と言わないことが、成功への近道であると考えられていると言うのです。

自己啓発本を間に受けてしまうことは、バウンダリーを混乱させることになってしまうかもしれません。自己啓発本やセミナーは、時折会社や組織に対して「求めすぎる」ことを推奨しているように見えます。つまり自尊心や承認などを、「自己実現」として、仕事を通じて追及すべきというような考えです。

しかしバウンダリーに傷があるような人にとっては、そうした自尊心や承認といったものは、親が自分に与えてくれなかったものになります。そうしたものを仕事に求め始めると、決まって問題が起きてしまうのです。仕事が与えてくれるのはそうしたものではなく、給料です。もしそうした自尊心や承認が必要であるのであれば、それは仕事以外の場所で得るべきものです。

またバウンダリーに傷を負った本人だけでなく、経営者も自尊心や承認といったものを仕事を通じて得るように労働者に言うことがあります。それは会社のニーズを、あたかも個人のニーズであるかのように勘違いさせることによって、会社は給与を節約したり、不平等な条件を誤魔化したり、あるいは不都合なことから目を背けることが目的なのかもしれません。

バウンダリーの問題とアディクション

最後に、こうしたバウンダリーの混乱は自分自身に対しても悪影響を与えることを指摘します。バウンダリーの感覚が曖昧であると、外から悪いものが入ってくることを防ぐことができず、またそれを排出できずに溜め込んでしまうことになります。本来はここで他人の助けを借りるべきなのですが、バウンダリーの問題はそのことも障害します。なのでなんとか自分自身の身体のコントロールしようと、自分一人でさまざまなことを行うのですが、背負ってしまっている重荷が大きすぎるあまり、そのコントロールに失敗してしまうのです。その結果としてよく見られるのが、摂食障害、金銭や時間管理の失敗、課題の達成できないこと、そしてギャンブルや性欲といった事柄になります。

これらは依存症の問題と結びつきます。バウンダリーの問題は、嗜癖/アディクションの問題へと帰結することになるのです。これはまた別の機会に論じることとしますが、アディクションの背景にバウンダリーの問題はあることは、とても重要な事実です。

どうやってバウンダリーの問題に対処するのか

ではどうしたら、こうした自他の境界線の問題に対処すれば良いのでしょうか。認知行動療法やアサーション・トレーニングなど、バウンダリーの問題に有効だと考えられる方法は、いくつかあります。しかし有効だと思われる方法には、ある一つの共通項があります。ここではそれを、あえてたった一つの方法として紹介します

(あえて)たった一つの方法

バウンダリーの問題を抱えているのであれば、それに対処する方法はたった一つしかありません。それは質の良い他者とのつながりを作ることになります。ここでいう「質の良い」とは、自分のバウンダリーが尊重されることで安全感・安心感を持つことができて、あるがままの自分でいられるような関係のことを示します。それは自分の応援団にあたる人たちとの関係です。

絆作りが一番、境界線は二番ということが原則です。良質なつながりを欠いている状態では、正しいバウンダリーを引くことは不可能となります。なぜなら、それは相手の自由を認めるという一定のリスクを伴うからです。絶対に失敗できない、この人しかいない、他のどこにも行くことができないという状態では、境界線を引くというリスクを誰も引き受けることはできないのです。

家族関係においてバウンダリーが歪められ、問題が起きているのであれば、家族との付き合い方を変えようと試みる必要があります。ですがそうすることには、一定のリスクが伴います。そのリスクを負っても良いと思えるサポートを受けられるような、家族外での質の良い他者とのつながりがあって、はじめて家族との付き合い方を変えることが可能になるのです。家族以外に良い関係がないのであれば、そこに境界線を引こうという試みたとしても、相手からの強迫や操作という抵抗に屈してしまい、やがて失敗してしまいます。反対に質の良い他者とのつながりがしっかり持つことができれば、物理的にも感情的にもだんだんと適切な距離を取れるようになっていくし、いつか必ず状況が好転するような選択を取ることができるようになります。

恋人や婚姻関係において自他の境界線に問題が生じているのであれば、その関係以外のつながりを持たなくてはなりません。そうしたつながりは、すぐに問題解決を与えてくれるものではないです。バウンダリーの問題が深刻である時には、そうした外部との関わりを切りたくなってしまいます。しかしそこで粘り強くあなたの味方をしてくれる人の存在があるのであれば、良いものを取り入れ、悪いものを排出するという、本来のバウンダリーの機能を生き残らせることができます。結果、一時的にとても辛い経験をするかもしれないが、あなたに応援団がいるなら必ずそれをサポートしてくれます。反対にそうしたサポートが一切ない状況においては、それが自分のためであると分かっていても、そうした選択を取ることはできません。友人関係や職場関係においても、全く同じです。

質の良い他者とのつながりが重要であることは、皆が納得することであるとは思います。しかしここでポイントとなるのは、外部に質の良い他者とのつながりがあることは、問題のある関係性に対して直接的に作用するということです。これは他人から解決策を貰えばいい、ということでは全くありません。つながりそのものがあることが、何より大切なのです。他者とのつながりは、直接的な問題解決に繋がるものではないですが、直接的に問題に作用するのです。

つながりによって問題が解決しないのであれば、では一体どういう変化が起きるのでしょうか。『その後の不自由』の中では、これを「トラブルの質が変わる」と表現されています。変わらずトラブルは起きるのである。しかし良質なつながりがあると、かつてのようにそれが大きなものへと発展しないようになります。すべてが壊れるとか人間関係をなくすということが、だんだんとなくなっていきます。バウンダリーに対して、良質な人間関係はこのように作用します。いうならば、徐々に「ラクになる」のです。

良質な人間関係があるにもかかわらず、もしどうしてもバウンダリーの問題が生じてしまうというのであれば、心理療法やカウンセリングを受けることでそれは改善していきます。良質な人間関係があるのであれば、どんなものを受けても基本的には大丈夫です。時にバウンダリーを侵害するような危険なカウンセラーも存在しますが、良質な人間関係があるのであれば、その支援者と距離を取ることは難しいことではありません。

(あえて)絶対に失敗する方法

質の良い他者とのつながりを作ることが唯一の対処法であるなら、そうでない方法は失敗するということになります。あえて、それを絶対に失敗する方法であるとして紹介します。

それは自分一人でやることです。つまり、バウンダリーの問題を、自分の意思の問題であるとしてしまうことです。代表的なのは「イヤと言わなきゃいけないのに、言えない自分が悪いんですよね・・・」という嘆息です。「イヤ!」と言うためには、良好な人間関係がなくてはいけないのです。それなしに「イヤ!」と言おうとしても、必ず失敗してしまいます。

良好な人間関係の大切さを強調することなしに、「イヤだったイヤだと言ってもいいんだよ」というようなことを言っても、全く解決につながりません。むしろそれはその人の罪悪感を加速し、その人が助けを求めることから遠ざけてしまいます。

逆説的ですが、バウンダリーの問題を抱えている人ほど、こうした自分の意思の問題とすることを好む傾向があります。なぜなら自分一人であれば、バウンダリーが脅かされることはないからです。バウンダリーに問題を抱える人ほど、何か問題を起こした時、すなわち他の人の助けを一番必要としている時に、人間関係から身を引いてしまうのです。

良好な人間関係が存在していない人に「イヤだったイヤだと言ってもいいんだよ」と言うだけで、何かした気になっている支援者がもしいたら、追い詰めるだけで何もしていないことを自覚するべきです。アサーショントレーニングやCBTなどを、良好な人間関係抜きに導入しようとして失敗してしまうカウンセラーも同じです。

バウンダリーへの抵抗

バウンダリーの問題は、常に相互作用があります。もし良質な人間関係を外部で得たのであれば、もともとバウンダリーに問題がある関係においては、必ず支配者側から抵抗が引き起こされます。ある意味それは進歩の印です。しかし虐待やDV関係といった、深刻な侵犯が存在している場合、こうしたものが引き起こされることによって危機が訪れる場合があります。そのようなことが予測できる場合は、信頼できる他者と一緒に対策をしておくことが必要です。

どういった反応が、バウンダリーへの抵抗として生じるのでしょうか。

まず、怒りの反応です。他者の当然の権利であるバウンダリーの設定に対して怒りを示す人は、たいてい自分には特権的な権利があると勘違いしています。誤った境界線を引いて、本来は他者のものに対してまで所有権を主張しているのです。必要なら物理的・感情的な距離を取らなくてはなりません。その人の怒りに共感することは効果的かもしれませんが、それで境界線の設定を取り下げてはいけません。大体はこちらが覚悟を示すと相手へ変化を示しますが、しかしその結果その人が去ってしまうリスクはあります。そのリスクを引き受けることが可能になるのは、他者のつながりがあるからになります。

そして、罪悪感に訴えかけるような言動です。自分の近しい人から発せられる「恩知らず」「自分のことしか考えていない」「私がいないと何もできないくせに」「私が死ねばいいんでしょう」といった言葉に「イヤ!」と言い続けることは、相当に困難です。そうした人たちは、自分が傷ついているのです。しかしその傷つきに対して、責任を負うべきなのは彼ら・彼女ら自身なのです。罪悪感をサポートしてくれるようなつながりをあなたが持つことによって、苦々しさとともに境界線を引くことが必要です。

他にも、結果と対抗措置がある。境界線を設定し、自分の人生の支配権を掌握するためには、何かを手放さなくてはならないことがあります。妻に収入がないということが分かっているからこそ、夫は安心してモラハラ・DVを振るうのです。時にこっそりと準備を進めていくことが有効です。しかしそれを実行したとしても、そしてそこから始まる困難に耐えることは、一人ではとても叶いません。そこでこそサポートが必要となるのです。

バウンダリーを確立しようと助けとなるような、支援者や応援団の人たちは、それが都合の悪い人たちから口汚く罵られるのが常です。支援者はあらかじめそれを予測し、まずは何よりオープンな関係性が大切なこと、そして関係性を閉じさせていくようなベクトルが生まれることを伝えておく必要があります。

もしそうしたチャレンジに対して、支援のつながりが耐えうるのであれば、少なくとも境界線の問題に関しては、必ず状況は好転していきます。また万一そこでつながりが途切れたとしても、良い支援関係が結ばれていたとするならば、まだ希望は残ります。なぜならそこで起きたことは、良いものを取り入れ、悪いものを排出するという、境界線の機能において守られているからです。いつか、再び芽を出す時は訪れるのです。

参考文献

ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント(2004)境界線(バウンダリーズ):聖書が語る人間関係の大原則 中村佐知・中村昇共訳 地引網出版

上岡陽江・大嶋栄子(2010)その後の不自由:「嵐」のあとを生きる人たち 医学書院

スヴェン・ブリンクマン(2022)地に足をつけて生きろ!:加速文化の重圧に対抗する 田村洋一訳 Evolving


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