【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/12)学習ノート③
(ここまでの12月一照塾)
冒頭の約30分、定刻に間に合った人がちょっと得する「一照さんのearly bird talk」は、学習ノート①にて。
11月からのhomeworkをシェアするグループワーク「さすが道元、よく言った!のワーク」前半部分は、学習ノート②をご覧ください。
この学習ノート③では、ノート②に引き続き「さすが道元、よく言った!」のグループワークの後半部分について振り返っていきます。
1. 道元さんの親心の背景にあるもの
(塾生eさんのシェア)
今までの発表でも出てきていましたが、
「夫れ学道とは、道に礙えらるるを求むるなり。」
ここについて、グループの中でもいちばん関心が集まっていました。
ここは、自分のエゴが道からはずれていこうとするのを、道のほうから「こっちじゃないよ」と教えてくれるような…「道が助けてくれる」のではないかと思いました。
〔一照さんコメント〕
「礙えられる」というのは、"邪魔される"というニュアンスを持っているので、意外性というのか…"僕が思っている方ではない方へもっていかれる"というニュアンスがありますよね。
"助けてくれる"というと、何だかありがたい感じがしますが…結局最終的には助けられるのですが、主観的な実感からすると、「礙えられる、妨げられる」という受け止めになるのではないでしょうか。
(塾生fさんの補足)
そこで、この「礙えられる」とはどういうことかというのをグループで話していた時に僕が言ったことなのですが、浄土真宗の教えの理解のしかたで、
「阿弥陀様が僕を救おうとするのだけれど、僕は「そんなことがこの僕の身に起こるはずがない…」と、救いの手から逃げようとする。でも阿弥陀様はそういう奴から救おうとする」
という「摂取不捨」という教えがあるのですが、それとこの「仏道に礙えられる」というのは似ているのではないかと思うのですが。
あとは、用心第九と第十を合わせて読んでみて、それまでの用心第一から第八までとはまた違った、道元さんの「親心」というか、「道を間違えちゃいけないよ!」というのを懇切丁寧に、手取り足取り、噛んで含めるように説いてくれているのを感じました。
〔一照さんコメント〕
「仏道に礙えられる」というのは、人としての受け止め方の実感を正直に書いていると思いますね。道元さんにとっても「道に礙えられて修行させられている」という実感があったのでしょう。
こういう表現は、道元さんが初めて発明したというよりも、仏教の中には既にあるものです。道元さんだけでなくても、僕らの卑近な例を挙げるなら、
「友達が飲みに誘ってくれたんだけど、坐禅の時間があるから、どうしようかな…坐禅しようかな」
…というような感じなのではないでしょうか。たまには飲みに行ったりもするでしょうけどね。
それから「道元さんの親心」ということについてですが、用心の第八の最後のところは、
参学の人、且く半途にして始めて得たり、全途にして辞すること莫れ。
祈祷、祈祷。
となっていて、学道用心集はまずここで一旦終わっているようなのです。
用心第一から第八までを道元さんが振り返って、まだ言い足りないことを付け足したのが第九と第十であるようなので、それまでと強調点が少し違いますね。
『学道用心集』を書いたのは、道元さんがまだお若い頃なので「若いのによくこんな偉そうなことが書けるな」と思うほどですけど。
その頃の道元さんの下にはまだ数は少ないけれど弟子たちが集まってきて、小さいながらもサンガが出来上がってきていました。
◆ 日本達磨宗から来た弟子たちへ向けて
先日の「臘八接心」の期間中に、僕は山形県庄内町にある「見龍寺」というお寺で3日間の接心をしてきました。その接心で僕とコラボ提唱をしてくれた、宮川敬之さんというお坊さんがいるのですが、東大の倫理学科を出た人で、和辻哲郎に関する本などを書いている人です。
庄内空港から見龍寺までの車の中での敬之さんとの雑談で、こういう話をしていました。
道元さんの門下には、「日本達磨宗」という当時の新興宗教出身の人が多かったのだそうです。これは、大日坊能忍という人が開いた、禅宗っぽい宗教で、現在はもう滅びてしまっています。
道元さんにとって最も身近だった、『正法眼蔵随聞記』を書き記した懐弉禅師という人は、この日本達磨宗から道元さんのところへ来た人でした。能忍さんが亡くなった後の達磨宗の二代目の人から「道元さんのところへ行け」と言われて来たといわれています。
懐弉さんのあとに続く、徹通義介禅師や義演禅師も、達磨宗から来た人たちでした。
道元さんにとっては、この日本達磨宗の考えを身につけて道元さんの下へ参じた弟子たちの"軌道修正"が大きな課題だったのでした。
敬之さんと話をしたときの僕は、日本達磨宗についてこれくらいしか知らなかったのですが、日本達磨宗にはビッグスポンサーがたくさんついていて、お金持ちだったらしい。例えば、有名な禅マスターのお袈裟をお金を出して買ったり、悟りの「印可状」なども手紙でやり取りしていたり…そこではお金のやり取りもあったのでしょう。とにかく"お金を使ってる人たち"だったようです。
そこで道元さんはどう言ったかというと、
学道の人は、先づすべからく貧なるべし。
(『正法眼蔵随聞記』巻四)
「修行者は、貧しくなければいけない」というのは、こういう日本達磨宗のことを背景にして言っているのです…と、敬之さんは言っていました。
新しいムーブメントを起こしたような人たちの発言・言動は、何をターゲットにしたものなのかを考えないと、その真意をつかめないことになってしまう。
それがブッダの場合は、当時のバラモン教に代表されるインドの常識的な考え方に対して、相手の使う言葉を逆手に取って、からかうかのように、時には茶化したりして、相手の言葉を意味を変えて換骨奪胎して使っていたり、相手の表現を揶揄するような使い方をしているのが、パーリ仏典の中にも見られ、それは明らかにそのような背景を持った人たちがブッダの周りにいたからだ、というように読み取れます。
オセロゲームの黒の駒を全部白にするみたいに、道元さんは弟子たちの考え方をひっくり返さなければならなかったのです。『学道用心集』を書いた頃には、そういうバックグラウンドから道元さんのところへ来た人というのがたくさんいたので、そのことを想定して読む必要がある。
僕も今後、日本達磨宗の教理を調べなければならないと思っています。
§
2. 意根を坐断 - Be mindful.
(塾生gさんのシェア)
用心の第九には、「意根を坐断」という言葉が2回出てきています。
その後のほうの意根を坐断、
「人、試みに意根を坐断せよ、十が八九は忽然として道を見ることを得るなり。」
についての感想として、先ほどのfさんの言葉にもありましたが、用心の第八までは道元さんはけっこう難しい言葉で表現していたけれども、ここでは比較的シンプルに書かれていて分かりやすいという意見がありました。
レジュメの後ろのほうに「意根を坐断」についての注釈があって、そこには「坐禅において心の運転(はたらき)を止めること。もともと坐断は"挫断(完全に否定すること)"の転訛であるとされ、本書の坐断は道元禅師によって坐禅の意が加味された言葉と考えられる」と書いてあります。「坐」の字を当てたのは道元さんのオリジナルの表現というところがすごいなと思いました。
あとは、「知解の路」という表現は、おなじ「みち」でも"道"と使い分けて表現されているところに、言葉に対する道元さんのセンスを感じました。
〔一照さんコメント〕
「道」と「路」の使い分けに関心が向くということは、あなたにもそれだけのセンスがあるんでしょうね。
「意根を坐断」、これをどう理解するか。
ここで「意」というのは何かというと、いわゆる"六根"、「眼耳鼻舌身意」の意ですね。
◆ 六識モデル
六根(眼耳鼻舌身意):仏教事典を見ると"感覚器官"と書かれているものが多いですが、僕は「感覚機能」と言ったほうがいいと思います。
六境(色声香味触法):六根が知覚する対象
六識:根と境が"触(ふれあうこと、知覚すること)"すると立ち上がる認識
これが、仏教の心理学のいちばん古いバージョンで、僕が「六識モデル」と呼んでいるものです。六根+六境+六識で、「十八界」と呼ばれていて、僕らの経験のすべてはこの18の組み合わせで分析できる、というものです。
「意根を坐断」の意根は、おそらく6つの根を代表していて、"意根に代表される六根を坐断する"ということを言っていると思います。
◆ Be mindful.
僕が参照した本では、坐断の「坐」というのは"守る"という意味、「断」には"あちこちしない"という意味があります。
僕らの感覚機能の使い方は、全然守られていなくて、「だだ漏れ、だだ入り」みたいな感じになっています。門番がいなくて、玄関が開けっ放し。なので、泥棒は入るわ野獣は入るわで、家の中(僕らの心の中)はぐちゃぐちゃ。
六根というのは、僕らの心にある6つのドア、窓、門です。そのドアを通じて外界との交渉をしているのですが、僕らの門は守られていない、開閉がうまくいっていない。開いてはいけない時に開き、開かなきゃいけない時に閉じてしまっているのです。
そういう家はどうなるか分かる?
ろくでもない奴ばっかり入ってきて家の中をぐちゃぐちゃにして、家の中の文化レベルを上げてくれる奴はshutout…というような状態です。
そうではなくて、ちゃんと守られているのを「坐」と言います。
それから、「断」は何を言っているかというと、僕らの心はすぐあっちこっちに行く。きれいなものが見えると「あっ!キレイ!」といってキョロキョロする。耳も、「これはいい音!これは悪い音…」というような状態。
それじゃない状態が「断」、集注している状態です。
集注という状態は"一点集中"ではないので、「中」ではなくて「注」にしたほうがいいと思います。
坐断というのは、結局のところ「マインドフルネス」のことなんですよ。
マインドフルネスの原語(パーリ語)の「Sati(サティ)」には、ひとつには守るはたらきがある。それから、心があちこちに飛び回らないで専念しているという意味があります。
今どきの言い方で言うなら、「意根を坐断せよ」というのは「Be mindful.」ということになります。
「断」という字面から、意味を過激に取ってしまうと"心のはたらきを停止する"というニュアンスになってしまうけど、それだと道元さんの坐禅の説明とは違ってくるので、いま言ったような「感覚器官をちゃんと守って、キョロキョロしないような状態」という説明をするのがいいと思います。坐禅は感覚器官を遮断しているのではないわけですから。
意根を坐断すると「十が八九は」、かなり高い確率で道を見ることができる。
その辺のグループで「何で"十が十"じゃないの?」とかいう話をしてましたが、これはhumbleというか、humilityというか…道元さんの謙譲表現だと思います。
感覚器官を守って、心があちこちキョロキョロしない状態になると、内と外が調う(harmonized)。これが「道を見る」ということです。
僕らの感覚器官には門番もいなければ、向く方もキョロキョロしているから、調いようがないのです。これを調和に持っていく…坐禅の"三調"、調身・調息・調心の「調」が大事になってきます。
僕もむかし「意根を坐断」と聞いて「心を停止する」というように理解していましたが、それだとどうも坐禅と合わないと思っていて、「坐」と「断」の漢字の意味から理解して読めば、ちゃんと坐禅の表現になっていると思います。
§
3. 参師聞法、功夫坐禅
(塾生hさんのシェア)
学道用心集の最後に「直下承当の事」をもってきていることが心に留まりました。
「夫れ人は皆身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と眛劣となり……此の身心を以て直に仏を証する、是れ承当なり。」
(人は皆な身と心をもっており、その作(はたらき)には必ず強弱があり、勇猛であったり鈍く劣っていたり……この身と心でただちに仏を実証する、これが承当ということである)
…という言葉を最後に持ってきておいて、「此の身心を以て直に仏を証する」というのが"脚下照顧"という感じなのかな?と思わせておいて、さらにその後のほんとうの最後のところには、
「唯だ他に随い去く、所以に旧見に非ざるなり。唯だ承当し去く、所以に新巣に非ざるなり。」
(ただ、他に随ってゆくのであるから、自分のこれまでの古い考えではないのである。ただ承当してゆくのであるから、新しい住処を作り上げるのではないのである)
…「新巣に非ざる」という余韻のある終わりかたに魅かれるし、また、「ほんとうの《他者》って何だろうね?」という話もこのグループの中でしていて、このつながりがモヤモヤとしているので、一照さんの言葉で伺いたいと思います。
〔一照さんコメント〕
「直下(じきげ)」というのは、"直接に、媒介を経ないで"ということです。
「承当(じょうとう)」は、"そのまま受け取る"。自分のフィルターをかけたり、自分の都合のいいところだけ取って、都合の悪いものは取らない…というようなことはしないで、「フルコース料理を、偏食しないで全部残さず完食する」みたいなニュアンスです。
僕らは必ず何かを媒介にして間接的に触れているし、あれこれ注文をつけて好き嫌いをしているけど、修行でそれはやっちゃいけないということです。
なぜかというと、修行ではあらゆることが糧になるから、偏食しちゃいけないんですね。
「この直下承当には2つのありかたがある」と書いてあって、それが
参師聞法 (師に参じて教えを聞くこと)
功夫坐禅 (坐禅を修行すること)
です。
これは、坐禅の他の道にも通用することだと思いますが、皆さんが活動しているフィールドで、参師聞法と功夫坐禅がそれぞれ何に当たるか、ちょっと想像してみてください。
◆ 自分を虚ろに
参師聞法というのは、自分を空っぽにして謙虚に教えを受け取るということです。それを可能にするのが「師を立てる」ということです。師というのは、最初からいるのではなくて、「私がこの人を師と立てる」のですね。このあたりは、10月の塾で「参禅学道は正師を求むべき事(用心第五)」を読んだ時にもお話したと思います。
自分が師を立てて、その師を介して学んでいく。
"立てる"というのは、自分よりも師を上に置き、自分を弟子という立場に自覚的に下げるということです。この「参師という態度」、師に降参するというのが大事なところです。
「聞法」、真宗でも"仏法は、聞いて聞いて聞きまくれ"というようなことを言いますね。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり。
(蓮如上人御一代記聞書)
「己を虚しくして、とにかく聞く」というのは、現代ではなかなか難しくなっていますね。"批判的に聞きましょう"というように教育を受けていますから。先生が講義を始めようとすると、質問の挙手をする用意をして待ち構えている学生がいますからね。
「批判精神は要らないのか?」と言うけれど、聞いてから批判すればいいわけで。最初から批判しようと思うと、自分のフィルターをかけることになります。それだとただの揚げ足取りになってしまう。
「聞法して何を学ぶか」というコンテンツはもちろんのこと、参師聞法というのは態度、構えの問題なのです。
◆ 坐禅に降参
功夫坐禅もそうです。
これは、アタマであれこれ考えることではないです。
坐禅も「参禅」といって、"坐禅に参ずる"、坐禅に降参して坐禅から学んでいくということなので、実はこれは参師聞法と同じ構えなのです。
参師聞法:他者から学ぶ
功夫坐禅:自己から学ぶ
参師聞法で学んだ態度で坐禅をするし、坐禅で学んだ態度で参師聞法する。
自己から学ぶか、他者から学ぶか…同じことの両面を言っています。
自己に学べない人は他者から学べないし、他者に学べる人は自己にも学べるのです。
§
4. すげぇ² を直下承当
ほんとうの〈私〉とほんとうの《他者》について。
ほんとうの私というのは〈私〉しかいない。"私"という字もほんとうは要らないですね、ただ〈 〉だけ。
ほんとうの自己は、探す必要がないです。間違えようがないから。
同じ私がたくさんいたら、どれがほんとうの私なのか探さないといけなくなるけど、現に宇宙がここからしか見えないようなほんとうの私は〈私〉ひとつしかないから、間違えようがないのです。
〈私〉があることには「〇〇だから」という理由が要らないですよ。「だってそうなんだもん」としか言いようがない。
「〈私〉と同じありかたをした人が他にもいるかもしれない……あなたはそうですよね?」というように、〈私〉を見るのと同じ重みで相手を見た時に、ほんとうの《他者》が生まれてくる。
なので、〈私〉が分からなければ《他者》も分からないのです。
◆ 奇なるかな²
〈 〉というありかたをしたのが宇宙にただ一つだけって、すげぇじゃん!
でも、俺だけじゃなくてそんなのがもっとたくさんいるの?もっとすげぇわ!
すげぇ²。
ブッダが菩提樹の下で悟りを開いた時に、「奇なるかな、奇なるかな」と2回言ったのです。これは、1回目は〈 〉に気づいた時、2回目は《 》に気づいた時のことだと僕は思っています。もちろん、これはこじつけですけどね。
でも、2回言っているということは、1回では足りなかったんでしょうね。この驚きから仏教は始まっているんです。
それで、この「すげぇ!」を承当するんですね。そのための構えが参師聞法と功夫坐禅。
師が言う「な!すげぇだろう?!」を聞いて僕らは「すごいです」と思う。
坐禅は、自分でその「すげぇ」を直接しているので、すごいです。
§
5. 旧見に非ざる、新巣に非ざる
(塾生iさんのシェア)
「大凡、自己は仏道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。若し正しく道に在りと信ぜば、自然に大道の通塞を了じ、迷悟の職由を知らん。」
(だいたい、自分が本来仏道の中にあると信じる人は、最も得難い。もし、本当に自分が仏道の中にあると信じれば、自然と大いなる仏道に通じているか塞がっているかを明らかにし、迷いや悟りの由来を知るであろう)
これは、"第四図"みたいに「何か」に向かっていくというふうになってしまうところを「自分が本来仏道の中にあることを信じる」と言い切っているところがすごいと思います。
また、
「十が八九は忽然として道を見ることを得るなり。」
(十中八九はたちまちに真実の仏道とは何かを見ることができる)
あるいは「直下承当の事」で、
「身心を決択するに、自ら両般あり、参師聞法と功夫坐禅となり。」
(身と心をきっちりと定めていくのに2つのやり方がある。"師に参じて教えを聞くこと"と"坐禅を修行すること"である)
師に参じて教えを聞き、坐禅を修行すると、十中八九は真実の仏道を見ることができると言い切っているのは、すごいなと思いました。
「唯だ承当し去く、所以に新巣に非ざるなり。」
(ただ承当してゆくのであるから、新しい住処を作り上げるのではないのである)
ここではない別のところに新しい住処を作るのではなく、それは自分の中にあることを信じることだと言い切っているのもすごいと思いました。
〔一照さんコメント〕
これは道元さんに言わせれば「だって、俺がそうだったんだもん」という話でしょう?
用心第十「直下承当の事」の最後の数行ですが、
従来の身心を廻転せず、但だ他の証に随い去くを、直下と名づけ、也た承当と名づくるなり。唯だ他に随い去く、所以に旧見に非ざるなり。唯だ承当し去く、所以に新巣に非ざるなり。
「旧見」というのは、今までの自分がずっとしがみついていた考えですが、それではないということで対比させた表現が「新巣」。
道元さんはこのように、"旧い"という言葉を使ったらそれとペアになるように"新しい"という言葉を出してくる表現を自然にできる人なのですね。
自分が「承当」するのは、ずっと伝わってきている古いものなのです。
"新しい住処"ではない、といって「じゃあ、古いものなの?」というけど、僕が今まで引きずってきた古い見解ではない。でも「承当」するのだから、それは"新しい"ものではない。「新しい考え方なのか?」というけどそれは、ブッダからずーっと続いてきているめちゃめちゃ古い考え方ですよ…というレトリックです。
うまくない?この表現。
「さすが道元、よくぞ言った!」というのはこういうところですよね。
◆ それぞれの個性で道を証する
最後にもう一つだけお話しますね。
夫れ人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と眛劣となり、也たは動、也たは容。此の身心を以て直に仏を証する、是れ承当なり。
ここでは、身心には必ず個性があるということを書いています。
勇猛な人もいれば、眛劣(鈍く劣っている)人もいる。
「動」というのは積極的な人、"いけいけドンドン"というような人のことです。「容」というのは受け身な人のこと。
そういう個性をなくすのではなくて、そういう個性で道を証するのだということですね。
僕の証し方と他の人の証し方は違うのです、受け皿が違うから。
そういう違いを均して修行するものではない。
というか、〈僕らの存在〉自体が歪(いびつ)なのだから、均しようがないのです。他の人の真似なんて出来ないんです。
§
6. 天上天下唯我独尊
お釈迦様が生まれた直後に言ったという「天上天下唯我独尊」という言葉は、この「宇宙にたった一つしかない〈私〉」という意味で理解してもらいたいと思っています。
みんなが「天上天下唯我独尊」と言っているのだけれど、その前に、〈僕〉が文字通りに唯我独尊。
別にこれは、修行したから唯我独尊が分かったのではなくて、なぜかは知らないけれど、神様にだって如何ともしがたいありかたをしている。
神様は、「私1」「私2」「私3」「私n...」という存在をたくさん作れるのだけれど、その内のどれが〈私〉なのかは選べないのですよ。
〈私〉というのは、外からは窺い知ることができないものです。僕の心にアクセスできるのは〈僕〉しかいない。これは分かるでしょ?
◆ 私は私を辞せず
『正法眼蔵』の「菩提薩埵四摂法」の巻に、"私は私を嫌がらない"という表現があります。
ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに、海をなし、おほきなることをなす。山は山を辞せざるがゆゑに、山をなし、たかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。
(『正法眼蔵』菩提薩埵四摂法巻)
この部分の前には、「海は水を辞せず」、水というのは川のことですが、どんな河が流れ込んできても海はそれを拒否しない、だから海はあんなに大きいんだ…ということを書いているのですが、さらにその前に「水の海を辞せざる徳も具足せるなり」、川は海を嫌がらないから海までやって来ることができる…とも書いています。
そういうことを言った後に、「海は海を辞せざる」、海は海であることを嫌がってはいない、と。
海の広さを言ったあとには、「山は山を辞せざるがゆゑに、山をなし、たかきことをなすなり」、山の高さのことを引き合いに出しています。
どうしてこういうことを道元さんは言わなければならなかったのか。
これは「自分が自分であることを嫌がっていない」ということですよ。
存在しているということは、僕の気分などとは関係がない。「こんな身体に生まれてきてしまって…こんな自分は嫌い!」という人がいるけど、「嫌い!」と言える自分がいるということは、「自分は自分を嫌がっていない」ということなんですよ。
存在と、その内容は、別のことなのです。
リンゴ(…という存在の内容(本質))と、リンゴの存在そのものは違う。存在そのものは、見ることができないのですよ。
存在物(存在の本質)のレベルには、きれいとか汚いというのがあるのですが、存在そのものにはそういう属性は全くない。
僕らはどんなに自分に不平不満を言っても、〈私〉が存在しているということが嫌がられていないから存在できている。
このことを承当しなければいけない。直下承当は、そのレベルで行なわれることであって、修行もそのレベルで行なわれることです。
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……このあと、学習ノート④に続きます。