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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/12)学習ノート①

藤田一照さん(禅僧)が主宰する仏教塾、「道元からライフデザインへ -Institute of Dogen and Lifedesign」の後期最終講に参加してきました(2019年12月21日@京都府立文化芸術会館)。

(先月開催の後期第3講の模様は、こちらからご覧ください)

この学習ノート①では、一照さんによるearly bird talk「"第五図"に見る仏道修行の方向性」について振り返っていきます。

0. 一照塾"ゼミ長"桜井肖典さんからご挨拶

今日は京都での仏教塾最終回です。よろしくお願いいたします。
理由は定かではないのですが、まだ13人くらいの方がいらっしゃっていないので、何が飛び出すか分からない一照さんのearly bird talkを、今回もお願いしたいと思います。

一照さん、師も走る師走はいかがお過ごしなんですか?

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1. 『哲学する仏教』発刊の経緯

師走は、まだまだ走ってますよ。昨夜寝たのは午前2時半くらいでしたから。

この本、読んだ人いますか?『哲学する仏教』

この本が出るまでの経緯をざっとお話しします。
僕の師匠の師匠にあたる、内山興正老師という人が50年前に書いた『進みと安らい』という本があります。

当初は「柏樹社」という出版社から出た本なのですが、この出版社は今はもうなくなってしまいました。
僕の本をいろいろ読んでくださっている方はご存知かもしれませんが、この柏樹社がないと僕はお坊さんになっていなかったかもしれない…というくらい、僕にとっては非常に縁の深い、僕の人生にとって大きな意味を持っていた出版社でした。

和田重正先生という人を知っている人はいますか?
社会に適応するのに困難を抱えている人たちのための塾を開いておられた、"在野の教育者"といった人で、内山老師や和田先生の本を出版するところから柏樹社の社業が始まったのではないかと思います。

当時は「精神世界」なんていう本のジャンルはなかったけれど、当時としてはめずらしい精神世界関連の本や、"人生をどう生きるか?"というようなテーマの本を出していた会社でしたが、内山老師が書いたほとんどの本はこの柏樹社から出ていました。

それで、『進みと安らい』はそういう経緯で絶版になったのですが、最近になって「サンガ」という出版社から新装再版されました。

この新装版『進みと安らい』が出るきっかけは何かというと、「仏教3.0」という、僕と山下良道さんが一緒に作った『アップデートする仏教』という本でちょっと変わった符牒で言い始めた仏教のありかたでした。

僕と良道さんと、もう一人、独特の哲学を展開している永井均先生という方、僕は永井先生のことは「日本でいちばん哲学者らしい哲学者」だと思っていて、以前から永井先生の本を愛読していたのですが、この3人で「<仏教3.0>を哲学する」という講座を、朝日カルチャーセンター新宿教室で行ないました。

3回にわたって行われた3人による鼎談の講座が本になりました。

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2. 内山老師の「自己曼画」

鼎談のテーマを考える時に、内山老師の『進みと安らい』に出てくる、内山老師が書いた「自己曼画」というイラストを、「哲学的に非常に鋭くて深い思索をしている」と、永井先生がすごく評価していました。
「マンガ」を漢字で書く時は、普通はさんずいの「漫」を書くのですが、内山老師は曼荼羅の「曼」を書いていて、内山老師はわざとこの漢字にしているのですね。

自己曼画は、第一図から第六図まであります。

『進みと安らい』がサンガから新装版として再版される時に、この3人とネルケ無方さんという安泰寺で住職をしておられる方とで、本の帯に載せるコメントを書きました。
そこで永井先生は、「内山老師が言ったこととブッダが言ったことがズレているとすれば、ブッダが間違っている可能性が高い」というような帯コメントを書いていました。なかなかうまい言い方をしますよね!
「一照と道元で考え方がズレていたら、道元の方が間違っている」…なんて、僕は言えませんからね(笑)。

その縁で、僕と良道さん、無方さん、永井先生の4人で、『進みと安らい』をそれぞれがどう読み語るか?という講座を朝カルでやったのが本になったのが『哲学する仏教』です。

今回の仏教塾で『学道用心集』を講読する範囲のところで「仏道修行の方向性」という話が出てくるのですが、その講読の時にこの「自己曼画」の話を使おうかと思っていたのですが、いましゃべっているearly bird talkで話してしまおうと思います。

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3. 「進み」と<進み>、「家」と<家>

内山老師の「自己曼画」の第一図から第六図の中で、僕らが対談や鼎談の場でよく持ち出すのが「第四図」「第五図」というものです。

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緞帳のようなカーテンが下がっている、劇場の舞台のような場所で、たくさんの人たちが「貧乏、不幸」から「金、幸福」へ向かってワーッと走っている絵が描いてあります。
「これは、世の中である」というのが、内山老師の言い分です。
第五図の前の第四図は、下の部分がなくて舞台の絵だけがあるものです。

この絵が何を意味しているのかというと、僕らが普通の感覚で考える「進み」の方向性……「貧乏から金持ちへ」とか、「社会の底辺から高い地位へ」というふうに、「不幸から幸福へ」という方向性があるかのように皆が信じていて、「あの人は幸福そうだ、それに比べて僕は違う」というようにどうしても見えてしまう。

そういう見方を吟味することなく、それをそのまま鵜呑みにして、「俺もあっちの方へ行きたい!」と、"ヨーイ、ドン!"で一生懸命に走っていくわけです。

内山老師に言わせると、これは「進み」でもなんでもなくて、これは「流転」しているだけだということです。世間の進みは流転でしかない。進んでいると思っているけど、それはキリがない「ラットレース」である、と。

ここには欠けているものがある。ここには「死の自覚」がない、というわけです。
僕の言い方だと、この舞台で繰り広げられているのは「所有の次元」ということになります。いま持っていないものを、"進んだ先"でゲットするということがテーマになっています。まさにこれは、ブッダがかつて生まれ育ち、そして去った"お城の中"のありかたということになります。
普通はこの中で僕らは生まれて生きて死ぬわけなのですが、実はこれは「幻想、錯覚」でしかない。

『<仏教3.0>を哲学する』の続編が、来年早々に出るようにただいま制作中なのですが、その本の最後に、永井均先生がカント哲学を援用して、ブッダにとっての"お城の中の生活"が幻想だとか錯覚というけど、それは「ない」のではなくて、「構成されたもの」として、ちゃんと力をもって僕らを拘束している…という話を書いています。

ブッダはこれを「家の作り手」と言っています。
パーリ仏典の中では、ブッダが悟った時に言った言葉が様々なバージョンで書かれていますが、その一つが「ついに私は、家の作り手を見つけた」というものです。家というのは、この第五図の"舞台の絵"のことです。
これがどうやってできているか、そのカラクリが分かった、という意味で僕は理解しています。

舞台の上に私という主観があり、それとは別に世界が客観的に存在していて、そこで僕らがやったり経験したりしていることは、それは「構成されたもの」だというのが、ブッダの洞察であって、内山老師はこれを「アタマとコトバによって作り出されたもの」と言っていますが、内山老師は早稲田大学の大学院でカント哲学を勉強しているので、永井先生はこれについて「当然、これは"悟性とカテゴリー"の言い換えであろう」と言っています。

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悟性とカテゴリーによって、ずっと持続している私がいて、それとは別に客観的な世界が向こう側にあるかのように、僕らは経験を整理している……カントの説をざっくり言うとこういうことになりまして、それをカントは膨大な量の言葉を費やして『実践理性批判』という分厚い本を書いているわけです。

ナマの世界は、構成されたものとは違うというのが仏教の言い分です。

世間的な言葉の使い方で言うときの永井先生の表記法は、「カギカッコ」を使います。「いわゆる、so called、そのように言われている」ということで、英語の会話では両手の指を使って”クォーテーション・マーク”のジェスチャーをします。

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仏教では「世間で言われているところの何々」という言い方がたくさん出てくるのです。世間で言うところの「進み、進歩」、”progress”は、実はどこにも進んではいない。
この「進み」は、構成されたものとしての自分をほんとうの自分だと思い做して、その自分を世間の中でなんとかマシな位置にせり上げようというプロジェクトを一生懸命やっている…ということです。これを「幻想」とか「錯覚」とかいろいろな言い方で言っていますが、「夢」と言ってもいいですね。

仏教的な意味で言うときの永井先生的な表記法は、<ヤマカギ>です。第五図に言うところの「アタマの展開する世界」の根本にある<わが生命>へ進む方向性…こちらがほんとうの<進み>であろうということなんです。
<進み>は、<ナマのいのち>に覚めるという方向性です。
第四図的な世界を、仮の「家」だとするならば、その根本にあるわが生命が、ほんとうの<家>と言えるでしょう。

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4. <私>の独在性

この<私>の特徴は、「唯一無二に独在している」ということです。
端的に、現に、純粋に、ホンマに、リアルに存在している<私>は、宇宙の中に一つしかない。<私>があちこちにいくつもいくつもあったら、困ってしまいます。ここからなぜか世界が見えていて、殴られると痛い身体は、これ一つしかないのです。

「お腹がすいた」という感覚を、現に、ナマで味わっている身体は、これしかないでしょう?でも、言葉を媒介にして「僕はお腹がすきました」と聞くと、「ああ、あの感覚ね」と分かる気がするけど、その言葉を聞いて「ああ、あの感覚」が僕の感覚とそっくり同じという保証はどこにもない。
分かったからといって、僕の「これしかなさ性、独在性」というのは何も変わらない……という感じ、分かりますか?「これしかない」という感じ…。

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これはね、感覚的に驚いてもらわないと。「ふぅーん、なるほどそうですか…」と言われても困るんですよ。「なんで<私>は、これしかないんだ?!」…という、この<私>の独在性への驚きが、永井均先生の哲学の始まりです。僕もかつてこれに驚いたことがあって、いまだにそれが引っかかっているんですよ。

この「なんで?」には、いくら哲学的な思索を凝らしたところで、理由なんてありません。思索できるのは、<私>が生まれた上でのことですから、その手前には帰りようがないわけです。
みんなが「私」「私」「私」と言っているのですが、現実に「Iしている」(愛しているじゃないよ)のは、この<私>しかないんですよね。
その他の「私」というのは、この世界の中に構成されたものとして、言葉を介してはめ込まれているのです。

学校教育では、<私>ということについては一切話されないです。社会でもこのことは話されない。学校というのは、そのような社会に出たときにまごつかないためのしつけをするところですが、学校では知識を詰め込まれて、いろいろな常識を教わります。また、「このように行動すべきである」という道徳的なことも教わります。
そんな学校で、知らない間にじわりじわりと教え込まれるのは、「たくさんいる「私」とうまくやっていくこと」です。つまり「平均化、平板化」ですね。

宇宙というのは、<私>という特異点があって歪(いびつ)に出来ているにもかかわらず、それを平板化してしまって、それがほんとうの事実であると思い込ませるようなカルチャーが社会であるし、その社会に出るための準備をするのが学校なので、先生は「我々のひとりひとりが、たくさん「私」がいる中の一つで、みんなが同じ「I」を生きているんだ」というように明示的に、あからさまに説いたりはしませんが、学校では、授業や運動会やら社会見学やらの年中行事も含めて、<私>ではない「私」というありかたの刷り込みをしているのです。

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でも、それは必要なことだからやっているのですね。そんな歪なものを抱えた奴が世間の中にいたら困ってしまいますから。なので、平均化・平板化したいわけです。そもそもそのために言葉を習得するわけです。でも、その平板化によって忘れられるもの、見えなくなるもの、隠されるものがあって、それが<私>です。
<私>が見えなくなる、隠されることに抵抗感・違和感を感じる人が時々いるわけです。ブッダもおそらくそうだったのだろうと僕は思っています。

ブッダの教えを引き継いでいる仏教と、<私>という事態がいかに不思議で驚くべきことなのかということにこだわる永井先生の哲学。僕はこれらを接続できるのではないか、あるいは接続すべきなのではないかと思っています。

永井先生に言わせると、仏教の「諸行無常、諸法無我」といった教義は、誰にでも通用するように既に平板化されていて、哲学的には全く深みもないし、退屈だということです。僕もそれはそうだろうなと思います。
でも僕はそれだとブッダに対して申し訳ないという気がしていて、仏教をもう一度「<私>の独在性」というところから見直してみることが必要なのではないかと思って、永井先生との対話を続けているのです。

永井先生の最新刊を読む自主勉強会を定期的にしているのですが、もう年末でもあるし、参加してくれている人たちもそろそろ永井先生と直接話しても何となく話せるくらいの基礎的な理解が進んできたと思うので、明日は永井先生をうちにお呼びして、午後から夜にかけて、前半は皆で真面目に本を読んで、夜は囲炉裏で皆で鍋をつつきながら、ざっくばらんに追究しようかという会を持つつもりです。

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5. 道は空白

「仏道の方向は、こっちじゃないよ」という話をしたくて、永井先生の哲学の話を持ち出しました。
『学道用心集』をきょう講読する範囲に「道に向かって修行すべき事」ということが書かれていますが、道というのは必ず方向性を持っているのですよ。どこかへ向かっていない道というのはありませんから。

道というのは、道とそうでないところとの境目がありますよね。道じゃないところには木がいっぱい生えていたりして。
航空写真で道を見てみると、ジャングルの緑の中に茶色い線があるように見えるから、茶色い細長いものがあるように思うけど、実際に現地の道に立ってみると、その道には何もないんですよ。
その道ってどうやって作ったかというと、木を切り倒して、根っこをどけて、空白にしてるんですよ。

道って、空白なんですよね。


池坊が出している『華道』という雑誌の、今月発売される1月号から「道」というタイトルで僕が書いたエッセイの連載が始まります。

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道の特性とは何か。
第四図的な世界には「道」があります。いわゆる"road"です。皆さんが今日この会場へ歩いてきた道です。
ところが、<ナマのいのち>に覚める方向へ向かうと、"弓道"とか"茶道"の<道>になるわけです。そこには何らかの共通点があるから、「道」を<道>のメタファーとしているのですが、その共通点というのは何だろうか?というのが、その連載エッセイの最初の3回分のテーマになっています。

その共通点の一つが「道は空白」ということなんです。

道ではないところには、木が植わっていたりして何かが詰まっているので歩くのに苦労するけど、道には何もないからスーッと歩けるのです。
道には必ず両際があるので、スーッと行けるところをたどっていくと、

「←あっち」か、「こっち→」

という違いは出てきますが、必ず「どこかから、どこかへ」という方向性が生まれてきます。それがなくて、どこへも向かっていないのは道とは言えませんよね。

きょう皆さんで講読する用心第九には、「仏道という道が向かう方向性が大事だ」ということが書いてあるのですが、僕らが普通に考える方向性は、第四図の方向性です。

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「幸せになりますように」と願うときには、貧乏・不幸から抜け出して金・幸福にたどり着くことしか見えていなくて、その根元にある<わが生命>は僕らには全く見えていない。
ところが、坐禅をしてみると実は、第四図の根元には「構成されたもの」ではない<生命の実物>、存在の次元があることが分かってくるのです。

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先日、山下良道さんと永井先生が初めて、僕という緩衝材がない状態で対談したのですが、ガチで激突するのかなと思っていたら、お互いにわりと接近したところに話が落ち着いたので、「えー、つまんないの」と思いました。僕が割って入るつもりでいたのですが、そうはなりませんでした。「俺いらないじゃん」という感じです(笑)。

良道さんって、自分では第四図に属していると思っているから、第五図の身体のことは好きではないんですね。ところが永井先生は、第五図の身体はいわゆるここにある身体のことではないと言っています。
「第四図には身体がたくさんあるのに、第五図には身体が一つしかないでしょ?」と言っていて、僕は「おー、なるほど確かにそうだ!」と思いました。
第五図に身体が一つしかないというのは、殴られて痛い身体は<これ>しかないということで、これを「受肉性」といいます。なぜか知らないけど、生まれた時から<僕>がこの身体に受肉してしまっていて、これは取り替えが効かないというわけです。
「歯が痛い!」というときに、世界中で歯が痛いのは僕だけで、誰も代わってはくれないのです。いかに脳や神経を他の人とつないでも、痛いのは僕だけ。「僕の脳とあなたの脳をつないだらどうか?」という思考実験もありますけど、僕が感じている限り、あなたの脳で起きていることを僕が感じているのだから、それはやっぱり僕の感じであって、いくらつないだって僕の<これしかなさ>は変わらないんです。

仏道の方向というのは、「道」ではなくて<道>であって、これを間違えないようにしないと、「よーし、仏道いくぞ!」といってやってしまうと第四図のような仏道になるだけで、<ナマのいのち>に覚め覚めるという仏道にはならない。「道」は、行けば行くほど酔っ払うということになります。

この方向性が大事だということを……early bird talkと言いながらもうかなり本編に入ってきています。タオルか何か投げ込んでくれないと止まりませんよ(笑)。

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……このあと、学習ノート②に続きます。


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