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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/04)学習ノート④

この「学習ノート④」では、一照さんによる「弁道話講話」について記録していきます。

(ここまでの4月一照塾)
・導入、オリエンテーションの模様は、「学習ノート①」にて。
・「弁道話を読むヴィジョン」についての一照さんプレゼンは、「学習ノート②」にて。
・塾生たちによる事前homeworkのシェアリングワークの模様は、「学習ノート③」にて。

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1. 素読と古注

私が師匠に言われたのは、

「正法眼蔵は日本語なのだから読めば分かる」

ということでした。「読めば」というのは、「お前たちは黙読するからダメなんだ、声に出して読め」と言われました。
私の師匠は、正法眼蔵「山水経」巻を高校生くらいの頃に読んでいたのだそうです。

師匠のお父さんは仏教者で、「印哲」(東京大学文学部人文学科 インド哲学研究室)に入学したのだけれども、「こんなものは仏教じゃない」といって辞めて、開拓者になった…という人らしい。

そんなお父さんから、師匠は幼い頃から"眼蔵"を素読させられていたようで、

「而今の山水は、古仏の道現成なり。」

という冒頭で始まる山水経を読んで、「こんな透明感のある文章を書ける人がいるのか!」と感動して、「こういう透徹した文章が書けるような人間に、私もなりたい」といって出家された…という方でした。
師匠には「せっかく日本人として生まれて、こんな文章が書ける人が遺したものがあるのだから、声に出して読んでいれば分かる!」と言われました。

一方、「古注」というものがあります。
道元禅師の弟子や孫弟子たちが遺した、眼蔵を読むための注釈のこと。
曹洞宗の歴史の中には、眼蔵を研究する人たちがいて、膨大な量の注釈書が残っている。

「正法眼蔵註解全書」というものがあります。

きょう皆さんが事前homeworkのシェアのワークで引用したような眼蔵の文章が示されて、その文について「この註ではこう言っている」「また別の註ではこう言っている…」というのが連なっていて、また次の文章へ…というように構成されているものです。
「注を読むのに注が要る」というくらい、註解全書自体が非常に難しくて、余程"正法眼蔵学者"というような人でない限り、今の人はほとんど読まない。

私が習った眼蔵の読み方というのは、音読してだんだん染み込んできたものが、自分の日本語の感性と響き合って「分かる…」ということと、それから古注を読む…ということ。
しかし、やはり分かりやすい方へ流れやすくて、例えば、私の師匠の師匠、内山興正老師が書いた「正法眼蔵 弁道話を味わう」という本があるのですが…

この本を読んでみると、内山老師は古注を勉強しているようです。「古注ではこう書いている」というのがところどころに出てくる。

しかし古注はあくまでも参考で、古注のとおりに読んだら眼蔵を正しく読めるかといったらそうでもなくて、古注どうしが葛藤している場合もあります。ある古注が別の古注をけなしたりディスったりしているものもあるので、あくまで参考にしかならない、ということですが、「こういう読み方もあるのか」ということを知ることができる。

§

2. 「道元語」を習う

正法眼蔵の言語表現というのは非常に独特で、私はそのことを

"道元語"

というふうに呼んでいるのですけれど、道元語を習うつもりで読まないと、日本語として読んだら読めない箇所が出てくる。
いかに精密な仏教用語辞典をもって道元を読んでも、道元は言葉をそのようには使っていない…ということがあるので、日本語として道元を読んだ時の理解と、道元語を理解して読む読み方との「ズレ」は、かなり致命的になる場合があります。
道元がどういうつもりで書いたのか?ということを読み取りたかったら、道元の言葉の用法に従って読まなければいけない。そこに、我々のチャレンジがあります。

例えば、冒頭にいきなり「諸仏如来」という言葉が出てきますが、それぞれの字を見れば、皆さん知ってますよね?「諸々の仏や如来」ということで、「仏」や「如来」を"広辞苑"などの辞書で引けば意味が載っていますよね。普通の人はそうやって意味を取ると思いますけれど。
広辞苑や、もうちょっと頑張って"仏教事典"のようなもので「仏」や「如来」を辞書的な意味で理解して眼蔵を読んでいくと、「最初からズレている」ということになります。

先ほどご紹介した『大乗仏典 - 中国・日本篇(23) 道元』(中央公論社)で「諸仏如来」がどのように現代語訳されているかを見てみると…もう知っていると思って訳してないんですよね(笑)。

また、最近では正法眼蔵の英訳というのもたくさん出てきているのですが、英語では諸仏如来のことは「All the Buddha and the Tathāgata」となっていて、これは直訳ですよね。

「道元語」を学ぶときは、日本語に聴こえるかもしれないけれど、一旦は別な言語だと思ったほうがいい。

そもそも私たちはどうやって言語を習得するのか。

普通、私たちは「用法から」言語を学びますよね。
状況に応じて発せられる"音"を、脳が吸収して、何か一貫した意味が立ち上がってくるまでじっくり時間をかけて、子どもは母国語を学んでいくのだけれど、眼蔵の場合はそれに近いような学び方をする必要がある。
だから「音読しなさい」と言われるわけです。

§

3. 正法眼蔵の"マスターキー"

正法眼蔵に通底する、常識とは違うある基本的な理解(思想、哲学、ものの見方、考え方…)みたいなものが、修行をしていくとなんとなく分かってくる。それがあると、あたかもパズルを解くようにサーッと読める。

マンションの管理人さんが持っているような、どのドアでも開けることができる"マスターキー"のような感じで、眼蔵の基本理解がだんだん分かってくると、それを鍵のように使って、「これは開かないだろう」と思われたところも"カチッ"と開いたりする。そうすると、以前は分からなかったところが「ここが開いたなら、ここも開くんじゃないか?」みたいなことでまた"カチッ"と開くときがある……。

"最初から一つひとつカッチリと意味を確定させて分かっていく"というより、眼蔵を読む場合はこういう"分かりかた"をイメージした方がよいです。

別の例えでいうと……

真っ暗な部屋に入っていって、目が慣れていって、そのうち「ここに椅子があるな、机があるな、天井から何かぶら下がっているな…」というのがぼやー…っと見えてくる。さらにだんだん慣れてくると「この部屋は"応接室"だったんだな」というのが分かってくる。するとまた「隣の部屋もあるんだな」というのも分かってくる…。

分からないまま部屋の中に入っていって、いろいろなものに触れていく経験をしていくような分かりかたをしていくべきものだと思います。"古典"と呼ばれているものは、そういうものだと思います。

「長年にわたってつき合う人間を理解する」みたいなものでもあるのかもしれません。

彼女とか彼氏を理解するような。
「理解したから結婚する」というのではなくて、結婚した後も理解は続いていく。そして何十年が経ったときに、ある節目節目で「この人のことが分かった」と思うけれども、またすぐに違う謎が出てきたりして…というように、ずっとずっと続いていく人間関係みたいなものだと思ってください。

§

4. "景色"の中で立ち上がる"意味"

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これ、ただほとけ、仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。」

……という、冒頭から最初の段落を「ひとつに読んで」みたときに、全体としてどんな"景色"が観えてくるか。その景色の中で、個々の用語の意味が"立ち上がってくる"という読み方。

分からないなりに音読してみて、その中から「なんとなく分かるところ」と「分からないところ」の濃淡の差が出てきて、そしてカメラの焦点が合うみたいにピントが決まってくると、ぼんやりとしていたところがある時「シャキッ」とピントが合ってくる…というような分かりかた。

(塾生からの質問):「ここまでは分かる」「ここは分からない」というのは、必ずしも人に説明できなくてもよい?

(一照さん回答):もちろん!
分からなさをそのまま持っていてもらいたい。その「分からなさの質」が変わっていくから。また、「分かった」というのが実は「分かっていなかった」ということも分かっていく。
あまり「分かる」「分からない」というところにとらわれないで、眼蔵を"しゃぶって味わって"もらいたい。


§

5. キーワード①「自受用三昧」

この冒頭の部分でキーワードになるのが「自受用三昧」。
キーワードから攻めたほうがいい。


自受用三昧…って、それぞれの漢字は皆さん知ってますよね。

「自ら受けて用いる三昧」。

"三昧"は「何かに集中した状態」という意味で辞書にも載っていますけれど、ここではそういう意味ではない。

自受用三昧は、"経験の対象"にはならない。

「三昧」というと、私たちは「こういう感じのもの」と思ってしまうけれど、ここで言う自受用三昧という言葉は、人間の心理や意識が経験的に捉えられるものを指してはいないのですね。この辺りから話が我々の常識とは違ってくるのですけれど…。
なので、いまホワイトボードに絵を描こうとしたのだけれど、絵にも描けないんですよ。「直観する」しかないのかなぁ…。

自受用三昧は経験的な事実ではないので、経験を積み重ねていったらある時「ハッ!」と分かる…というような「対象」ではない、ということです。
また、先にあるものではないので、自分を省みたり、真理を追究したりした挙句に分かる…というようなものでもない。

「定義」というのは、何かを切り取って輪郭をつけることですけれど、自受用三昧はそういう対象にはならないものなんですね。
…と言ったそばから「ものなんですね」といって定義しようとしてしまっているのですが。

§

6. 言辞相寂滅

仏教は、もちろん言葉を使って説かれているのですが、例えば「法華経」の中の言葉に、

言辞相寂滅(ごんじそう じゃくめつ)

というものがあります。

「言葉によって捉えられた姿が絶えてしまっているところ」ということです。「beyond words」ですね。

先ほど「不立文字」の話をしたのは、このことです。
不立文字は「文字(言葉)を使わない」ということではなくて、「文字(言葉)に頼らない」という意味で、そのスタンスに立てば、いくらでも文字や言葉が作れる。
道元さんのことで言えば、「いくら書いても足りないので、正法眼蔵はこんな分量になっちゃった」ということですね。

「言葉によって捉えられた姿が絶えてしまっているところ」を、言葉で言おうとしたら、いろいろな言い方をするしかない。

道元さんがやっていることは、円という図形を描くための「接線」をたくさん描いている…ということ。

接線を無限に描いていったら、その中に円が浮かび上がってくる。
円を直接描くことはできないけれど、「正法眼蔵第一巻〇〇」という接線、「正法眼蔵第二巻〇〇」という接線……たくさんたくさん接線を描いていったら、そこにDharmaというものが何となくぼんやり観えてくる…。

不立文字というのは、

「接線は接線でしかない」ということをよく知っておきなさい

という意味だと、私は捉えています。文字を書いちゃいけないという話ではない。

§

7. 自受用三昧へのメインゲート

言辞相寂滅という究極のところに対して、私たちには「行ずる」ことしかできない。行為で表すということです。この「行為」というのは、もちろん言語行為も含まれていますけれど、言辞相寂滅は、言語では捉えきれない豊かなものを持っています。

言葉では言えないこと、考えでは思えないものを行じている…それが「坐禅」ということになります。

なので、「自受用三昧とは何ですか?」といったら、「坐禅をしているときの状態」と言うしかない。この文脈で言われている坐禅というのは、無限の内容を持っていて、そういう坐禅を道元さんは伝えたいわけです。

道元さんに従えば、この冒頭の文にも書いてある通り、

「諸仏如来」というのは、「自受用三昧を生きている人」ということになり、この中には私たちも含まれていることになります。

この三昧を遊化するための玄関、メインゲート(正門)が端坐参禅であるので、道元さんにとっては、自受用三昧と坐禅はセットになっているので、坐禅のない自受用三昧はありえないということになります。

坐禅が自受用三昧を無言で語っている

ということになります。

私がいまここでこうして話したり、皆さんがそれを聴いたり、ノートを取ったり…ここで起きていることは、すべて自受用三昧の中で起きている出来事、という理解です。

「自受用三昧」という文字を普通に読んだら、どう見ても「坐禅しているときの心境」と読んでしまいますよね。「三昧に入ってる?入ってるね!」とかいうみたいに…。

ここでいう「三昧」とは、入るとか出るとかいうような、人間の努力によって作り出せるような心理状態のことではない。

道元さんは、今まで「ある特定の心理状態」のこととして読まれてきたような語を、別な意味に転化しているようなところがあるので、眼蔵を読むときには気をつけなければいけません。

§

8. 極微から極大の仏・真・真如

ここから、話のスケールはもっとデカくなっていきます。

誤解を招くかもしれませんが、自受用三昧とは「宇宙の状態」と言うしかない。「宇宙は自受用三昧状態にある」。
宇宙のあらゆること、大きな話から小さな話まで、例えば私たちの身体の細胞の中のミトコンドリアの活動。あるいは素粒子の消滅。それから、宇宙のビッグバン。あるいは最近話題になっているブラックホールまでを含めて…。これは古代の見方ですけれど、ここで道元さんは一貫して「自受用三昧」の一言で説明している。

宇宙は、極微のレベルから極大のレベルまで共通した法則・原理に則って変化している。

仏教を、個人の心理・意識状態から一度解き放たないと、自受用三昧を理解することはできない、ということになります。そこからもう一度反転して個人を見てくる。
自分で自分が意識できて分かる範囲の「意識の自閉空間」から、あるいは言葉で表記・記述できる「繭の中の世界」から自分を一旦解き放って、もう一度、繭の中で生きている(かのように生きている)私を見直してみる。

仏(あるいは宇宙)から自分を見てみる

ということです。

ここで言う宇宙とは、観測できる宇宙のことではありませんよ。
「私を含めた宇宙全体」のことを、仏教では「仏」と表現されているし、「真」と言ったり「真如」と言ったりします。

§

9. 諸仏如来 = 私

仏教で出てくる、こういう「真如」に類する言葉…「法界」などもそうですが、「諸仏如来」と言った時には、真とか真如、法界から派生して出てきたものなので、これは私たちのことなんです。

「諸仏如来」って、私たちのことなんです。

こんなこと言ったら、例えば印哲の入試だったら「ペケ✖」ですけどね(笑)。

喜んだり、悲しんだり、生まれたり、死んだり。
私たちのあらゆる生活活動は全て「自受用三昧の中の事件」ということになります。自受用三昧のお陰で、私たちはこういう出来事・イベントを起こしながら生活が展開しているので、生活の中で自受用三昧そのものを把握することはできない、ということになります。「私は自受用三昧を得ました、達しました」という話ではない。

私たちの側からは、自受用三昧に全くアプローチできないし、する必要もない…という次元の話です。

私たちはそのようなかたちで存在しているにもかかわらず、本来の姿を忘れて生きてしまっているから、忘れた分だけ苦労しているわけです。

仏教は、少なくとも大乗仏教のメッセージは「本来に還りなさい」という表現になります。

「あなたは自受用三昧でいるのだから、自受用三昧しましょうよ」
「あなたは仏なんだから、仏として生きようよ」


というメッセージです。

「いや、そんなとんでもない、私は仏なんかじゃないです!」と言ったって、それを言うこと自体がすでに自受用三昧のはたらき、仏のはたらきとしての表現なのだから、孫悟空ではありませんが、どこまで行っても仏の掌からは出られない…ということになります。

§

10. キーワード②「妙法単伝」

道元さんの立場からすると、私たちは自受用三昧の波長の中にいるから、その波長に寸分の狂いもなくぴったりチューニングしよう…というのが「修行」で、それをいちばん純粋な形で行なおうというのが「端坐参禅」ということになります。

「諸仏如来」というのは、

「自分は仏であり、如から来ているものだ」ということを自覚し、それを自分の生活の中で証しながら生きようとしている人のこと

と言ってもいい。
自分から縁遠いことではなくて、そうするように「呼びかけられている」と思ったほうがいい。

「妙法単伝」という言葉も、妙法という"結構な品物"があって、それを〔如来1〕が「はい、あなたにあげるよ」といって、〔如来2〕が「ありがとう、いただきます」…という感じで受け渡されてきたもののように思えるけれど、そうではない。

「仏」とか「如来」というのは、妙法に直接足を置いて生きようとしている人たちのこと。

仏は、妙法にアクセスする。妙法とつながって、「自分は妙法という地面から生えている木だ」ということが自分で分かって、妙法から栄養分をもらって花を咲かせている。

それを見た人が「私も!」といって同じように妙法に直接アクセスして、根をしっかり生やして、花が咲いたら、それが「単伝」ということ。

これを見て学んだ人が、同じように妙法に根を生やして花を咲かせたら、その人も仏になっていく。

「単伝」というのは、この一連のプロセスが伝わるということになります。これは「修行、あるいは生きかた」になっていきます。
これは「昨日やったから、今日はやらなくてもいい」という話にはならなくて、刻々にやっていかなければならない。このことを道元さんは「行持」と言っています。持続しているのですね。

"妙法から生えている木"といっても、「ちょっと疲れたから…」といってこの辺から切ってしまったら、木は死んでしまいますからね。
呼吸が私たちが生きている限りずっと続くのと同じように、修行も「いまの息は、いまする」ような感じで、続いていかなければいけない。
こういう生活が確立するということが「単伝した」ということなので、情報なり品物なり、あるいは「"悟り"という経験」がAさんからBさんに移動する…という話にはならないのです。

妙法を単伝したらどうなるかというと、「阿耨菩提(あのく ぼだい)を証する」ということが起きる。
阿耨菩提というのは、般若心経の中の「阿耨多羅三藐三菩提」ということで、「無上正等正覚」といって、悟りが相対的なものではなくて、比較することがない絶対的なものだということを、形容詞的に修飾している言葉ですが、「菩提」というのは悟りというよりは「目覚め」と言った方が意味が近いので、「私たちは自受用三昧の中で存在している」という原初的な事実に目が覚める…ということです。

§

11. 未曾有のメッセージ

その原初的な事実を確かなものに証明するために、これ以上ない術がありますよ、というのが「最上無為の妙術あり」。
ここでは「無為」というのが大事。無為というのは「作り物でない、無理やりな努力ではない」ということ。むしろ、それを止めた時に初めて、原初的な事実に開かれるような妙術(考えでは及ばない、言辞相では把握できない術)があります、ただこれだけを仏は伝えてきました…ということです。

"花を咲かせた人"が、次の人に教えられるのは「坐禅しなさい」ということだけ。そういう坐禅が「よこしまなることなく」、歪められず不純なものが混入することなく伝わってきているのですよ、ということです。

「この三昧に遊化するに」。
"遊化"("遊戯"と書く場合もある)というのは、「それを仕事として、眉間にしわを寄せながらやったり、ああしなければいけないのではないか、こうでなければいけないのではないか…と、心を煩わせているのではない」ということです。
遊びですから「仕事ではない」ということです。「結果」でもってその活動の評価をしないということですね。
仕事の場合は成果が仕事の価値を決めるのですけれど、遊びは遊ぶこと自体に価値があって、遊びの結果なにが起きたか生まれたかで遊びの価値を決めることはできない、ということです。

「この三昧を愉快に生きるためのメインゲートになるのが端坐参禅です。」

……このようなことは、当時まだ誰も言っていなかったはずです。
道元さんは、この「弁道話」の冒頭でいきなり、今まで聴いたこともない、未曽有のことを書いているのです。

(塾生からの質問):ここで「単伝して」ということと、「唯一の〈わたし〉性」との関連は?

(一照さん回答):ここでそれを言うと話が長くなるのですが(笑)。
「唯一の〈わたし〉性」とは少し違った意味で言うと、この単伝の"単"というのは、「個人個人でやるしかない」ということです。集団的に起こることではなくて、"複伝ではなくいつでも単伝"ということです。ここには「実存的な個の自覚」というのがあって、そこには、いまあなたが言いたがっている「宇宙に独在する〈わたし〉」というのが絡んでくるとは思います。


以上、この冒頭の部分をまとめると……

あなたは妙法です。妙法でできています。妙法でできている自分をほんとうに自覚し、思い出し忘れないようにするのが端坐参禅です。」
「これは誰か他人が伝えてくれるものではなくて、ある意味「自分から自分へ伝える」というしかない…「自分がほんとうの自分になる」と言ってもいい。」
「"妙法単伝"というのは、いつでもやらなければいけないことであって、それは過去に起きたことではなく「いま」起きているし、次の瞬間も妙法単伝していかなければいけない。それが修行の実態で、休むことなく刻々に行われなければならない。」

この冒頭の文章だけで、仏教の大きな枠組みはおさえられている。
しかし、大枠だけではまだまだ誤解されるし、先入観で歪められて理解されてしまうので、これ以降のところで細かいことが書かれています。

§

12. ブッダに叱られる!

「人人の分上にゆたかにそなはれりといえども」。
一人ひとりの上に…ここで単伝の「単」が出てきますが、私たちそれぞれが自受用三昧を豊かに生きている。でも私たちはそれを忘れているか、理解できないでいる。ほんとうは妙法からは浮いていないのに、浮くことなんて絶対にないのに、あたかも浮いたように生きてしまっている。

きょうここへ来るときに「チコちゃん」が言ってました。

「…なぜあくびがするのか理解もしないのに、ポカポカとしたところで…自受用三昧の中に生かされながら、不平不満を言っている日本全国のみなさん。」

「チコちゃんに叱られますよ!」っていうような感じで、私たちはブッダに

「ボーッと生きてんじゃねえよ!」

と叱られて、「ハイっ!!」と言ってするのが修行、というわけです。

自受用三昧が豊かに与えられているのだけれど、「いまだ修せざるにはあらはれず」、修行をしないことには顕われない、と道元さんは言っています。
しかもこれは「若い時にやったからもういい」というのではなくて、「いま」やらなきゃいけない。
そして「証せざるにはうることなし」、"なるほど、ほんとうにそうだな!"と、ハッキリと悟らないことには理解が徹底できない。

なので、「修」と「証」はどうしても必要になってくるから、私たちは「諸仏如来」として生きなければならない。「凡夫のままではダメですよ、宝物をもらっているのに活かせてないですよ」ということになります。

§

13. はなてばてにみてり

私たちは「放っていない」のです。「あれも欲しい、これも欲しい」といって握ろうとしている。仏教がオススメしているのは「放つこと」。

「あなた、あれも欲しいこれも欲しいって欲張っているけれど、結局それは損をしていることになるよ。放ってみなさいよ。放ったら、"大きい/小さい"とか、"多い/少ない"というような限定のつかない世界が開けてくるよ。」


ということです。

この辺りは説明しだすと長くなるのですが、特に…

諸仏の、つねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。群生の、とこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。

というところは、本によってずいぶん解釈が異なっています。どれが正しいのかよく分からない。内山老師と澤木老師とでもかなり違うことを言っているように思います。

私もここはうまく説明できないのですけれど……
ここでは「諸仏(目覚めた者)」「群生(衆生、迷える者)」が対置されているけれども、この間には共通点がある。
諸仏も群生も、どちらも自受用三昧を生きていることには変わりがない。
ただ、仏の場合は「各各の方面に知覚をのこさず」というありかたをしているし、群生の場合は「各各の知覚に方面あらはれず」というありかたをしている。これは「知覚」と「方面」を入れ替えるという、道元さん独特のレトリック。
なので、自受用三昧の生き方、"受用のしかた"には二通りあって、

仏的に自受用三昧を表現して生きるか
凡夫的に自受用三昧を表現して生きるか

ということになります。「仏と群生(衆生)の違いはただ一点、そこだけ」という話になります。

§

14. 「をはり」は「はじまり」

ここから先のところでは、道元さんご自身の伝記みたいなことが書かれています。

いろいろなところに、師を求めて探し歩いた。建仁寺では、臨済宗開祖・栄西禅師から法を継いだ明全禅師に9年間師事した。
明全禅師とともに宋に渡り、その当時の禅は5つの家風に分かれていて、それらの門を全てたたいてみた。
ついに天童如浄禅師に出会い……

「一生参学の大事、ここにをはりぬ。」

これは「悟って、やることがなくなった」という意味ではなくて、

どういう方向へ向かって修行しなければいけないか、それ以降の一生にわたる修行の方向性が初めてハッキリした


という意味です。ここが始まりなのです。「をはり」というのは「はじまり」ということです。
それまでは、道元さんも当てずっぽうにさ迷っていたのです。ところが如浄禅師のところで眼が開いて、一生をかけて参学する修行が向かう先へ照準がピタッと定まった。

§

15. Light my fire

宋での修行から日本に帰ってきた道元さんは、「弘法救生をおもひとせり」、これが講義の最初の方で言った「発願利生」ですね。正しい法を弘めて、衆生を救う。

坐禅も、この文脈で行なわれています。
「私が気持ちよくなるため」とか「注意深くなって、パフォーマンスが上がって、給料が上がる」とか、そういう小さい話ではないということです。
自分が幸せになるということもこの「弘法救生」の中に入れるべきですから、自分を犠牲にして…ということではありませんが、法を弘めて衆生を救うことが自分の幸せ、というのが「願」になります。

「ただし、おのづから名利にかかはらず、道念をさきとせん真実の参学あらんか…」、このあたりからが、道元さんの「発願文」と言ってもいい部分になります。

「永平高祖(道元禅師)発願文」「瑩山禅師発願文」「大智禅師発願文」…というように、祖師方の発願文が遺っています。

曹洞宗の修行の場合は、提唱(講話)の前に、先人の発願を読むことで自分の発願にアクセスして「修行の導火線に火を着けよう」という願いを込めて、祖師方の発願文を読むことがあります。「Light my fire」という歌がむかしありましたよね。私のハートに火をつけて…


§

16. 修行はオーガニックラーニング

きょうここまで読んできた部分から既に、私たちが言葉で理解したいという期待を破るようなことが書かれています。
言葉は役には立つけれど、それでは済まないことが出てくる。だから修行が必要になってくる。
「体得、あるいは行取」という、行によって身にしみ込ませる理解のしかたが必要です。「ソマティック・ラーニング」といってもいい。

このレベルの理解というのは、現在の学校教育ではほとんど"勘定に入っていない"。長年かかって身体にしみ込んで成熟することで身につけられる職人の技芸のような、修行によって得られる智は、ますます忘れ去られてきていて、学校教育の射程の中に入っていない。
それが要らないということではないけれど、テストやドリルですぐ測れるような、そういう浅いレベルしか私たちの学びのヴィジョンに入っていないのは、大きな問題だと思います。

(塾生からのコメント):いま学校教育も変わろうとしていて、幼児教育も改訂されて、一照さんがいま仰ったまさにそのことに、いま注目が集まっています。知識偏重型の教育ではなく「アクティブ・ラーニング」という言い方をしますが、自分たちの問題意識について、興味の赴くままに行動していく中で、体験から学び取ろう…というように、教育現場も変わろうとしています。学校教育ではまだ不十分なところもありますが、幼児教育の場では、「非認知能力の向上」を掲げて、アクティブ・ラーニングをすすめようという動きになってきています。

私が興味を持っているのは、0歳から2歳くらいまでの赤ちゃんのアクティブ・ラーニング。あれは遊んでいるようにみえるけれど、ラーニングしているのですね。
生まれてから2年くらいまでに二足で立って、ものすごく複雑な動作をするようになるし、母国語の基礎の学習みたいなことも。文法的におかしな言葉を聴くと心拍数が上がったりもするらしく、言葉はまだ話せなくても、文法感覚は既に持っているといわれています。
学校も先生も教科書も授業もないのだけれど、彼らは遊びながら学んでいる、まさにアクティブ・ラーニングを無意識に行っている。

大人になったらそういう学び方を全く忘れてしまうわけなのですが、大人になってからアクティブ・ラーニングをしよう…というのが「修行」ということになりますし、日常生活のすべてから、知らない間に何かが学び取られていて、長年経ってみると、学んだ人と学ばない人との差が非常に大きなものになっている。

そういう学びを、私は「オーガニック・ラーニング」と呼んでいますが、「大人版オーガニック・ラーニング」が修行で、そのモデルは赤ちゃんの非認知的な学びか、あるいは幼児教育現場でのアクティブ・ラーニングになります。

学校的な学びも必要な場面ももちろんあるのです。しかし、それだけだと、人間の智というのは痩せ細ってしまうのではないか。この塾に来ている人たちも、学校的な学びは好きじゃないという人が多いでしょ?(笑)

修行は競争でもないし、赤ちゃん的な愉しいもののはずなのですが、私たちは修行すら学校的な学びのイメージで見てしまっているから、「我慢してやる苦行」みたいに思ってしまう。
でもほんとうは、苦労も含めて愉快に学んでいるわけで。そういう学びのヴィジョンを、皆さんにも持っていていただきたい。仕事も含めて、生活万般をそのような学びの方向へシフトしていってもらえたらいいなと思っております。

§

〔5月開講へ向けてのhomework〕

「自受用三昧の話を聴いて、自分の中に立ち上がってきた「身体感覚・感情・思考」を、短い文章にしてきてください。」


……このあと、学習ノート⑤に続きます。


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