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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/04)学習ノート②

一照塾のコンセプトを確認し、学びの雰囲気を全体で共有した後は、いよいよメインコンテンツ「一照さんの弁道話講話」に入っていきます。
まずは、この塾がどのようなヴィジョンをもって「弁道話」を読むのか、ということを一照さんが語ります。
(4月開講・導入部分の概要は「学習ノート①」をご覧ください)


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一照さんが語る「弁道話を読むヴィジョン」


〔なぜ一照さんは、塾のテキストに「弁道話」を選んだか〕

1. 「弁道話」は"比較的分かりやすい"
道元禅師の書かれたものは難しい…とよく言われる。確かに難しいのだけれど、でも「日本語」なんですよね。たかだか800年くらい前の日本語で書かれたものだし、翻訳でもないので。(塾生一同:あちゃー(汗)…)
しかも、道元さんはわざわざ難解に書くつもりはなく、意識して平易に書かれているはず。
道元さんは、「わざわざこんな難しい日本語にしなくてもよかったのに…」ということから「悪筆家」だと言われることもあるけれども、正法眼蔵の他の巻、例えば「洗面」巻とか「洗浄」巻…顔の洗い方から、歯の磨き方から、トイレの使い方まで説いているものを見ると、非常に分かりやすく簡潔に文章を書ける人であることが分かる。

なので、「分かり難い」と言われる理由は、

私たちが道元さんに向かう「構え」


にあるのではないかと思う。

その「構え」のせいで分かり難くなっているということをだんだん理解するために、何度も何度も繰り返し読むというのが大事。
私が曹洞宗のお坊さんになって良かったなと思っていることの一つは、正法眼蔵から「逃げられない」こと。道元さんは曹洞宗の開祖なので、宗祖が書いたものが分からないのでは曹洞宗侶として恥ずかしい…というプレッシャーもあって、いまだに正法眼蔵とつき合っている。

§

2. 「弁道話」は道元さんの最初期の著作
禅の古典の中から「ライフデザインの補助線」として何を選ぶかと思った時に、まず真っ先に「弁道話」を思い浮かべた。
「弁道話」は、まだできていないこれからの日本の仏教界のありかたを想い、奈良仏教・平安仏教に対する物足りない思いを抱いて、わざわざ命を懸けて宋に渡って、そこで修行をして、眼を開いて日本に帰って来て「さあ、これからほんとうの仏教を日本に伝えるのだ」という意気に燃えている頃に書かれた文章。

道元さんは"禅を伝える"という言い方はしないで、「正伝の仏法(正しく伝えられた、仏の真実)」と言っている。この言い方を道元さんはよく用いている。

これからこのような仏教が日本に弘まって根づいてほしい、そのためにはどうすればよいか…という構想を描きながら、熱く語っているのが「弁道話」という文章なので、ライフデザインの補助線としてはよいのではないか、と思って選んだ。

§

3. 「弁道話」成立の歴史的背景
道元さんは、宋での4年間ほどの修行から1227年(27歳)に日本に帰ってきた。帰国後すぐ「普勧坐禅儀(誰にでも普く勧められる坐禅のやり方)」を書いた。このタイトルからも、道元さんの意気込みが伝わってくる。

これはそんなに長いものではないが、非常に凝縮された文章。正しく坐禅を伝えるという使命感をもって帰国したので、まず初めにこれを書いた。

そのあとに、京都・深草で静かに暮らしておられた時期があった(深草閑居)

道元さんは日本に帰ってきたときに、大歓迎されたわけではなくて、たった一人孤独で、弟子もまだ育っていなくて、まわりはまだ誰も道元さんのことを相手にしてくれないような状況だったが、道元さん自身の内側では、「さあ、これから正しい坐禅を弘めていくんだ」と、メラメラ燃えているような状態で書かれたのが、この「弁道話」であった。
その文章の端々に、そういう意気に燃えているような様子が感じられると思う。今回の塾での学びで、そんな道元さんの熱量が伝われば…と思って、弁道話を選んだ。

道元さんの深草安居の頃というのは、例えば映画『禅 ZEN』というのがあって…必ずしも史実に忠実なわけではなくドラマチックにはしていると思うが、その中で、道元さんが旧仏教勢力からの迫害を受ける場面が描かれている。焼き討ちに遭ったりするような…それはほんとうかどうかは分からないけれども。

その当時の仏教界には、堕落している…というのか、理想に燃えている道元の眼から見ると、本来の仏教の姿からはかなり逸脱しているように見えた状況が実際にあった。
京都で布教できればもっと効果的だったところを、いまの永平寺があるところのようなかなり辺鄙な場所に修行道場を建てることになった理由には、比叡山からの迫害など、京都に既にestablishment(強い影響力をもった既成の権威的勢力)としてあった旧仏教勢力からの圧力があった。

宋から帰ってすぐの頃は、建仁寺に住まわれていた。建仁寺での生活について触れた文章もいくつかあり、宋での修行時代に天童如浄禅師(道元さんの師匠)のところで集団で修行生活を送っていた頃からすると、道元さんの眼から見ると「かなりユルい、修行になっていないのでは」と見えていたので、建仁寺から出て深草にひとり住まわれることになった。

「このままではいけない、さあどうする?」という段階が、深草の頃の道元さんであった。

自分の眼で見た日本の仏教界の現状があり、一方、それとは全く違うありかたをした、後に「禅」と呼ばれるようになる、道元さんから見る「正伝の仏法(釈尊から達磨大師を経て、如浄禅師から受け継いだ教え)」を伝える使命を担っていて、しかし状況としてはまだ何も動いていない…というのが深草閑居の頃の道元さんであり、そのような背景をもって「弁道話」は書かれた。

歴史的な状況を見てみると、この頃の日本は、平安文化が終わり、貴族が支配していた時代から武家が支配する時代へと大きく移り変わる節目のようなところで、しかもまだそれが完全に移行しきっていないような社会的混乱の状況が、仏教界の混乱の背後に横たわっている。
社会的な混乱と自然災害がリンクして起きているような状況が、日本の場合は昔からよく見られるが、この時代にも飢饉や天災が各所で起きていた。
そういう中にあって、仏道という「人間がちゃんと生きるためのちゃんとした道」を学ぼうという意欲を持っている人たちのための道しるべというかたちで書かれたのが「弁道話」である。

§

4. 「辦」と「辨」
漢字というのは、ひとつの文字で多重の意味を表わす便利な文字。
弁道話の「弁」は、いまは弁護士の弁を書くが、もともとは「辦」と書くか「辨」と書くかの2通りの書き方がある。

「辨」:" リ " という文字には「輪郭をはっきりさせる」という意味がある。
「辨」は「道を諦める、はっきりとさせる、明らかにする」という意味。
「辦」:" カ " という文字には、「努力する」という意味がある。
「辦」は「道に力を致す」という意味。

「弁道話」とは、

「道をはっきりと明らめ、道に力を致すことについてのお話」


という意味である。

§

5. 「弁道話」についての参考書
(1)『正法眼蔵講話 - 弁道話」(澤木興道・著、大法輪閣)


(2)『正法眼蔵講話 (1) (2)』(西谷啓治・著、筑摩書房)


(3)『大乗仏典 - 中国・日本篇(23) 道元』(中央公論社)


§ §


6. 「発願利生」のライフデザイン
今回の塾では、"「弁道話」を補助線にして自分のライフデザインを描く"ということを目標にしたいし、そういう読み方で「弁道話」を読んでもらいたい。仏教学に照らして一字一句正確に読む、というよりは、

触発されてもらいたい。
自分の琴線に触れる何かを「弁道話」の中に見つけてもらいたい。


そのために、私は「弁道話」を解説する。

一つひとつの語句の正確な意味などは、参考書を読めばそれに関する情報は得られるだろうし、本を買わなくても、ネットで「弁道話」と検索すれば、様々な人が様々なことを書いていて、驚くほどの情報量があるので、それはそれで、自分にとって必要ならば、そのような勉強をしていただいても構わない。
(筆者注:塾生には、pdfファイル化されたテキストが事前にメールで配信されており、各自でプリントアウトして持参してきている)

道元さんがよく使う言葉に「発願(ほつがん、願をおこす)」というものがある。「願」というのは、仏教でいうところの「誓願」。菩薩(大乗仏教の理想像)というのは、必ず一人ひとりが誓願を持っている。

四弘誓願:どの菩薩も共通に持っている4つのuniversalな願
・衆生無辺誓願度(衆生は辺り(ほとり)なく無限に存在する。だからこそすべての衆生を救うと誓って願う)
・煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きることがない。だからこそ断じ尽くすと誓って願う)
・法門無量誓願学(仏の教えは数限りなくある。だからこそ全てを学ぶと誓って願う)
・仏道無上誓願成(仏道の歩みは何よりも尊い。だからこそ成就すると誓って願う)

「有限なる存在の私が無限の煩悩をなくします、無限にいる衆生を全員救います」というわけだから、最初からできないようなことを約束しているようで、「Mission:Impossible」みたいな話。ロジカル・シンキングが得意なアメリカ人なら「できないことを誓うだなんて…偽善的ではないですか?」みたいなことを言うかもしれない。

「できるか、できないか」という話ではなくて、

できるかどうかは分からないが「私はそうするために、自分の人生を使う」という決断


みたいなこと。

そのことを言うための例え話(仏教説話ではないけれど)があって…

「森が大火事になっている時に、小さな鳥が海へ行って自分の身体を濡らして、燃えている森の上に飛んでいって、「火事を消すんだ」といって羽根を振るわせて滴を落としている。それを見た他の動物たちは、「そんな少しずつポタポタと滴なんか落としたって、火事が消えるわけがないじゃないか」というのだが、小鳥は「消えるまでやる」と……

(参考) 南米エクアドルに伝わる説話「ハチドリのひとしずく」

菩薩には「別願(べつがん)」といって、一人ひとりの仏や菩薩(諸仏諸菩薩)がそれぞれに「自分が得意な領域で、自分が選んだフィールドで、私は特にこれを自分の課題にして取り組みます」という願がある。

(別願の例)
法蔵菩薩(阿弥陀如来)の「四十八願」
釈迦如来の「五百の大願」
薬師如来の「十二の大願」
普賢菩薩の「十大願」
…など

ライフデザインというのは、

「発願に基づくライフデザイン」


というあり方が必要。

これと対照的なものが「欲」。願も欲も「〇〇したい」という願いだが、欲の場合は「オレ」という個人に向かう。
願の場合は、自分を含めた生きとし生けるもの、あるいは"病むものすべて"という「他」に向かう願い。

「欲を願に振り向ける、欲のエネルギーを願のエネルギーに昇華する」
というのが仏教が大きな課題としているところ。欲のためにいのちを使うか、願のためにいのちを使うかで、人生の中で見えてくる風景が全然違ってきますよ!というのが、菩薩を理想像とする大乗仏教のヴィジョン。

道元さんは、発願で終わらないで、

「発願利生(ほつがん りしょう)」
(生きとし生けるものの幸せを増し苦しみを減らすという願いをおこす)


と言っている。

(参考)「発願利生」という言葉は、曹洞宗の経典「修証義」の第4章のタイトルになっている。


ライフデザインの方向性を、個人の欲から発願利生にシフトする。
この塾では、弁道話をこのような視点をもって読んでいきたい。

§ §

7. ゼミ長桜井さんから一照さんへの質問

(桜井さんからの質問)
道元さんは「弁道話」の中で、その当時の日本では誰も知らなかった概念を一から伝えようとする決心を表明している。そう考えた時に、道元さんはこの文章を「誰に届けたかったのだろうか?」
・自分の発願のために書いたのか?
・同じ問題意識を持って道元さんの周囲にいた人たちに向けて?
・これからの未来で道を歩む人たちに向けて?

〔一照さん回答〕
道元さんは、当時の日本の仏教をある意味で見限って絶望して中国に渡った。しかし宋での修行を経て、自らの眼が開いてみると、絶望を転じて希望を見出して日本に帰ってきたのだと思う。
18の問答の後、結びの文章の最後には、

「しかあればすなはち、これをあつめて、仏法をねがはむ哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄せむ参学の真流に、のこす。」


という一文がある。
例えば、大学入試の「古文」の問題で、"道元は「弁道話」をどんな人に届けようとしているのかを、文中の言葉を使って書け"という問いがあったら、この一文を抜き出して書けば正解になるだろうね(笑)。

仏法というものをほんとうに知りたいと思っている「哲匠(優れた人たち)」や、道をたずねて、雲のように「あそこに素晴らしい先生がいる」と聞いたらそこへ行き、また別のところにすぐれた師がいると聞けばそこへ行き…というように、真理を求めて一所不住でさすらう者たち…そういう真剣な道の求め方をしている「真流(ほんものの連中)」に、これを残す…。

「弁道話」を書いた時点では、実際にはそのような人たちは道元さんの下には集まってはいないけれど、来たるべきその日のために書き残しておく…というようなことはあったと思う。
このあと実際に、道元のように既存の仏教の教えに"救われた感じがしない"ような人や、これまでの仏教のありかたに疑問を持っていた人たち、道元さんの人間的魅力にひかれた人たちがだんだん集まって来た。
また、道元さん自身のことも「最近、宋から帰ってきたすごい若者がいる」ということでだんだん知られるようになっていく。そうすると、旧勢力からすると「目障りだ」ということでだんだん圧力もかかってくるようにもなったのだが…。

「まだ誰にも知られていないこと」というのは、こういう風にして広まっていくのではないだろうか。

例えば、鈴木俊隆さん(サンフランシスコ禅センターを創設した曹洞宗僧侶)がアメリカに渡ったころ(1960年代)の状況。

サンフランシスコにある日系人のお寺「桑港寺」の住職としてアメリカに行った頃は、その当時のアメリカ文化のありかた・価値観に疑問を持っていた若者たちがたくさんいて"カウンターカルチャー"を形成していた。
俊隆さんが行った時には、メインストリームの価値観に疑問をもって、それに対抗していこうというようなやる気のある人たちが、サンフランシスコ周辺にたまたま集まっていた。
俊隆さんが「坐禅をしたい人は誰でも来なさい」ということを英語で書いてお寺の前に貼り出していたら、だんだん人が集まってきて、そのうちに大きなサンガ(Samgha)になった…。

そもそも仏教のはじまりも、ブッダが「自分が見出したことは、誰かに教えたところで誰にも分かってもらえないよ…」と思っていたことが、気を取り直して話し出すようになったら、だんだん人が集まってきて、今では世界中で学ばれるような伝統になった…。(「梵天勧請」のエピソード)


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……このあと、学習ノート③に続きます。


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