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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/09)学習ノート④

(ここまでの9月一照塾)
「参究とは何か?」をめぐる一照さん講話、「何があなたをこの塾へ連れてきた?」の想いをシェアするグループワークの模様は、学習ノート①から。
「学道用心集」への導入として皆で読んだ詩、「Hokusai says」と、「Instead of A, B.」の構文を通じて学びのクオリティシフトを考える一照さんの講話の模様は、学習ノート②から。
「学道用心集」を執筆するまでの道元禅師の生い立ち・足取り、「学道用心集」という書物の概略についての一照さんの講義の模様は、学習ノート③をご覧ください。

この学習ノート④では、一照さんによる「学道用心集講話」(用心第一~第三)について振り返っていきます。

1. 菩提心を発すべき事(第一)

■ 学道だからこそ用心を
学道の用心の第一は、「菩提心を発すべき事」。
これは、用心の最初に置かれるにふさわしいものだと思いますね。
学道というのは用心しないと、我々はすぐに間違ってしまう。
曹洞宗では、学道用心集は"初心者が読むべき書物"といわれているのですが、これは経験者こそ読まなければいけない、あるいは、初心者であろうが経験者であろうが常に読み返さなければならないものだと、私は思っています。

私は最近、「ブッダが教える愉快な生き方」という本を出したのですが、その中で「ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は、偉大な宗教家というより偉大な学生であった」と書いています。"学生"は、「がくせい」というより「がくしょう」と読みます。要するに、学ぶことで生きている人、学びを人生としている人という意味です。
いまから思えば、私は子どもの頃から、働く人よりは「学生(がくしょう)」になりたかった、一生ずっと学生をやりたいと思っていたのだな、と思います。

仏教は何をオススメしているのかというと「行者」になることを勧めています。仏教は原則的に"行者の宗教"で、行者が歩む道のことを「学道」というわけです。それには、やはり用心が必要になる。
なぜかというと、学道という道から私たちを逸脱させる潜在力、「悪魔」と呼ばれるものが私たちの中にたくさんあるからです。そういうものがなければ、用心なんて必要ないわけです。

「学道だからこそ、用心が必要」と思ったほうがいい。

■ 発菩提心
まず第一は「発菩提心」と呼ばれているものについて書かれています。
菩提心を「発す(おこす)」と読みます。
それでは、最初の何行かを皆で声を出して朗読してみましょう。

右、菩提心は、多名一心なり。龍樹祖師の曰く、唯だ世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名づくと。然れば乃ち暫く此の心に依りて、菩提心と為すべきものか。

誠に其れ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず、時光の太だ速やかなることを恐怖(くふ)し、所以に行道は頭燃を救(はら)い、身命の牢からざることを顧眄(こめん)し、所以に精進は翹足(ぎょうそく)に慣う。

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発菩提心を略して「発心(ほっしん)」と言います。"道に志す"ことです。
「私は今から学道をやるぞ!道を学ぶぞ!修行をしていくぞ!」ということです。これが起こらないことには何も始まらないので、まずこれが大事です。

仏教の修行の4段階、「発心→修行→菩提→涅槃」というものがあります。
これは、四国八十八か所巡礼(お遍路さん)が

徳島で発心 → 高知で修行をして → 愛媛で菩提を得て → 香川で涅槃に入る

というふうにできています。うまく出来てるなと思いますね。

しかし道元さんは、こういう感じでステージ的に考えることを嫌っていて、「涅槃があるから発心がある」というような、循環モデルで考えています。

『正法眼蔵』の中には、内容が少しずつ違う2つの「発菩提心」という巻があります。そこには、「発菩提心」という表現と、「菩提心発(ぼだいしんぽつ)」という言い方もあります。何もないところに菩提心がポッと出てくるのではなくて、実はそれは"菩提心が私の中で起きた"という意味合いです。目指しているものが私のところへやって来ているという表現法です。

これは、先ほど話したフレデリック・ラルーさんの「Let the Purpose find you.(目的があなたを見つけるようにしなさい)」と似たようなことですね。道が私を見つけて、道の表現者になることへ誘われている。

■ 呼ばれる
英語で、職業(天職)のことを「vocation」といいますが、単語の最初の"voc"のところには「呼び声(voice)」が隠れています。今やっている仕事は、私が給料とか福利厚生とかを"損得勘定"で考えて選んだと思っているかもしれないけれど、実は深いところでは「呼ばれて」やっているんだ…みたいなことです。
あるいは「Calling(神のお召し、召命)」ともいいます。これも文字通り「呼ばれて」います。なので、菩提心も私が損得勘定で起こしたのではなくて、実は「菩提心が私に呼びかけて、それに私が応えたものだ」という意味になってきます。
これは浄土真宗でも同じ言い方をしますね。「南無阿弥陀仏」というのは私から出ているのではなくて、阿弥陀仏からの呼びかけに応えて出ているものだというようなことです。

■ 無限と有限の"交流"

人間の心の中には、自分を越えたものからの呼びかけに応えるという受け取り方をするはたらきもあるのです。
「アミターバ」というのは「限りのない命と光」ということですから、阿弥陀仏自体が無限のことなのです。一方、私という有限の存在がここにある。有限は無限と切り離されているのではなくて、無限と有限が交流している。こういうことが、「菩提心発」という表現の背景にあると思います。

2. 生滅無常を観ずる心

「多名一心」、菩提心というのはいろいろな名前で呼ばれるのだけれど、結局それは一つの心である。
ここに出てくる「龍樹祖師」というのは、仏教でブッダの次くらいに重要視されている、「八宗の祖」ともいわれている人物です。

禅宗でも「那伽悶刺樹那大和尚(なぎゃはらじゅな だいおしょう)」という15代目のお祖師さんとされていますし、真宗でも「七高僧」のひとりとして尊ばれています。

禅と真宗は全然違う教えですけれど、どちらにも「龍樹尊者、龍樹菩薩」として、大事な先生として位置づけられています。

その龍樹さんが「世間の生滅無常を観ずる心も亦た菩提心と名づく」と言っているので、道元さんもそれに倣って「一応ここでは無常を観ずる心を菩提心と呼ぶことにしようか」と言っています。

世間というのは、生滅無常するところなのです。
それを「観ずる」、考えるのではなくて「ちゃんと見る」ということです。

これが、先ほどの「Hokusai says」の詩の「Look carefully, pay attention, notice, keep looking, stay curious. there is no end to seeing.」と共通するところですね。北斎が「見ろ!見ろ!見ろ!」とずっと言っている。

曇りなき眼で世間を観たら、すべてのものが生まれて滅びている。それを「無常」と言います。
あるいは、英語では「constant flux(常に流れているもの)」とも言います。
しかし、生滅無常するのは外のものだけではなくて、実は”私”がいちばん生滅無常しているのです。

川の流れは、よく無常の喩えとして使われますよね。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(鴨長明「方丈記」)


3. Instead of 自我執着心

その次に「吾我」というのが出てきますが、吾我は”ゆく河の流れ”から浮いたかのように分離してあるもの(separated self)です。いのちの流れから分離して、ずっと変わらないかのように存在している…。
実は、これは「錯誤、錯覚」なのです。脳が自分で自分をだましちゃっている。消えていないのに「消えたー!」みたいな、マジックのトリックに引っかかっているようなものです。

ゆく河の流れは常に変わっているのだけれど、「変わらない私」がずっとあるように見えちゃっている。
吾我の特徴は「分離と持続」です。ほんとうは分離していないのに分離させなければいけないし、その分離を持続させなければいけないので、吾我を維持するというのはたいへん疲れることなのです。
こういう錯誤とともに何が生まれるのかというと、「防衛と恐怖」です。この防衛と恐怖に基づいて、幸せや安全を探しはじめる。しかし防衛と恐怖に基づいているので、見つかる幸せや安全も、防衛と恐怖の色合いを帯びたものになります。吾我を維持すれば維持するほど錯誤が深まるし、防衛や恐怖が強まっていきます。

無常から免れているものは一つとしてない。自分を例外視してはいけないということです。

生滅無常を観ずると何があるかというと、英語で言うと「nothing to cling」、しがみつけるものは何もないということが分かってきます。残念だけれど。しかし、私たちはしがみつけるものを一つひとつ作り出してしまう。それが「自我執着心」です。「Instead of 自我執着心、〇〇」というのを考えなければいけない。

「吾我の心生ぜず、名利の念起こらず」と書いてありますが、これを逆に言うと「吾我の心が生じたら、そこには必ず名利の念が起きる」ということになります。吾我の心と名利の念はセットになっている。
“名”というのは名声とか評判という、抽象的なものです。
“利”は物質的な富のことです。
富と名声。皆さん、欲しいでしょう?(笑)

吾我というのは、いつでもビクビクしています。ビクビクしないように吾我を強化するために、名声と富が必要なのです。
「これだけ名声が上がったら大丈夫」とか「これだけ富を得たから安心」というようなことはないのです。キリがない。なぜかというと、吾我なんて元々ないものだからです。吾我は非常にfragileなものであることを自分で薄々知っているから、その外に壁を張り巡らさなければならなくなる。その代表的なものが富と名声というわけです。

「名利の念を追求したくなったら、無常であることを忘れている」と思っていい。

世間が生滅無常しているという事実は、私たちにパワーがないからとか、あなたが罪深いからとか、努力が足りないから無常なのではなくて、私たちはそういう条件の下に生まれてきているのです。「人間の条件」ということですね。

4. Bへの発心

この事実を受け入れたくないものだから、何か無常ではないものを設けてしまうのです。ほんとうは頼りになどならないものを頼りにしてしまうから、動揺してしまいます。真の拠り所ではないものを拠り所にして、その上にいろいろなものを建てようとするから、動揺を免れない。しかし、私たちはそれを繰り返しやってしまう。
「そういうことは無駄だし、エネルギーの浪費である」という気づきが必要になってきます。「Instead of A, B.」の"A"のところには、「Aのままではいけないな」という問題意識を感じなければいけない。
そこで、Bのほうへ目を向けるのが「発心」ということです。
三界の法には、頼れるものは何一つない。そういう生き方ではない生き方を考えなければならない…というのが「Bへの発心」ということになります。

5. 行道は頭燃を救うべし

「行道は頭燃を救う(ずねんをはらう)」、これも禅ではよく使われる喩えです。「頭が燃えているのを消す」という意味ですが、修行というのは、燃えている頭の火を消すような切迫感がなければならない。
「大学を卒業してから発心します」とか、「もうちょっと貯金がたまったら修行します」というのではダメなんですね。

私もお坊さんになる時に、あと10か月で博士課程が修了するはずだったのですが、そのとき周りの人に「あと10か月我慢してからでも遅くないんじゃないか?」と言われました。

けれどその時、私の友人が3人立て続けに亡くなってしまいました。

2人は病気、1人は自殺でした。
その内の1人は血液の病気で、亡くなる前の週に、私はその人に会っているんですよ。私がいた研究室で助手をやっていた女性で、将来を嘱望されていた人でした。

私たちがいた研究室は建物の3階で、その当時のビデオカメラは、大きくてとても重いジュラルミンケースに入っているようなものでしたけれど、亡くなる前の週に彼女が「藤田くーん!重いものがあるから手伝って」という声が聞こえて「はーい」といって手伝ったりしていたんです。そしてその次の週に亡くなってしまいました。
「ちょっと疲れたから」といって病院に行ったら、血液のガンだというのが分かって、「血液を入れ替えるしかない」というので一か八かでやってみたのですが、結局うまくいかずに亡くなってしまいました。

私はその訃報を、私に「安泰寺に行ったらどうか?」と勧めてくれた臨済宗の老師のお寺で受け取りました。しかも彼女のお葬式は、その老師のお寺の最寄り駅の一つ隣の駅近くにある彼女の自宅でした。
お葬式に着ていく服がなかったので、お寺で黒い作務衣を借りて行ったら、お経を上げに来たお坊さんと間違われて頭を下げられてしまいました(笑)。

その当時は「行道は頭燃を救うべし」という言葉は知りませんでしたが、その出来事をそういうメッセージとして受け取ったので、「もう待っていられない」ということで、安泰寺に入りました。

「身命の牢からざることを顧眄し」、これはまさにその通りで、先週までピンピンしていた人が今週に亡くなってしまうのですから、「いのちというものはそんなに堅牢なものではないということをよく振り返ってみなさい」ということです。
「精進は翹足に慣う」、翹足(ぎょうそく)というのは、鳥が飛び立つ瞬間に足がつま先立ちになることを言いますが、お釈迦様がいつもそのような切迫感をもって修行なさっていたというのを喩えて言っている言葉です。

6. Memento Mori.

これは必ずしも「俺はいつ死ぬんだ…」とビクビクしながら修行しなさいという意味ではありません。

「死という絶対的な事実の前に、あなたのPriority listを置いて見てみなさい」

ということです。
「死のワークショップ」などでも、"もし、明日死ぬとしたら…"という思考実験をしますね。

「もし1か月後にあなたが死ぬとしたら、死ぬ前にやりたいことを挙げてみてください」
「10日後」
「1週間後」
「あした」
「1時間後」
「いま、次の瞬間に死ぬとしたら?」

この塾には、緩和ケアのお医者さんも参加してくださっていますが、誰の死かというと「自分の死、1人称の死」ですよ。
これは不思議なことなのですが、「自分の死は、絶対に経験できない」のです。だって、経験する人がいなくなるのが自分の死ですから。自分の死というのは見られませんから、「自分の死とは何か?」というのは、全くの未知の領域にあります。

なので、それは身近な人の死(2人称の死)、あるいは、テレビのニュースなどで知るような死(3人称の死)から類推するしかない。最近は"2.5人称の死"ということも言われていますが。

これらと、自分自身の死というのは、全然違います。
自分自身の死というのは、自分自身の向こうに置いて見ることができない。
その先がどうなっているのか、誰も知らない。
そういうものが、私たちが生きているこの現場にちゃんとあるということを知って生きよ、という「Memento Mori.(死を思え、死を忘れるな」という中世の格言があります。

私の知人で、かつて入院していた時にお見舞いに来てくれた人に見えるように、病室の壁に達筆で「おまえも死ぬぞ」と書いた紙を張っていたそうです。

チベット仏教には、「死の確実性」と「死の不確実性」を瞑想状態の中でかみしめ味わう、という「死の瞑想」というものがあります。

(1) 死の確実性
必ず死ぬ。誰一人として例外なく、男女や貧富、社会的な地位…人間にまつわる一切の属性を問わず、生きているものは必ず死ぬ。

(2) 死の不確実性
いつ、どこで、どうやって死ぬのかは分からない。

「あいつも死んだ…あの人も死んだ…師匠も死んだ…友達も死んだ…そしてそれは必ず私にも起こる」というように、瞑想という"逃げられない状態"の中でずっと考え続けていく。これはメディテーション(meditation)とは言わずに、「contemplation(黙想)」と言います。
沈黙の中で、ある一つのテーマについて自分の中でじっと反すうしていく。言葉の持っている意味がハートのほうにしみ込んできたら、もう「あいつも死んだ…あの人も死んだ…」というのは繰り返さなくてもいい。
そういうことをやっていくと、ある"体感"や、気分や感情、思考が起きてくる。それをじっと味わっているのが、コンテンプレーションです。

このチベットの死の瞑想では、テーマは死というよりは「生」のほうなのです。死という絶対的事実が照らし出す、生の"神秘、奇跡"。
死というものを、こういったかたちで自分の中に"体感"として染み込ませていくことで、生に陰影がついて、平板で浮ついた生の実感ではなくて、より陰影がついて深みのある生の実感をもって生きるのをねらったのが、チベットの死の瞑想です。

禅ではここまで方法化はされていませんが、ここに書いてある「世間の生滅無常を観ずる」というのは、これに近いと思います。

7. ボーッと生きてんじゃねーよ!

多く名利の坑に堕して、永く仏道の命を失す。哀れむべし惜しむべし。縦い顕密の教籍を伝うることありとも、未だ名利を抛(なげう)たずんば、未だ発心と称せず。

「名利の落とし穴に落ちてしまって、大事な人生を意義深く生きないで、気がついたら死んでしまっていた…みたいな、"チコちゃんに叱られる"ような生き方をしている人が多い。哀しいことで惜しいことである」と書いてあります。

「いくら経典をたくさん読んでいたり、仏教に詳しかったりしていても、名利の念を投げ捨てなければ、発心にすら至っていないのだ」と書いています。当時は、名利の念でお坊さんになるような人が多かったんだろうと思いますね。いまでも多いと思いますけど(笑)、きょうびお坊さんになることは名利にならないですね。道元さんの当時は、お坊さんといえば"尊敬される人で、社会的にもエリート"でしたからね。今の時代だったら、名利の念を持っている人は何になる?大臣とか官僚とかですかね。

そういう「名利」が動機なのだったら、いくら経典とか一生懸命読んだって「発心」とすら呼べない、発心以前、仏道が始まってもいない…ということです。

「あるが云く、菩提心とは、無常正等覚心なり…あるが云く、一念三千の観解なり。…」からのところは、冒頭のところで「菩提心には様々な呼び名がある(多名一心)」と書いていましたが、いろいろな宗派での菩提心が書かれています。
これに対して、道元さんは厳しいことを言っていますね!

是の如きの輩、未だ菩提心を知らず、猥りに菩提心を謗ず。仏道の中において、遠くして遠し。

「こんなことを言っている連中は、菩提心を知らない。知らずにそんなことを言っているから、菩提心を誹謗しているのだ。真実の仏道から遠く遠く離れている者たちである」と言っています。

8. Instead of 吾我名利の心, 発心.

「試みに吾我名利の心の当心を顧みよ」、吾我や、そこから発する名利の心というものを、よく顧みなければならないということです。
「Instead of 吾我名利の心, 発心.」、心を入れ替えなければならない。

いつどこで死ぬか分からないけれど、必ず死ぬ有限なる私の人生は、どうやって生きるのが「真実」なのかということを求める心が「発心」です。

私たちも例外なく皆そういう願いを持っているのだけれど、どこかで間違えて名利の心に覆いかぶさられてしまって、名利の心を追い求めることがほんとうの人生の目的だというように、どこかで勘違いしてしまっているので、もう一度思い出しましょうよ、という呼びかけ…それが「発心」です。

私たちは人間なのですから、頭使ってよくよく考えて自らに問うてみたらいいんです。
「吾我名利の心を満足させて、それでどうなるっちゅーの?!」って。

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9. それで?

私が安泰寺で修行していた頃も、師匠が「おまえ、何しにここ(安泰寺)へ来たんだ?」と聞くわけです。
それに対して私が「かくかくしかじかのためです!」と答えると、「それで?」私がまた何か言うと、師匠がまた「それで?」
だんだん言うことがなくなってきて、言っている私の方が惨めな気分になったものでした。

その「それで?それがどうしたの?」を最も強烈に問いかけてくるのが「死」です。

「ふぅーん…。でも、アンタ死ぬよね」と問われた時に、「いや、それでも」と言い返せるだけの何かがあるか?ということです。ほどんどの場合、ないんじゃないですかね?

逆説的に言うと、だからこそ私たちはすごく自由なんじゃないかなと思います。

死と引き換えだったら……
会社を辞めれません「辞めれるんじゃないの?」
離婚できないんです「できるんじゃない?」

「そんなのやめたらいいじゃん?」と、死から言われているわけです。
「これは絶対できない!」と頑なに思っているのだけれど、そんなことはなくて、実は私たちはすごく自由なんだと思います。いろんな口実や言い訳をつくって、自分で自由を諦めてしまっている。
「死という事実」を考えてみたら、そんなことは言っていられないのではないですか?ほんとうにやりたいことは、やらないといけない。
それで、自分がほんとうに自由であることが分かったら、「なんだ、やめたってよかったんだ!、大丈夫、死にゃしない。何とかなる。」…ってなるかもしれない。私は保証できないけど(笑)。
世間で"無常を観ずる"と言うと、「いやいや、縁起でもない!」と言われるかもしれないけど、実は無常を観ずると、私たちは自由を取り戻すことができる。

10. 無常と戦う人間の努力の成果

「菩提心を"無常を観ずる心"と捉えてみてはどうだろうか?そうしたら、余計な"ああしたい、こうしたい"という思いよりも、菩提心を起こさざるを得ないだろう?」ということです。
無常を観じても菩提心が起きないというのなら、無常を観ずることの徹底が足りないということです。

無常という事実に対して、人間は有史以来抵抗してきたわけです。

■ 無常と戦う人間の営み
(1) 科学
科学は、人間を死なないようにしてきました。「自分の意識をコンピュータにアップロードして、身体は滅びても私の意識は生き残る」ということを真面目に研究している人がいるそうです。無常を叩きつぶす営み。
(2) 芸術
美によって、無常を忘れさせる。
(3) 宗教
無常を慰めてくれる。

「叩きつぶす、忘れさせる、慰める」この3つのやり方で、人間は無常に抵抗してきました。

では、仏教は何か。仏教は、「無常を知る」
「叩きつぶす、忘れさせる、慰める」、これらは、無常を無常としてそのまま受け入れてはいないですよね。仏教は、無常に抵抗しない。

無常を受容し、理解する。
そして、無常を愉しんで生きる。
これは、ブッダが初めて見つけたアプローチです。
無常を理解するには、無常との距離をゼロにして親しまなければいけない。このことを、私たちはきちんと受け止めなければならないと思いますね。

吾我は無常を受け入れたくないから、無常に抵抗するために科学や芸術、宗教を生み出したと言えます。
吾我の特徴は、無常の波を入れないように「固い殻を持っている」ということです。

無常が近づいてきたら、ケンカして追い返す。
無常がすぐ目の前に近づいていたら、そこからちょっと"トリップ"して、忘我の境地になって忘れる。
あるいは、宗教は「大丈夫、大丈夫。死んでも死なないよ。場所が変わるだけだから。もっといいところへいくよ。」と言って慰める。

…そんなのに騙されるかよ?!っていう感じです(笑)。
Enough is enough ! そんなのはもういいわ!

11. 吾我の風通しを良くする

無常を理解して受容しようと思ったら、吾我を開かなければいけない。
吾我に穴をあけて、風通しを良くしないといけないです。

私たちは、これがギューッと固まって、まるでヤマアラシが背中の針を逆立てているような状態で、無常・死と戦っているわけです。
しかし、この"ホバーマン・スフィア"をふわっと開いたようなありかたというのがあるわけです。こうすると、外にも内にも開いていって、先ほどの"ゆく河の流れ"みたいなものが入ってくるようになるのです。この状態になると、無常に親しむことができて、受容し理解できるようになります。

このように、「無常と親しむために吾我のかたちを変えるような人生の使い方を学ぼうよ」というのが「学道」だと思います。

12. 六十二見にBye Bye

「所以に六十二見は我を以て本と為す。」
"六十二見"というのは、ブッダの当時のインドにあった、哲学的立場を異にする様々な見解のことです。それを数えると62個あって、初期仏典の「梵網経」という経典にそのすべてが列挙されています。人間の思考のあらゆる可能性のリストみたいなものです。

「我を以て本と為す」と書いてありますから、六十二見というのは、吾我を錯覚した後に出てくる見解ということになります。
一方、仏教は吾我という錯覚が生まれる前に行かなければいけないので、この六十二見に対しては「Bye Bye、さようなら」なんですね。

ブッダの当時のインドには論争が好きな人が多かったのか、六十二見を主張する人たちの間で、ああだこうだ、俺が正しい、おまえは間違っている…と論争していたのですが、ブッダは「見解によって争いをするのは全く時間の無駄だから、一切関わるな」と言っています。

これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称讃を得るだけである。(たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
(「ブッダのことば スッタニパータ」中村元・訳)


13. 静坐観察して、家の作り手を見抜く

「若し我見起こるの時は、静坐観察せよ。」
"よく見て、トリックを見抜きなさい"ということですね。
ブッダは悟りを開いた時「家の作り手を見つけた」と言いました。

「家の作り手」というのは、吾我という錯覚を作り出すカラクリのことです。持続して、閉じて、分離した「我」と、"客観的世界"が同時にできる。
この間、哲学者の永井均先生とお話をした時に、永井先生はカントの哲学を持ち出して、世界の構築のしかたの話をしていました。カントは"人間は悟性とカテゴリーで世界を構築する"と言っていて、世界が構築される時には必ず"持続する私"もできていて、この2つはセットになっている。
ブッダ「家の作り手を見つけた」というのは、この仕組みが分かったことだと私は理解しています。

「静坐観察」、これが坐禅のことです。
我見が起きたときには、身心は緊張しています。そこで"自分の心をよく振り返ってみなさい"というのが静坐観察です。
「これが我である」と言い張れるところのものは、一つもない。
我の特徴は「永遠に単独で存在しているありかた」ということですが、そんなものは一つもないということです。我というありかたで存在しているのではなくて、すべては変化するプロセスとして存在しているということです。

「迷う者は之れに執し、悟る者は之れを離る。」
迷っている者は、自分が無意識に作り出したかりそめの幻のような我に執着して、悟る者はこれを離れる。
「そんなに力んで守らなければいけないものなんて、実はないんだよ」ということです。

私たちが「私は〇〇である」の〇〇というのは、そのほとんどが"属性"ですよね。それは偶発的に備わったもので、必ずしもそれでなくてもよかったものです。そういうものに自分を同一化して、すったもんだしている。
そこで、頭ののぼせを下げてみれば…"そんなのどうでもいい"と言うのは言い過ぎかもしれませんが、そんなに力む必要はなくて、もっと大事なものがあるのではないですか?ということですね。

14. 比類なき<私>に驚愕する発心

「而るに無我を之れ我と計し、不生を之れ生と執し、仏道の行ずべきを行ぜず、世情の断ずべきを断ぜず、実法を厭い妄法を求む。豈に錯らざらんや。」
無我なのに"我である"と思いこむような、錯覚に錯覚を重ねて、やるべきことをやらないで、手放すべきことを手放さないで、真実の法を嫌い、誤った法を求めている。それをはやく切り替えて、正しい方向性に向けなければいけないよ…というのが「発心」で、それを起動させるいちばんの近道が「世間の無常を観ずる」ことですよ、ということです。

この「発心」というのは、お坊さんに限った話ではなくて、すべての人に必要です。

発心とか発菩提心というのは、宇宙に一つしかない、神様でさえ奪えない、独在する比類なき<私>を再発見して、それに驚愕することだと私は思います。このあたりは、哲学者の永井均先生の本を参考になさってください。


15. 正法を見聞して必ず修習すべき事(第二)

では、用心の第二に入っていきます。ここもすごく大事なところです。
まず私たちは、正法を"見聞"、見たり聞いたりします。いまこのレジュメで学道用心集を読んでいることも、見たり聞いたりの中に入るでしょうね。あるいは、最近いろんな人がYouTubeで説法したりしているので、それを見るのもそうですね。あるいはお寺での法話会や仏教セミナーのような講座に出かけていくのもそうですね。

見聞したら、「修習(しゅじゅう)」することが大事だと言っています。
「修めて、習う」…これにはどんなニュアンスが込められているかというと、"修"は、「"行"として行なう」ということです。行というのは必ず身も使うし、心も使う。「正法は、身心を挙げて行なう」ということです。
そして"習"は、「繰り返し繰り返し行って、身につける」ということです。

「正法を聞いたら、必ず実行しなければいけない」と書かれています。
身心を挙げた行として、繰り返し繰り返し行なって、身につけなければならない。これを「体現、体得」と言います。英語で言うと「Embody」、"身体に刻み込む"というニュアンスですね。

仏道というのは、身体で示せなければいけない。
いかに高度な理論で、科学的なエビデンスに基づいて書かれた"筋トレ本"を何冊読もうが、自分の身体でやってみないことには筋肉にならないのと同じことです…「仏道修行を筋トレで喩えるとは何事か?!」って言われそうですけど(笑)、実際そういう話なのです。

「仏法を一言聞いたら、その一言分を実際にやってみる」ということですね。

16. 仏道は必ず行に依りて証入すべきこと(第三)

道元さんの当時は、仏教やってると言ったって「口ばっかり」の人が多かったんでしょうね。それまでは、経典を読んでそれを哲学的に解釈したり…というのが仏教だと思われていたわけですから、修行というものがどういうものなのか、ほとんどよく分かっていなかったのでしょう。

道元さんが伝えた坐禅のしかたであるとか、トイレの入り方、食事のとり方…日常生活の全てを修行として再編集するといったようなことは、当時はまだ誰も知らなかったのです。

証入の"証"というのは「実物」ということで、いちばん近くにある実物は何かというと「自分の身体」です。この身をもって行うということです。

「学べば乃ち禄その中に在り」。
「仏の言わく、行ずれば乃ち証その中に在り」。

"禄"というのは「学んだ成果」ということですが、「学ぶことそれ自体の中に、その成果がある」と言っています。「行じた結果、そのうち証が
やって来る」のではなくて、証は、すでに行の中にある」ということです。

未だ嘗て学ばずして禄を得る者、行ぜずして証を得る者を聞くことを得ず。縦い行に信法頓漸の異ありとも、必ず行を待って証を超ゆ。縦ひ学に浅深利鈍の科あるも、必ず学を積んで禄に預る。

何もしていないのに、禄や証を得た者はいない。
行を実行しないと仏教が約束している尊いものは手に入らない、ということです。

17. 行を迷中に立てる、証を覚前に得る

この言葉は、禅ではよく引用されるものです。
「迷いの中で修行を始める」。迷いがなくなってから行を始めるとか、迷いを嫌がって行に逃げる…というのではなくて、

「迷いの真っ只中で、迷いを糧にして行を立てる」

ということです。

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識るべし、行を迷中に立つるは、証を覚前に獲るものなることを。

"覚"というのは、「あ、オレ分かった!」というような自覚のことだと思います。私たちは「あ、分かった!!」という体験を得たいのですが、大事なのは、「修行の成果というのは、自覚する前にすでにこの身の中に起きているのだ」ということです。

例えば、最近坐禅を始めたという人に「あなた、最近表情が穏やかになったね」と、本人が気づく前に周りの人が気づいて声をかけて、それで本人が「え?そうかしら?」とビックリする…という場面がありますが、つまり、行というのは「意識を超えている」ということです。
私の意識が「あっ、何か得たぞ、分かったぞ」というのが、ここで言う"覚"なのですが、それ以前に行を通して身に証が顕れている。
長年坐禅をやっている人が「ずっとやってるけど、何の手応えもないんですよね…」と言ったりする。でも、「自分で自覚できないし、言語化もできないけれど"覚前に得ている"、それをよく知っておきなさい」と書かれています。

時に始めて船筏の昨夢を知って、永く藤蛇の旧見を断ず。これ仏の強為に非ず。機の周旋せしむる所なり。

いままでは「川を渡るのに、この船がいいか、あの筏がいいか?」と迷っていたのだけれど、迷いの中の修行がそのまま悟りであることを知って、川を渡ってみるとそんなものは必要なくなってしまう。
こういうことは、仏が強引にやったものではなくて、仏のはたらきが熟してめぐりあわせたものである。

プログラム通りに、step by stepでデジタル的に修行をしようとしているわけですが、修行はそういうものではなく、「機の周旋せしむる所」。
これは"発酵現象"のようなもので、人間のコントロールを超えているところがある。ファクターが多すぎて「こうしたら、こうなる」ということは言えない。「これと、これと、これを一緒にしておいて、ある温度に保っておくと、ある一定の時間が経つとそうなる」。
ハイデガーの哲学概念に「時熟」というものがありますが、まさにここには「時の経過」が必要になってきます。

況んや行の招く所は証なり。
自家の宝蔵、外より来たらず。

修行が証を招いている、しかし招くといっても、自分の家にある宝は外から来るものではなくて、元々持っていたものである。
このあたりのことは「弁道話」にも「修証一等」と詳しく書いてあります。

それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。(弁道話)

"長い間に修行を重ねて、その果てに証を得る"というのは、修と証を分けて考えています。これについて道元さんは「全く仏教の考え方ではない、外道の考え方である」と言っています。

然れども若し証眼を廻らして行地を顧みれば、一翳の眼に当たるなく、将に見んとすれば白雲万里。

"悟った眼"から、いま来た道をもう一度振り返って眺めてみると、私たちが悟りについて想像するような「あの時にはあんなことがあった、あの日あの時に私は悟った」というようなことは一つもない…と書いてあります。

私たちは、修行観を変えなければいけないのですね。

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18. 修行の"引っ越しモデル"と"穴掘りモデル"

若し行足を挙して証階に擬すれば、一塵の足に受くるなく、将に踏まんとすれば天地懸隔。ここにおいて退歩せば、仏地をぼつ跳せん。("ぼつ"は足偏に孛)

「修行というのは、"悟りへの階段みたいなものを設けて、一段一段上がっていく"というイメージのものではない」と書いてあります。
では、修行とはどのようなものなのか?というのは、次回以降のところで読むことになると思いますが、この箇所では「退歩」ということが言われています。

階段を一歩ずつ上がっていくのは「進歩」ですよね。
一つひとつ段々に進歩していって、最終ゴールに到達…というモデルではなく「退歩」、前に進むのではなくて、自分が今いる所へ深まっていくということです。

私は、「韓氏意拳」という中国武術を教えている光岡英稔先生という方と一緒に「退歩のススメ」という対談本を作りましたが…

今いるところから、ここではない別なところへ移動するのではなくて、今いるところを「掘っていく」。これを、私は「引っ越しモデルと穴掘りモデル」と言っています。
私たちは「もっといいところへ行くために頑張る」というように、修行を引っ越しモデルで考えています。しかし、道元さんがイメージしている修行というのは、穴掘りモデルなのです。

この「学道用心集」は、この10の用心の順番で修行が深まるというより、様々な角度から修行というものを考えているので、この後に読んでいくと、また用心第一に還っていったりすることになると思いますので、今日この一回で全部を分からなくてもいいと思います。

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……このあと、「学習ノート⑤」に続きます。


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