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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/09)学習ノート②

(ここまでの9月一照塾)
「参究とは何か?」をめぐる一照さん講話、「何があなたをこの塾へ連れてきた?」の想いをシェアするグループワークの模様は、学習ノート①をご覧ください。

この学習ノート②では、「学道用心集」の講読に先駆けて皆で読んだ詩、「Hokusai says」と、「Instead of A, B.」の構文を通じて学びのクオリティシフトを考える一照さんの講話について振り返っていきます。

1. Hokusai says

それでは、「学道用心集」の講読を始めていくのですが、その前に皆で読んでみたい文章がありますので、レジュメを一人1枚ずつ取ってください。

まず一つは「Hokusai says」という、詩のような文章です。これは瞑想やスピリチュアルの本などでもよく引用されています。
いま私は、鎌倉の円覚寺の塔頭寺院「龍隠庵」で毎月一度、「無心のマインドフルネス研究会」というのをやっていて、そこで読んでいるテキストの最後にこれが引用されていました。日本語訳もあったのですが、原文のほうがいいかなと思って持ってきました。

この詩を書いたのは、ロジャー・キース(Roger Keyes)という人で、彼は長年にわたって葛飾北斎の研究をしていて、北斎の作品や彼自身の生き様、晩年になるにつれて作品がどんどん円熟していく様子にインスパイアされて、「北斎が何を教えてくれているのか?」を書いた詩ということです。

(参考:Hokusai saysの詩を、ロジャー・キース氏自身が朗読した音声)

Hokusai says - written by Roger Keyes

Hokusai says Look carefully.
He says pay attention, notice.
He says keep looking, stay curious.
He says there is no end to seeing.
He says Look Forward to getting old.
He says keep changing, you just get more who you really are.
He says get stuck, accept it, repeat yourself as long as it’s interesting.
He says keep doing what you love.
He says keep praying.
He says every one of us is a child, every one of us is ancient, every one of us has a body.
He says every one of us is frightened.
He says every one of us has to find a way to live with fear.
He says everything is alive –shells, buildings, people, fish, mountains, trees.
Wood is alive. Water is alive.
Everything has its own life.
Everything lives inside us.
He says live with the world inside you.
He says it doesn’t matter if you draw, or write books.
It doesn’t matter if you saw wood, or catch fish.
It doesn’t matter if you sit at home
and stare at the ants on your verandah or the shadows of the trees
and grasses in your garden.
It matters that you care. It matters that you feel.
It matters that you notice. It matters that life lives through you.
Contentment is life living through you.
Joy is life living through you.
Satisfaction and strength are life living through you.
Peace is life living through you.
He says don’t be afraid. Don’t be afraid.
Look, feel, let life take you by the hand.
Let life live through you.

〔一照さん翻訳&解説〕
「Hokusai says」、北斎は言う…"北斎が私たちにいろいろなことを教えている"というニュアンスでしょうね。

北斎は言う、注意深く見よ。注意を払いなさい。気づきなさい。
彼は言う、見続けなさい。好奇心を持ち続けなさい。
「見る」ということには終わりがない、と彼は言う。
年老いることを楽しみにしなさい。
変わり続けなさい。

「you just get more who you really are」、ここはちょっと訳しにくいですが、"(年老いることや変わり続けることが)あなたの本来の姿により近づけてくれる"と言うような意味でしょうか。

「get stuck」というのは"行き詰まる"と言う意味。
行き詰まりなさい。それを受け入れなさい。そして、それが興味深いことである限り繰り返しなさい。

愛することをやり続けなさい。
祈り続けなさい。
北斎は言う。我々の一人ひとりが子どもである。我々の一人ひとりが年老いた者である。我々の一人ひとりが身体を持っている。
我々の誰もが恐れている。恐れと共に生きる道を見つけなければならない、と彼は言う。

全てのものは生きている。貝や、建物や、人々や、魚や、山、森、木は、生きている。水も生きている。あらゆるものがそれ自身のいのちを持っている。

全てのものが私たちの内部で生きている…これが先ほど話した「世界は私の中身」ということですね。自分の中の世界と共に生きなさい。

絵を描くこと、本を書くことは、大したことではない。
木を切ったり、魚をとったりすることは、大したことではない。
家にいて座っていて、ベランダのアリたちをじっと見つめていようが、庭の木の陰や草を見ていようが、大したことではない。

ここまでは「It doesn't matter」となっていたのですが、ここからは「It matters」、重要なことであると言っています。

「ケア(Care)すること」が重要である。これは、先ほど発言してくれた人も言っていましたね。
Careというのは、2つの意味があります。

1. Careful:注意深くあること。
先ほどの「Look carefully」に響いてきます。

2. Caring:単に注意深いだけではなくて「思いやること」。
「I care about you. (私はあなたをとても大事に思う)」と言うと、これはもうプロポーズの言葉に近い。

「It matters that you care.」という時には、この2つの意味が重なってきます。「思いやりをもって注意深くある」

「感じる」ということが重要である。「気づく」ということが重要である。

「It matters that life lives through you.
Lifeというのは訳すのが難しくて、「人生」とか「生命」とか「生活」という意味がありますが、ここでは「生命があなたを通して生きている」ということでしょうね。

いのちがあなたを通して生きていることは、充足である。
いのちがあなたを通して生きていることは、喜び。
いのちがあなたを通して生きていることは、満足と強さである。

彼は言う、恐れるな。恐れてはいけない。
見て、感じ、人生をしてあなたの手を取らしめよ。
人生をしてあなたを通して生きさしめよ。

2. Let the Purpose find you.

この詩を「無心研」の皆で読んだ時の前に、先ほどの「ティール組織」のフレデリック・ラルーさんの講演を聞いたのですが、彼も同じような言い方をしていました。
自分で頭を使って自分の人生の目的(Purpose)を探すのではなくて、

人生の目的があなたを見つけるようにしなさい。
Let the Purpose find you.

この「Let」という態度が、非常に大事だと思います。
主体は私ではなくて、私は「受け取るもの」という感じですね。道元さんも、似たようなことを言っています。

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
(正法眼蔵「現成公案」巻)

Letという態度で"受け取る"には、実はただ待っているだけではダメなのですね。どうやったら人生とConnectして、どうやって人生に自分の手を取ってもらうか…。そこには工夫がいるのです。
私たちがするほとんどの努力は、結果として「人生を遠ざけている」ことになっているのかもしれません。

「私が"学道"という決められたカリキュラムをこなしていく」というやり方でやるのは、道元さんが言う「学道」ではないと思います。学校の勉強とは全然違う態度というのが要求されているわけです。そういう態度を学ぶのが、この「学道用心集」なのではないかと思います。
「学道用心集」を読むことを始めるにあたって、この「Hokusai says」の詩はふさわしいと思ったので、京都の塾生の皆さんへの"おみやげ"として持ってきました。

3. 「Instead of A, B.」の構文から考える、学びのクオリティシフト

もう一つの文章も読んでみましょう。

Back to the playground !  Learning to learn !
Instead of exercises, exploration.
Instead of tension, pleasure.
Instead of rightness, comfort.
Less is the new more !

最初のところは「遊び場へ帰ろう」と書いてあります。

学校教育のことを考えてもらえばいいのですが、私たちが知っている学習というのは"仕事"なんですね。仕事ですから、例えば「1学期中にこれだけのことを学びます」という"目標"があって、先生がどこかで習ってきた、効果が上がるといわれている「〇〇メソッド」というような"方法"がある。そして、それがどのくらい伝わったのかをテストで"評価"します。うまく伝わっていなかったら、その評価に基づいて、やり方を変える。

こういった学習のしかたというのは、「ティール組織」のラルーさんの言い方で言うと、人間をあたかも機械であるかのように見ている見方から出てくるのですね。

ティール組織に至る前の段階の"アンバー(琥珀色)"は「農業社会」で、その時はどうだったかというと「Everything is hierarchical(階層的).」。階層構造に基づいて、神を頂点に、王様がいて、教会があって、騎士・貴族階級があって…という、政治や社会の仕組みが作られます。インドだと、バラモンがいて、クシャトリアがいて、という「カースト制度」ですね。

それが何千年か続いて、その後に近代という"オレンジ組織"の時代になって、そこでは「Everything is machine.」。オレンジ組織の章のページには、歯車の絵が描いてありました。これはどういう社会かというと「科学工業社会」です。

そこでは「能率・効率・標準化」が重要視されます。学校や工場というのは、標準化された製品を生産しなければいけないところです。製品の出来に波があってはいけないので。
医学もそうですね。細菌がいたら殺す。はたらきの悪い身体の部分があったら、部品を取り換える…病気は「身体を"修理する"こと」という発想で行なわれる。

これが今、どちらの方向へ変わっていっているかというと、「Everything is complex living system.」複雑な生きたシステムなので、部品を入れ替えるというようなことはできないのです。常に新しいありかたが内側から生成されている…。組織も「いのち」に近いありかたに変わりつつあるということです。
ここに、先ほどのHokusai saysの「Let life live through you.」の生き方が関わってきます。この生き方における努力というのは、クリエイティブなものでなければならないと思います。それに伴って、リーダーシップのあり方も変わっていかなければいけない。

§

……話がまた脱線してしまいましたが(笑)、話を元に戻すと。
私は最近「ブッダが教える愉快な生き方」という本を書きましたが、

この「学修」というのは、仕事ではなくて「遊び」に近い。"遊戯(ゆげ、ゆけ)"とも言いますね。学修は、愉快なものなのです。だから、冒頭に「遊び場へ帰ろう」と書いてあるわけです。

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■ Instead of A, B.のライフデザイン
「Instead of ~」という英語構文を、皆さんは中学の英語の授業で習ったと思いますが、「~ではなく、~の代わりに」という意味ですね。

ライフデザインも、「Instead of A, B.」、Aの代わりにBという新しいもの、いままでAでやってきたけれど、そうではなくて新しいBというやり方…というように構想してみる必要があると思います。皆さんも、Aに当てはまること、Bに当てはまることを、自分なりに考えてみてください。
その下の部分は、「Instead of A, B.」でライフデザインしてみる実例になるのではないかと思って持ってきました。

1) Instead of exercises, exploration.
exerciseというのは、決まったルーティーンワークをこなしていくということですが、そうではなく、「exploration」、探究である。
既知のことを繰り返すのではなく、未知を探究するのがexplorationです。

「Everything is machine.」の世界では、答えというのは既に決まっていて、それに間違いなく到達することが“よきこと”とされます。
こういう場でよく発せられる声というのは「そうじゃないだろ!」。既にある目標に照らして間違っているから「そうじゃないだろ!」と言われるわけです。
ヨガでもそういう場面ありますよね。「先生をよく見てみなさい!もっと先まで身体が曲がってるでしょ!」と言われた、"まだできていない"生徒は、一生懸命"うーん"といって頑張るわけです。そういうことが修行だと思っている。

complex living systemでは、この先なにが学び取られるか分からない。その都度新しく見つけていかなければなりません。
ここで出てくる声は「はっ!そうだったんだ!Wow!」ですね。Wowでなくて「A-ha!」でもいいけど(笑)。
何が分かるのかまだ分かっていないわけですからね。そこには「未知の発見、洞察」というものがある。

2) Instead of tension, pleasure.
tensionというのは「緊張」です。追求している目標に向かってダッシュしている時、そこには必ず「身心の緊張」が生まれます。まだ目標に到達できていないから、緊張を緩めることができないわけです。
そうではなく「pleasure」、快感の追求ということです。気持ち良さを大事にしなさいよ、と言っています。tensionから生まれるのは「pain(痛み)」でしょうね。
人間の身体というのは、内外の状況からテンションが上がると、それを下げることに快感を見出すといいます。緊張した状況が解けたときに「ホッ…」と出るため息がそうですね。

3) Instead of rightness, comfort.
rightnessは、「正しい姿勢、正しい呼吸、正しい生き方…」と言った時の"正しさ"です。そうではなく、「comfort」快適さ、心地よさ。
「僕らが大事にしてきたのは、exerciseやtensionやrightnessではなかっただろうか?それを入れ替えていきなさいよ」と言っているわけです。

そして、「Less is the new more !」という言葉で結ばれるわけですが、「Less」というのは"より少ないこと"です。それが"More"、より多いことですから"豊かさ"と言えますから、「より少ないことが、新しい豊かさになる」と言っています。

その豊かさというのは、exerciseやtensionやrightnessの道にはなくて、exploration、pleasure、comfortの道を行ってはじめてあらわれることなんですね。

■ 赤ちゃんに学ぶ、"学びのモードチェンジ"
この文章は何から取ったかというと…実は「フェルデンクライス・メソッド」のビデオから取りました。
私はお坊さんになる前は、大学で赤ちゃんの運動発達の研究をしていたので、周りで赤ちゃんが動いていると、すぐ目が行くんですね。
赤ちゃんの動きを真似て、大人がフェルデンクライス・メソッドのワークをしている美しい動画が、facebookを見ていたらシェアされてきて、映像の下にこの文章が書かれていたのに気がついて、今はあちこちでこれを話のネタにしています。

ここに書かれていることは、ひとつの"学びの態度"として使えると思うのです。赤ちゃんって、母国語の習得や運動発達の場面で、こういうふうに学んでいるのですね。
それで、小学校へ行くと(最近は幼稚園もそうなっているのかもしれませんが)、explorationではなくてexercise、pleasureではなくてtension、comfortではなくてrightnessというのを植えつけられているわけです。

仏教の修行は、これをもう一度"裏返す"ことです。そして、それを生き方にすることです。
これを予め言っておかないと、「学道の用心」といって全部exercise、tension、rightnessのモードでやってしまうのです。そして、lessではなくてthe moreになってしまう。「頑張りこそが学道」というように思ってしまう。

学びのモードを変えなければならない。

モードを変えるひとつのヒントになるのが、先に読んだ「Hokusai says」の詩。それと、赤ちゃんの学びをsummarize(要約)しているフェルデンクライスのアプローチを、「Dogen says」の学道用心集に先駆けてお伝えしたくて、この2つの文章をご紹介しました。

4. 質疑応答

ここまでのところで、質問がある人はいますか?

(塾生aさんからの質問)
「学びのモードを変えること」それ自体が目的になる"goal-oriented"なことになる感じがしてしまうのですが…。「Instead of tension, pleasure.」の場合、plesureというのがゴールになっているように見えます。その点について一照さんはどう考えますか?

〔一照さん回答〕
tensionと別にpleasureを追求したらそうなりますけれど、「tensionがなくなると、pleasureが来る」わけです。

誰がそのtensionを作っているのかというと、自分が作っているのです。tensionの条件は自分の外側にあるかもしれない…"あそこに先生がいる"とか、"うるさいボスがいる"ということでtensionを作っているのですが、でも、必ずしも先生やボスの存在をtensionの原因にする必要はないわけですよ。でも、僕らの多くの場合はしますけどね(笑)。
しかし、tensionを作るか作らないかの自由は、僕の側にあるわけです。

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tensionというのは、「私が」「やっている」ことなので、"止められる"のです。Instead of A, B.の「A」というのは、「やっているのを止める」ことなのですね。で、それを止めたあとにまたpleasureを追求しだすと、tensionになるわけですよ。
なので、「B」のほうは追求することではなくて…「Let it come.」という感じなんです。pleasureが来るべき場所にtensionを埋めてしまっているので、それは手放さないといけない。

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それと同様に、exerciseというのは「私が、何か予め決められた手続きに沿って何かをやっている」ことですが、explorationというのは「いまこの瞬間に何が起きているかを探究すること」なので、いまこの瞬間に起きていることというのは、私が起こしていることではないわけです。
exerciseは私がやっている"作業"なのですが、explorationは、先ほどの「Hokusai says」の詩が言っている「look carefully, pay attension, notice, keep looking, stay curious」がその中身になります。

「Instead of ~」という語の意味は「~に代わって」なので、その後のAは「止めること」になります。Bは……「Let it come」と言うしかないなぁ。何て言うんだろう?

§

(塾生bさんからの質問)
exerciseやtensionやrightnessということを止めたり手放すと、exploration、pleasure、comfortという「本来もともとあったものが現れる」という表現はどうですか?

〔一照さん回答〕
「あるものが」というより、僕がそれを止めることが「pleasureをつくるメカニズムを動かす」という感じかな。"僕が止めたら、何かが動き出す"。もうちょっと「プロセス的に」理解したいので。

よく喩えに出す話があって。

1人の子どもを「それは私の子よ!」といって2人の女性が奪い合っている状況があって、どうしても決着がつかないので、大岡越前のところへ行く。
そこで大岡越前守が「2人で引っぱりっこして、勝った方にその子どもをやる」というわけです。それで2人の女性はその子を自分の子にしたいから引っぱり合うのだけれど、子どもは痛くて大泣きする。
それで、一方のお母さんが耐え切れなくなって子どもの手を放す。

それまでは、「引っぱって取った方が子どもをもらえる」というのが前提だったわけです。そこには文字通りのtensionがありますよね。
ところが、一方のお母さんは引っぱるのを止めた。「Instead of pull」だね。
そうすると、智慧が作り出した大岡越前を含む場が動き出して、「ほんとうの母親なら、子どもが泣いているのに引っぱり続けることなどできないはずだ!」などとカッコいいことを言いだすわけです(笑)。

子どもの手を離したお母さんは「私が取った」わけではないですよね。
でも、そこで大岡越前含めた"システム"がはたらき出して…というイメージがいま浮かびました。これ、どう?(笑)

Instead of A, B.と言った時の「B」は、自分が全部それをやらないといけないわけではなくて、「Let the life live through you.」みたいな感じで、 何か私を越えたような大きな働きがはたらいていて、もしかしたら「私がその働きを邪魔してるんじゃないか?」という、図と地の反転みたいなことがあるのではないかと思います。

§

(塾生cさんの質問)
「tensionは自分が作っていることだから、それは止められる」というところには、(少なくとも私にとっては)根深い問題があります。
「それは自分が作っていること」ということにそもそも気づいていなければ、止めるということができない。そこに気づくのはどうすればいいのでしょうか?

〔一照さん回答〕
「Instead of A, B.」というふうに示されている方向へ向かって進めていくのが「修行」ということなんです。
Bを実現するためには、「私がやっていることである」という気づきと、「それは止められる」という気づきに基づいて、実際に「止める」というほうへ向かわないといけない。そして、止めるとexploration、pleasure、comfortがやって来るということをRealize(体認)する…というのが、修行のプロセスです。

「tensionは自分が作っている」というのは分かってる?

(さらにcさんのコメント)
武術の稽古の場で、最近「tensionがかかっているな、これは自分がかけていることなんだな」という気づきがあって、その武術の稽古を始めて2年になるのですが、ようやく「ほとんど自動的にtensionが起動する状況」というのが"はがれ始めている"ところなんです。それくらい根深い問題だと思います。

〔一照さんコメント〕
仏教的に言うと、tensionというのは「エゴ」のことなんです。エゴ=tension。もともと仕切りがないところに仕切りを入れているわけだから、本来やらなくてもいいことをわざわざやっているということになります。
「学道用心集」でこのあと出てくる「吾我」というのが、まさにこの"緊張のかたまり"のことなんです。

誠に夫れ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず。

試みに吾我名利の当心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や。一念不生の法門を證するや否や。唯だ、貪名愛利の妄念のみありて、更に菩提道心の取るべきなきをや。
(学道用心集「菩提心を発すべき事」)

音感的にも「ゴ!ガ!」って、何だかいかにも緊張していて固そうじゃないですか(笑)。
「Instead of tension」と聞くと、うかつにも「緊張で吾我をすりつぶす」というようなイメージで修行してしまうわけですよ。なので、シフトがすごく大事になってきます。

例えば、私は「スラックライン」という、ベルトの上を綱渡りするスポーツを趣味にしているのですが、スラックラインの世界チャンピオンになった「Gappaiさん」という日本人ライダーに「ラインから落ちないようにするコツって何ですか?」と聞いてみたことがありました。

Gappaiさんが言うには、「落ちそうになったら、大抵の人は"落ちまい"として身心が緊張してしまう。緊張すると、身体が固まって"モノ"になって落ちます。じゃあどうするかというと、もっと力を抜きます。"力を抜いたら落ちるじゃないか!"と僕らは思うのだけれど、実は落ちない。身体の力をもっと抜くと、ラインがもっと支えてくれる」。

「Instead of A, B.」の「A→B」のシフトは、"量子的飛躍"みたいなものだから、これはもう"さとり"に近い。

でも、それは可能です。やっている人が実際にいるわけだから。

ここに、修行の面白さを感じないといけない。
「学道」というのは、そういう話をしています。学道というのは、従来の路線をずっと進んでいって、それで肥大することではない。
仏教はそういう「クオリティチェンジ」を説いています。凡夫が仏になるわけですから。
私の言い方だと「青虫が蝶になる」。

青虫は、バッタになるのではなくて、蝶になるのですよ。
同じDNAを持ち、同じ材料でできているのですけど、一度ドロドロに溶ける"さなぎ"という不思議なステージを経て、全然違うライフスタイルの生き物になる。
学道というのは、そういうシフトの話をしているのです。

5. 道元さんの「Instead of A, B.」

この「シフト」というのがすごく大事になってきます。道元さんで言うと、「Instead of 習禅、坐禅.」ということになります。道元さんが書いた「普勧坐禅儀」という書物の中に、

坐禅は習禅には非ず、但是れ安楽の法門なり。

それから、

坐禅は三界の法にあらず、仏祖の法なり。
(正法眼蔵「道心」巻)

とも言っています。「Instead of 三界の法、仏祖の法.」ですね。
道元さん自身が、Instead of A, B.という構文で語っているというわけです。

"A"は、「人間業(わざ)」だということですね。「こうしたら、こうなる」という、人間の意識の範囲でやっていることです。意識は必ず地平線を持っています。意識されるものしか意識できない。当たり前の話ですけど。
サーチライトみたいなものです。真っ暗闇の中で懐中電灯を照らすと、照らしたところだけが見えて、それ以外は真っ暗。それが意識の見方です。

道元さんは、こういう喩えで考えてみよと言っています。

たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。
(正法眼蔵「現成公案」巻)

「四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし」というのは、私はこれを"自分が見えるものしか見えない"意識の見方のひとつの例として読んでいますが、しかし、それで「海の全体」を見ていると思ってはいけないわけです。
「のこれる海徳つくすべからず」、自分の視野に入ってこない、その外側に海徳(海のパワー、作用)というものがある。海の徳というのは、自分が観ている範囲に尽きるものではないと言っています。

「つくすべからず」というのは"キリがない"、無限ということです。
特に大乗仏教は、無限の話をしている。三界の法も、習禅も、有限の話です。仏祖の方とか坐禅というのは、無限を説いているのです。
大乗仏教の"大乗"、「大きな乗り物っていうけど、どれくらいの大きさ?何人乗り?」とか言えないわけです。

私たちは、無限大の大きさの乗り物に乗った乗客であり、同時に乗り物の一部です。乗り物でもいいし、「無限サイズのダイナミックなプロセス」と言ってもいいですね。私たちはその中にいるわけだけれど、あたかも自分がそこから浮き上がっているように"思考"してしまうのです。
無限大のプロセスから浮き上がっている自分というヴィジョンに基づいて、ああだこうだ考えるのが、習禅とか三界の法というものです。人間的な世界の話です。
こういったことは、吾我というものを認めたあとの話なのですが、吾我という夢から覚めているのが"B"の世界です。「Instead of 夢、素面.」ということですね。

6. 学道が目指す方向、"B"のライフデザイン

「俺は酔っ払っていて、夢を見ていたな」ということは…夢から覚めてみてはじめて分かることですね。学道は、夢から覚める方向で行ないます。
ふつう学道というと、「夢の中でマシな人間になろう、いい思いしよう」という方向で行なわれがちですが、「学道はクオリティチェンジである」といったのは、そういう意味からです。

「Instead of A, B.」を自分なりに何と言うか、皆さんも考えてみてください。いままで"A"の世界で生きてきたし、勉強してきたし、仕事してきたし、人とも関わってきたけれど、

"Bのライフデザイン"を構想できるでしょうか?

そのままだと、あまりにも手がかりがないので、東京で行なった前期は「弁道話」を読み、後期は「学道用心集」を選びました。
では、これから実際に「学道用心集」を読んでいきましょう。


……このあと「学習ノート③」に続きます。


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