安心して”喪失”を味わい、悲しめる社会へ。

なぜだか知りませんが、年末にくらべて格段と忙しくなり、ますます家庭では無口になりつつある勝又です。

そんなつい先日の帰りみちのことです。Twitterのタイムラインに悲しいタイトルのブログが目にとまりました。そのブログを書いたのは、何度かツイッターでもやりとりさせてもらった方でした。奥さまを亡くされて1年が経とうとしていました。

ぼくはこうした「喪失」というものにとても敏感なところがあります。離婚を経験し、破滅的に人間関係がおわった当時、この「喪失」に関していろいろと思考をめぐらせていた時期があったからです。

ここでの「喪失」とは心理学的な意味で使っています。誰かを亡くすこと、離別はもちろんそれ以外にもさまざまな意味があります。たとえば、長年勤めた会社をやめること、自分の健康をうしなうことも含まれたりします。

喪失体験は、当然のことながらとてつもないストレスをもたらします。たとえば、ぼくもその離別をまえになすすべもなく崩れました。自律神経を失調し、心臓神経痛にもなりました。最低限の仕事しかできない時期もありました。

喪失は、人生において避けることができない悲痛な体験ですが、心の傷を癒すための時間を、ぼくたちが生きている社会は与えてくれません。人生は何ごともなかったかのようにつづいていきます。ぼくたちは何事もなかったかのように、朝はやく起きて満員電車に乗り、会社に行かなければなりません。

ぼくは喪失と向きあい、じゅうぶんに悲しむ時間が必要であると思っています。「いやいや、悲しむための時間をわざわざとりたくないよ。」「そんな悲しい過去なんて忘れ去ってしまいたいよ。」という方もいるでしょう。確かに、悲しい出来事と向きあうのには一定の痛みが伴います。ぼくもながい時間をかけて向きあってきました。

ただ、忘れたフリをして傷の手当てもせず、トラウマを生涯抱えつづけるひとはたくさんいます。たとえば、ぼくのように悲惨な離別を経験したひとは、そのあと親密な人間関係を育むことがむずかしくなる、といったケースです。つらい出来事に向きあうことで感じる痛みは避けられますが、人生の選択肢を狭めてしまう可能性もあるということです。

「外傷後成長」ということばがあります。人生において危機的なできごとが起こったとしても、だれかの支援を受けながら精神的にもがき、葛藤することで結果的にポジティブな成長感につながることをいいます。

この差は何によって説明されるのでしょうか。ぼくは、喪失を飽きるほど悲しむ時間をとれたかどうかで決まるのだと思っています。ぼくは幸いにも上司に恵まれ、喪失と向きあうじゅうぶんな時間を確保できました。その時間がなければ、再婚し、子どもをもうけるなんてこともなかったかもしれません。

安心して喪失を味わい、悲しめる社会へ。

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