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羽田発ヨーロッパ便にて、そして隣に座った日本人女性

 その日の羽田発ヨーロッパ便の出発は若干、定刻を過ぎていた。私と娘が乗る予定のものであった。飛行機が遅れるという経験は過去にも何回かしたがいずれにしろ、気持ちの良いものではない。

 外の気温は30度を余裕で超えていた。

 北国に長く住んでいると汗腺が退化すると、知り合いの医師から注意をされてはいたが、日本では、熱中気味で最後の二週間は娘と一緒に寝込んでいたため、夏の日本滞在はその時点ではほぼ限界であった。

 一時間後、ようやく乗機を許可された。機内窓側の席には無愛想な(おそらく)英語も話せそうもないドイツ人の中年男性が座って居た。

 私は、通路側に座った。末娘は真ん中に座らせた。娘はシートベルトを締めた途端、眠りについた。その日の朝は4時起きであったので無理もない。

 苦手な長時間の空の旅を多少は快適にするために、私はなるべく近隣の乗客と話をすることにしている。有難いことに通路を挟んだ横には日本女性が座って居た。おかっぱ頭の年齢不詳の女性は多少神経質に感じられたが、同郷の人間である。何かしら話の糸口は見つけられるはずである、と多大な期待をした。

 私は飛行嫌いなので、飛行の前には少なからず不穏な予感を抱えているが、その日の予感は残念ながら的中した。


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 機体が離陸したと同時に「ガーン」と轟音が響き、機体が不自然に振動し、それと同時に後方から、金属が焦げたような異臭が漂ってきた。

 しかし、機体はそのまま上昇を続けた。その間、機内放送は皆無であった。異臭と異状なモーター音は、機体のどこかに異状が生じたことを確実に示唆していた。

 仮にこれが映画であったら乗客たちは騒ぎ立てているであろうが、この日の現実世界においては、乗客たちはマネキンのように静かに座って居た。この様子も異様に感じられた。

 水平飛行に入ってからようやく機長から案内があった。
 「先ほど離陸の際に轟音がしました。我々は鳥がモーターの中に入り込んだものと思いましたが。いずれのモーターにも異状は見られないためこのまま飛行を続けます」

 「冗談でしょう?」と、私の心の声を代弁したのは通路を隔てて座っていたくだんの日本女性であった。思わず、彼女の顔を見た。

 彼女の顔色が変わっていた。私はこのような顔色を土色と形容するのか、などと漠然と考えていた。灰色とも形容出来た、そして硬直しているようにも見えた。自分の顔がどのような色であったかは確認する余裕が無かったが、おそらく清々しい顔ではなかったであろう。

「降ろして!他の飛行機に替えてよ!」

 彼女は完全に取り乱していた。

 機体の離陸中などに鳥がモーターの中に入りこんでしまう現象はバードストライクと呼ばれるが、これはかなり危険なものであり、たとえ小鳥であっても機体に損傷を与えてしまう可能性は2パーセントほどと言われる。最近の例では、2019年にもこれが原因で墜落事故が起きている。


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 飛行は継続され、機体は北京上空へ接近していた。

 異臭もさることながら私には異音がとても気になっていた。モーターも息の弱い音であったため、疲弊したモーターにかなり負担を掛けながら起動させている如く、機械がごねているような音であった。

 隣りの日本女性は相変わらず硬直していた。不愛想なドイツ人はこのような状況にあっても不安な日本女性達を励ます気遣いもないようであった。

  その時、不意に機長からのアナウンスがあった。

 「やはり異音が気になりますのでシベリア上空に入ってしまう前に機体の安全確認をすることに決めました。これから受け入れ先の成田に飛行します」

 二時間も安全性における賭けをしていたのか、と内心憤った。しかし、大型遅延に伴う経済的損失を鑑みたら、(異状は発見されなかったに拘わらず念のため)引き返す判断を下すことは容易なことではない、パイロットにとっては勇気のある決断であった。複雑な心境ではあったが私達乗客には何が出来るであろう、パイロットたちに命を預けた以上、彼らの一存に従うしか術はない。

  後ろ髪を引かれる思いで飛び立った日本の上空に再び舞い戻った。一刻も早く着陸して降機をしたかった、その老朽化した機体から。

  続いてCAさんからのアナウンス。

 「この飛行機にはヨーロッパまでの燃料を積んでありますので着陸の際には重量を減らすために捨てなければいけません。15分ほどお待ちください」

 燃料を捨てる?何処に?

 下を見れば太平洋であった。

 後から知ったところに依ると燃料は空中で気化するようになっているらしい。いずれにせよ大量の燃料を捨てるという事は大仕事であり、かなりの浪費であるはずであった。しかし 500名の人命と大型旅客機の損失、それに伴う航空会社の評判の下落は、多くの場合、航空会社の存亡を左右する。背に腹は替えられない。

 15分はゆうに超えていたが作業は終わっていなかった。機内火災、エンジン欠損などの非常時に緊急着陸をしなければならない場合は、燃料を捨てている余裕などあまりないであろう。その場合はどうするのだろう、などと漠然と考えていた。

 「15分って言ったじゃないの、話が違うじゃない、ちょっと変だと思わない?私達、騙されてるんじゃない?」

  パニックを通り越して絶望状態になっていた日本女性が猜疑的になっていた。飛行嫌いに関しては私も筋金入りではあるが、彼女の比ではなかった。彼女の猜疑心は私にも感染しつつあったが、同時に私には奇妙な興奮感が湧いてきた。

 この機体は墜落しない、と。 

 45分後、ようやく燃料を廃棄し終えた機体は成田空港に着陸した。

 気温はさらに上昇していた。しかし、非常時には通路をふさいではならないため飲食物のサービスは無かった。私たちは緊急避難方法の用紙を団扇代わりに蒸し暑さを凌ごうとした。咽喉の渇きと蒸し暑さに耐えながら座席に座ったまま待っていた。爆睡していた末娘が起きて機内のモニターを見て首を傾げていた。モニターの表わす飛行ルートが歪であったためである。それはUターンをして途中で切れていた。

 隣の日本女性と同様、私も、成田空港に到着したら一旦降りて他の航空機に乗り換えるものだと確信していたため、苛ついた。しかし、仮にどこかで火災が発生していた場合はむやみに機体の入り口を開くことも危険であるため、完全に安全確認が終了するまで待たなくてはならなかった。

  その間、機長からの案内は無かった。時折、状況を把握していないCAさんから、原因の調査中です、と案内が流された。

 二時間後、ようやく機長からの案内が放送された。

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 「皆様、大変、長らくお待たせいたしました。ただいま地上の整備員達が機体を点検したところ、離陸の時に空調が落ちていたことを発見致しました。今、空調を付け替え終えましたので、これからあらたに給油し、再度ヨーロッパへに向かいます」

 隣の日本女性は「降ろしてよ、この飛行機でヨーロッパまで飛びたくない、飛行機、振り替えてよ」と、低く呻いていた。

 私には、彼女の呻き声が何故か「エコエコアザラク」と聞こえた。

 実際のところ、私も同感であった。可能性があるのであれば振り替えて欲しかった。たとえ、飛行機を修理出来たところで、彼女のようにパニックに陥った乗客が続出した場合、CAさんたちはどれだけ対処出来るものか

 飛行機は数時間前に始めた儀式を繰り返し始めた。離陸の瞬間、今回は何の異音も響かなかった。多少、異臭は残っていたにせよ、ほぼ通常のフライトに戻っていた。しかし、私も懐疑心は拭えなかった。あの轟音、それに続く異音、異臭が全て空調に起因するものである、ということが単純に納得出来なかった。大体、空調とはどのような形状をしているのか、それほど大きいものなのか。

  相変わらず土色の表情で硬直している日本女性の不安を多少でも軽減したかったこともあり、私は一番近くに立っていたCAさんのところへ行って頼みごとをした。

「もっと詳しい説明頂けませんか?神経衰弱に陥った乗客が居るのです。機長は最初、モーターに鳥が飛び込んだ可能性を示唆していたでしょう。過去の統計に依ると、バードストライクに起因した墜落事故もありました。空調とバードストライクと両方が原因だったのですか?」

 CAさんは多少驚いた様子であったが、速やかに機長室か上司に連絡を取り、有難いことに機内放送を流してくれた。

「皆様、最初に轟音がした時、私たちはバードストライクだと思いましたが、しかし、原因はバードストライクではありませんでした」

 少しは安心出来たかな、と、隣の日本女性の表情を伺ったが、それは相変わらず土色であった。まわりの乗客も見廻してみたが、彼らの表情は、敢えて形容して見れば「無関心」であった。彼らにとっては不具合の原因などはさほど意味をなさないようであった。

 その後、機体は十時間以上飛行し続け、当初の予定の空港に無事着陸した。

 乗り継ぎ便を逃してしまった私たちは、航空会社が手配をしてくれたホテルへ向かうことになった。隣の日本女性は、放心状態に陥った様子で何の挨拶もなく、いずこかに去って行った。なんとなく収まりが悪かったが、通常の状況でお会いしていたらまた違った印象の方であったかもしれない。


 このような経験には二度と遭遇したくはないが、このフライトのおかげで一点、確認出来たことがあった。

 現実世界の非常時においては、人は、映画の中の人のように行動するとは限らない。

 それともう一点、

 飛行機はそう簡単には墜落しない。



ご訪問有難うございました。

最近はオリンピックと酷暑の話題を頻繁に耳に致します。どうぞ外出の際には吸汗性の良い素材の服をお召しになり、頻繁に水分補給を行いあと数日間、乗り切られて下さい。

今回は私の記事をご紹介して下さった方々で、未だに御紹介をさせていただいていらっしゃらない方々をお二方紹介させて頂きたいと思います。許可が下りたらもう一方をご紹介させて頂きたいと思います。あいうえお順。


キータンさん、

日本の伝統文化にも外国文化にも明るく、IT関連でも非常に高度な技術をお持ちの方です。ほぼ毎日美しい自然、国内外の建造物等の写真を紹介して下さっていらっしゃいます。キータンさんの一番好きなものは蝶々だそうです。本当はこの記事にはキータンさんが提供して下さっているフリー素材をお借りしようと思いましたが、より平和な記事の時まで取っておくことに致しました。


ひなたとりこさん

オーストラリアに在住の方です。とりこさんが投稿されるとても美しい海の写真にはとても惹かれてしまいます。さらにとりこさんと子供さんたちの温かい家族ドラマにも癒されます。とりこさんはお菓子作りがとても得意なそうで、スウィーツ好きの方々にも必見の美味しい記事が沢山ありそうです。


こちらでは記事中の航空会社名とストップオーバー都市の名称を控えさせて頂きました。IATA加盟のヨーロッパの大手航空会社です。    

バードストライクに関する詳しい情報はこちらも参照出来ます。


日本人としては複雑な心境になる映画でしたが、こちらで使われているHans Zimmerの曲には嘆息をしてしまいます。今回の曲のテーマはフライトです。


お借りした写真は全てPixabayからです。上から

Nikhil Kurian氏、ELG21氏、Michi_S氏、Tobian Rehbein氏でした。


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