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バレンタイン・デイ すれ違う二艘の船

 そのスカイラウンジはホテルの最上階にあった。私はそこに座ってしばらくバルト海を見下ろしていた。ラウンジはオフィスビルの延長のようなしろものであり、落ち着ける空間ではなかった。しかし、数日前に予約した部屋に下りて行くまえに、私には心の準備が必要であった。

 この晩の一か月前、四年間半お付き合いをさせて頂いたスカンジナビア航空のパイロットから別れを切り出された。


 ようやく腹を括って、八階の部屋へ降りてドアをノックした。ドアがゆっくりと開かれ、部屋に一歩招き入れられた時、私は一驚した。

 部屋のところどころに燭台が置かれ、各燭台の上では灯りが自在に演を舞っている。テーブルの上では、銀色のバケツ型ワインクーラーから一瓶のシャンパンが頭を覗かせている。


 これらは、一足先にチェック・インをしていた青年の心遣いであろう。

 この逢瀬はこの晩で最後となる。

 ドアを開いた彼は、沈黙したまま窓辺に近付いた。私との対話を避けようとしていたのかもしれない。バルト海には夜の帳が下りようとしていた。


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 然り、私に別れを告げたパイロットとはこの青年、ボーのことである。

 

「後悔はしないの?」と私が彼の背中に問い掛けると、ボーは、「おそらくしない」と返答した。

 振り返ればいつも私の後ろに居て微笑していた青年だ。

 これからは振り返っても私の後ろには誰もいない、という事実をようやく咀嚼出来た時、とても表現し難い寂寥感に駆られた。しかしそれは、自業自得というものであった。

 この晩の四年半前、私達は、バルト海近くの教会の祭壇にて二人だけで指輪を交換した。街中の宝石屋に駆け込んで買ったシンプルな仮のものであった。

 「四年間待つ。それでも君が結婚の意志を固められなければ、僕たちは別々の道を歩もう」、という期限付きのプロポーズであった。

 私は結局、四年経っても結婚式の日取りを決められなかった。それでも青年はさらに半年の執行猶予を与えてくれた。そしてその半年の猶予が切れた時、ついに愛想を尽かされた、というわけである。


 そもそも何故、パイロットだったのか。


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 これには私の飛行不得手が起因していた。

 すなわち、パイロットと一緒に飛行機に搭乗したら、飛行嫌いが緩和されるのではないか、という切望であった。

 不快感とは往々にして、状況を把握出来ないことにより引き起こされると理解している。

 たとえば機内に異音が響いて乗客が不安になったとする。

 そのような状況に、「これはXXXXの音なので、水平飛行になったら消えるはずだよ」、などと適格な説明を戴けたら、収拾がつかなくなるほど不快感が増長するまえに、それを抑制することも可能であろう。

 あるいは、非日常的なシナリオではあるが、飛行中のパイロットに病気怪我等の何らかの不都合が生じた場合、なんらかの補助をしてくれることも可能であろう、との期待もあった。ボーは、エアバスの短距離飛行のタイプであれば大概の機種は操縦出来るということであった。

 実際に、1988年に亀裂事故を起こしたアロハ航空243便においては、切羽詰まったCAの方々が乗客に「Can you fly the airplane?」、と訊き廻られいたと記録されている。

 さいわい、ボーがコックピットに入らなければならない緊急事態には遭遇しなかったが、彼と一緒に居ると、一味異なる経験をすることも多かった。


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 一緒にパーティに参加すると、私たちのまわりは常に人だかりになり、多くの人々が、ボーに矢継ぎ早に質問を投げかける。

 一度、大幅に遅延していた飛行機をゲートにて待機していた時に、遅延の原因に関してボーと議論していたことがある。ここでもやはり、私達のまわりは人だかりになり、他にも不安を抱えていた乗客達がボーに疑問をぶつけて来た。そしてボーは、他の乗客を安心させるべく、飛行原理に関して丁寧に説明をしていた。

 さらに、酒に酔った乗客に絡まれた女性CAさんの武勇談、馬が合わないキャプテンと飛行中どのように妥協し合ったか等、などのフライト中の四方山話も愉しませて頂いた。 


 そのように楽しい時間を共有させてくれた青年ならば、

 何故、期限内に結婚に踏み切れなかったのか。


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 お互いの価値観が違い過ぎた。

 ボーは幼少時代、不幸かつ、1ドル生活(一日あたりの家庭の生活費が1ドル相当という貧困)を強いられていた。父親は縊死、その後、母親は学食で働き続け、彼を含む子供三人を養った。

 その反動であったのかもしれないが、ボーの浪費癖には極端なものがあった。彼はタイ王国が好きであったので、頻繁にフィフィ島に旅行していた。最後にその島を訪れた時は、三週間でかなりの大枚を散財して来たという。

 ボーにとっては有意義なお金の使い方であったのかもしれないが、私は敢えて散財と呼ばせて頂いた。フィフィ島のバーにて夜な夜な飲み明かし、その場で出会った初対面の客達にもご馳走をしていたと言う。

 自分で苦労して稼いだお金であれば、どのように費やそうと自分の好きにすれば良い、しかし結婚となると話は異なってくる。


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 それだけのことであれば、何とか話し合えば妥協することが可能であったかもしれない。

 しかし、私たちの関心もまったく異なっていた。彼の関心は、帆船ボート、フットボール、重度のカフェ巡り、筋肉トレーニング、コンピュータゲームであった。すなわち、全て私には興味のない分野であった。

 家族愛さえあればそれらさえも受け入れられたであろう。

 しかし、四年間半一緒に居て、私達の間には家族愛は生まれなかった。何かが欠乏していたのであろう。


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 一つの関係が始まると同時に、私は美しい別れを想像する。死に別れのことではない。

 何か月か、何年間か、同じ場所を歩いて、同じものを見て、別れるべき時が訪れたら、最後に握手をして相手の幸福と健康を祈る。そして、その手を離した瞬間から、お互い別々の目標に向かって歩いてゆく。これが私にとっての理想の別れ方である。

 関係が始まったばかりの時に、別れを愛しいものと感じる、など、デカダンスに陶酔しているわけではない。アメリカ映画「君に読む物語」の如く、この世を去る瞬間まで一緒に寄り添ってゆくことが可能であれば、それはさらに理想的ではある。しかし現段階では、幸か不幸か、そこまで添い遂げたい人には遭遇出来ていない。

 幸いなことに、私の現在までの出遭いと別れは、追憶絵巻という名の走馬灯の中で、流麗に始まり純麗に終わっている。そこには修羅場というようなものもなかった。それだけ表面的な関係であったのか、相手から愛想を尽かされるまでこちらが待っているためか。


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 その最後の晩、私たちは長時間、ホテルの窓辺に立ち、窓の外のバルト海を眺めていた。

 スウェーデンを出港した船は霧の中に消えてゆき、霧の奥からはフィンランドからの船がやがて姿を現す。

 これら二艘の船は大海の霧の中ですれ違い、各々の目的地へそのまま旅を続けているはずである。

 



この青年に関する過去記事はこちらです。


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背景写真に関して、二番目の蝋燭の写真(pixel2013)、飛行機の写真(rauschenberger)はPixabayからお借りして居ります。

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