「ダシ」のある人
以前、彼がイワナの本を読んでいて
そんなイワナだけで本一冊分も語れるなら、
名言でもあるんじゃ無いかと調べたら、、
松岡修造のこの言葉に出会った。
「私、ダシないなあ…。」
徹底的な、効率人間。
時間とお金の上を歩いて、少しの時間も無駄にはしない。余白を見つければ、何かをせずにはいられない。
SNSを見返してみても、“綺麗" なもの、“おしゃれ” だと思うものをただ統一感という言葉を頼りに載せているようで、“中身”がない。
ましてやニンゲンとしてさえも、淡白な味がしてそうだな。
いや、味付けだけは一丁前にしてたのかもしれない。
「ダシのある人間か?」
と,
聞かれる前から、もう既に自分の味のなさに薄々と気づいていた。
ダシのある人と、無い人の違いって何なんだ。
きっと言葉や、外見的なものではなく、
「中身」の問題。
醸し出す雰囲気からダシが効いてるような人はいて、年齢的なことも大きくは関係ないだろう。
学生時代、話したこともなかった友人に
「面白そうな人だなぁ。」と、何か感じる魅力に惹かれて、ご縁もあって再会したことがある。
今までには出会ったことのない、
何も語らなくとも伝わる濃ゆい存在感。
生き方、立ち振る舞い、強さと美しさえ感じてきた。
彼女の発する言葉も、自分が話すことの内容の薄さに恥じらいを持つほど
記憶に残るような重みがあった。その味を振り返りたくなるような後味があった。
嬉しいことに、
その後も何度か会食することがあって、
ある日、彼女と待ち合わせた駅からお店へ向かう途中、
異様な数を感じられるほどの、たくさんの鳥の声が聞こえてきて、
鳴き声が聞こえてくる方を見ると、ビルが立ち並ぶ中にポツリポツリと木が生えており、その中のひとつ木に何匹もの鳥が留まっていた。まるで全校集会前の止まない生徒たちの会話のようにザワザワと、鳴いているものだから、
私は物珍しさと、面白さとで笑ってしまったのだが、隣にいた友人は、
「かわいそうだね。」
と、言葉をこぼした。
私の感情とは正反対の感想が呟かれたから、
それにも驚いてしまったのだけれども
確かによく考えれば、ここの木に留まっている鳥たちは
本当だったら森の中で、静かに寝たかったんだろうか。
ニンゲンが森林伐採しては、ビルやら何なら建ててしまうから、彼ら達の寝場所がこんな駅のど真ん中にあるような一本の木に泊まらざるおえなくしてしまったんだろうかと。
笑ってしまった自分が、少し恥ずかしかった。
彼女の言葉は本や人から語られた言葉ではなく、きっと自分自身が感じてきたことだから
、一体今までどんな人生を歩んできたんだろう。自分との違いは何なんだろう。と、
自分と彼女との過去を見比べたくなった。
たぶん、育った環境。
旅や出会いの数が違う気がした。
自分でいい出汁(ダシ)作り出さなくても、
たくさんの味付け、スパイス、添加物があれば、いい味出せる。
むしろそっちの方が、人にウケるのかもしれない。
けれど、色んな人や環境に出会って、人が忘れてはいけないのに、忘れかけている角度からモノごとを見て、自分の大切にしたい気持ちがしっかりあって、試行錯誤しながらも、ありのままを生きようとしているように感じた。
そして何か、深いことまで考えている。
決して、浅くない。彼らは。
(イワナはそんな深海にいるような魚じゃあないけれど。)
ワインをテイスティングする時のように、
一つ一つのモノごとを、深く味わるように生きているのだと思う。
「ダシのある人」であるように、「ダシのある物」を選びたい。
「YouTuberになろう。」と思っていた時、
「どんな素敵な家にしようか。」
「どんなモノを取り揃えようか。」と、
動画映えするようなモノが必然かのように
集めようとしていた。
「ダシのある人」たちを知っていくうちに、
そんなモノの集め方、選び方に違和感を感じてきた。
色んな雑誌やSNSを見ていても、
置いてあるものに温もりを感じるような
“心地の良いインテリア” と、
デザイン性はあっても
外見的なものだけで選ばれているような、
“味気ないモノ” がある。
むしろSNSなんかに載っている、ほとんどは
後者ばかりな気がしてならない。
決してそれは、悪いわけじゃないし、むしろしょっちゅう参考にさせてもらっていた。
ただ、自分がモノを選ぶとき
たとえおしゃれだったとしても、“味気ないモノ” ばかり取り揃えて、自分は「幸せか?」
と、聞かれたら
そうではない。ちょっと寂しい。
その物自身のストーリー、歴史を大切にしたい。
旅先で出会った素敵な店員さんから購入したモノだったり、がんばって貯金して手に入れたお気に入りのモノを選びたい。
そうすれば、見るたびにその時の思い出を思い出せるし
愛着しかないから、どんなに古くなったって、壊れたって直してあげたいたいと思える。
「味(ダシ)」「中身」のあるモノを選んであげたい。と、考えるようになった。
きっと家にあるモノが
想い出のアルバムを振り返るときのような、
温かいものになってくれる。
「ダシのない人」が増えているんじゃない。
今の世は、
なんでも早く、便利に、効率よく物事が進む世界。
情報だって溢れかえっていて、それなのに昔より生き急ぐ人が増えてきていると思うのは、気のせいだろうか。私みたいな効率人間が生産されて、
人が何か、大切な何かを、忘れ始めている気がしている。
なかなか幸せになれないような感覚。
生きづらさ…。
それってもしかして、
「ダシ」が無くなってきているからなんじゃないか。
エッセイストの吉本ばななさんが、旅行先で出会った店員さんのことを
そんな風に言っていた。
心と言葉がリンクしていないかのような店員さんたちが世の中溢れてきているんじゃないか。
“自分”という味(ダシ)を忘れて、味付けばかりに拘っているのではないだろうか。
きっと、少し前の私のように、
目の前の人を心で見れていないような
「ダシ」が無くなるだけじゃなく、
「ダシ」を感じられなくなっている人も、
世の中たくさんいるんじゃないかと思う。
時代がそうさせてしまっているってこともあるはずだから、
今生きる人たちが悪いわけじゃない。
ただふと、目の前の人の奥深くにある
ニンゲンの「ダシ」を意識してみると
思っていたよりもニンゲンって温かいことに気づく。
今までの心の絡み合った糸がほぐれるかのように、少しずつ人とも関わりやすく、生きやすくなるはずだ。
私がそうだったように。
彼が読んでいたイワナの本 『イワナの謎を追う』
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