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バリ島の孤児院で子どもたちに教わった本当の幸せとは?
あなたは、幸せですか?
幸せの尺度って、何で決まるんですかね?お金?地位?やりがい?
これは、私がインドネシア、バリ島の孤児院でボランティアに行った時のお話。
*
バリ島の空港に足を踏み入れた瞬間、僕を取り囲んだのは熱気と、物乞いと、タクシー勧誘の男たちだった。
「なに、ここ・・・」
全く違った。今まで僕が行ったことあるいかなる「海外」とも、全く違った。
僕は当時、大学院生だった。「何か海外体験がしたい」。そんな思いから、僕は海外ボランティアに申し込んだ。
特にインドネシアやバリに惹かれていたわけではない。「子供」は好きだった。本当にそれぐらいの理由で、孤児院のボランティアをすることになった。そしてたまたま「バリの」孤児院になった。
孤児院は、大きな部屋が3,4部屋ある施設で、広めの庭があった。鶏が数羽。犬が1匹。子供達が20数名。子供達の面倒を見る大人が数名。皆から「マザー」と呼ばれる女性が1名。
驚きは、いくつもあった。
まずは、食事。朝食は、インスタントラーメン。ただし1人ひとつではない。インスタントラーメンのスープをみんなで少しずつ分ける。だから麺は1人分の皿にはほとんど入ってない。分けたスープにご飯を浸して食べる。これが、朝ごはん。衝撃だった。
二つ目は、トイレ。「シャワーを浴びる時は必ずゴーグルを付けてください」と渡航前に担当のアテンダントの人に言われていた。そして「絶対に水を飲まないこと」とも。水が不衛生だからだ。
トイレには、トイレットペーパーがなかった。トイレの脇に浴槽があって、そのトイレは水が常に並々溜まっている。蛇口から少しだけ常に水が出ていて、浴槽から少しだけ水が溢れている。常に。
用を足すと、その水を手で掬い、お尻を洗う。そして汚れた手を、その浴槽の中で洗う。子供達も、もちろんそうする。
そして子供たちは、その浴槽に溜まった水を使って歯を磨く。うがいをする。
「おい、マジかよ・・・」
でも彼らは全くお腹を壊さない。(一方、衛生面に気を使っていた僕は3日目からずっと下痢だった)
でも僕の最大の驚きは、これじゃない。(この話はもう少し後にしようと思う)
ボランティアは日本語と英語を教えるのが役割だった。教室のようなスペースがあって、そこで希望の子供達が集まって、ボランティアが日本語や英語を教える。
けど僕は、ある違和感があった。
どこかその施設の大人たちが子供たちに対して「せっかく来てもらったんだから、教えてもらわないとでしょ」みたいに少し強要する雰囲気があった。僕はこれに違和感があった。
結局、海外ボランティアというのは、先進国の人間のある意味「娯楽」だ。そう思った。先進国の人間がやりがいや生きがいを見つける「娯楽」。もちろん僕が払った金額のうちいくらかが、この施設にも流れているんだろう。だから施設の大人たちはある意味僕を「客」として捉える。「せっかく来てもらったんだから」と。
僕は2日目以降、日本語も英語も、教えるのをやめた。(こんなボランティア、過去いなかったに違いない)
一方で僕は、子供達にインドネシア語を教わることにした。直感的に、その方がいいと思ったから。
先進国の人間が、発展途上国の人間を、助ける。教える。この構図を、逆さまにしたかったんだと思う。
僕は子供達に「インドネシア語、教えてよー」と乞いた。僕はとっても簡単なインドネシア語を話し始めた。
朝起きたら、「サラマパギー(おはよー)」と子供達に絡む。台所に入っていって「サヤマウマカンー(ご飯食べたいー)」と言う。
そうしていくうちに、僕は段々とインドネシア語を話せるようになった。
子供たちはすごく、嬉しそうだった。日本という異国、それも彼らからしたら発展した優れた国に見える日本からやってきた人が、なぜか自分たちの言葉を必死に学ぼうとして、しかも「教えて欲しい」とせがんでくる。きっとそれは彼らにとって新鮮で、興味深く、同時に嬉しかったに違いない。彼らは「こんなボランティアの人、初めてだよ!」と嬉しそうに言ってくれた。
孤児院での生活は、日本での生活とはかけ離れたものだった。
僕は、鶏の声で起きた。陽の光と共に。
僕は子供達と、自然の中でぼーっとした。何もすることもないし、何を考える必要もなかった。
子供たちは、日に何回かお祈りをする。ビンズー教の慣わしだろう。そしてマザーが子供達一人ひとりを抱擁する。子供達はマザーの手元に口付けする。
なんだか、よかった。全てが、よかった。
ある日、孤児院の子の一人が僕にこう聞いた。
「なんの神を信じてる?」
僕はこう答えた。
「僕は無宗教だから、どんな神も信じてないよ」
彼は暫し無言で何かを考え込んだ後、
「え?どうやって生きているの?」
と不思議そうに聞いた。本当に不思議そうに、宇宙人を見るかのように。
僕はどうやって、生きているんだろう?
僕は、大学院の時、ひどく就活に疲れていた気がする。というか、日本という現代生活にひどく疲れていたのだと思う。
そんな僕からしたら、孤児院の生活は、すごく新鮮なものだった。
僕の最大の驚きを、そろそろ話そうと思う。
孤児院の子供達は、僕にこう言った。
「日本は豊かだから、羨ましい」
僕はなんだか不思議な感覚に陥った。
なぜなら僕には、その子供達のほうが羨ましく思えていたからだ。
確かにお金はない。訳あって親がいない。もしくは親と一緒に生活できない。
でも彼らには、一緒に生きる友人、大人達、マザーというコミュニティがある。
急かされることもなく、のんびりと自然と共に過ごす時間がある。
鶏の声で起きて、陽の光を浴びて、日が暮れたら、休む。自然と調和した、生活がある。
彼らは、いつも笑顔だった。とても楽しそうに、幸せそうに、笑顔で、遊び、祈り、そして、生きていた。
僕は、彼らからしたら豊かで羨ましい国からやってきた僕は、貧しい彼らが、なぜか心から羨ましかった。
「日本は、君らが思っているほど、素敵な国ではないかもしれない。僕は君たちの方が羨ましくなる時があるよ」
僕がこう言うと、彼らは不思議そうな顔をしていた。
僕はもうそれ以上は、何も説明しなかった。
僕の最大の驚きは、何も持たない彼らの方が、幸せそうだったことだ。
いや、彼らは全て持っていたのかもしれない。本当に必要なものだけを。
人と人のつながり。コミュニティ。
自然と調和した生き方。
祈り。
一方で、僕は、当時の僕は、こうしたものは何も持っていなかった気がする。(今は、どうだろう)
確かに僕ら、日本は、裕福だ。彼らに比べると多くのものを持っている。
けど僕たちは、幸せなのだろうか?
そんな問いが、僕の胸につっかえて、取れない。それはあれから10年経った今でも変わらない。
*
孤児院から日本に帰る、最終日。
僕は子供達と、最後の挨拶を交わす。僕はどこかで我慢していた。気丈に振る舞っていた。
最後、マザーが、僕のことを見つめる。
マザーは腕を開く。受け入れるように。
僕はマザーの胸元に向かってゆっくりと歩き、マザーにハグをする。心から。
その時、「Oh my son...」と涙を含んだような声で、僕の耳元で、マザーが言った時、
僕は死ぬほど号泣した。
帰りたくない。ここから、帰りたくない。また、日本でのあの喧騒が待っている。帰りたくない。
そんな号泣だったのだと思う。
号泣しすぎる僕を、何事だ?と不思議そうに見つめる子供たち(笑)
最後の最後まで、不思議な日本人だったのだろう。
あなたは今、幸せですか?
大切な何かを、日本では気づくことのできない大切な何かを、教えてくれたバリの子供達。人達。
本当にありがとう。
今もまだ、胸のつっかえはどこか取れていませんが、僕はそれでも、幸せになるために生きてます。
ここ、豊かな国、日本で。
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