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悲しさの底

愛されなかったり無関心でいられたり価値がなかったりすることはヒリヒリするほど悲しくて、毎秒毎秒脈打つ自分の肉体そのものがどうしようもなく恨めしくなる。けれどそのあと、悲しさが底をついたようになったときに「生きている自分」が単純に嬉しい。

鷺沢萠『町へ出よ、キスをしよう』

最近はもっぱら鷺沢萠の著書を読み漁る日々である。エッセイ、小説、没後20年近く経とうとしているにもかかわらずその文章は不思議なほどに鮮やかで色褪せない。

共感する文章も多いが、特に気に入ったのが冒頭で『町へ出よ、キスをしよう』から引用したものだ。夜、そろそろ寝ようかと部屋の電気を消して横になったとき、唐突に不安に駆られることがある。

特筆すべきものもなく、何も変わり映えのない単調な毎日がこの先もこのままずっと続いて、私は老いて死んでいくのだろうかと。もっと美人だったらこれといった努力をせずとも誰かに愛してもらえただろうか。これがいいと願ったわけでもなく、勝手に与えられたこの肉体で生き続け、ちゃんとした愛情も知らずに死ぬくらいなら、今すぐこの肉体を捨ててしまいたいとも思う。感情さえなければ愛情など欲しなかっただろうから、感情なんてものも捨ててしまいたいと思う。感情も肉体も、どうしようもなく厄介で重たい代物を、すべての人間は背負って生きていかねばならない。なぜこんなものを与えたのかと神をも恨みたくなる。

だけど、それでもまだ諦めるのは早いのではないか。もうちょっと頑張ってみたら、その先に途方もないくらいの幸せが待っているのではないか。そう考えては夢を見て、再び自分を奮い立たせて生きている。何か嬉しいことがあったときや何かを成し遂げたとき、感情や肉体をもっていることが幸せに感じられる。そんな一瞬があると、人生も捨てたもんじゃないなと思う。

悲しさの底は、ちょっと見えているくらいがちょうどいいのかもしれない。全く見えないと感覚が麻痺してしまいそうだし、底をついてしまうと堕落してしまいそうだ。自分にも輝ける一瞬があることを信じ、適度に上を向いたり下を向いたりしながら、今日もまた生きていく。

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