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意気地なしの素地は布地

小学校のころ、夏休み明けにザリガニが死んでるのを見つけて同級生と埋葬したときから動物を飼う勇気がない。すえたにおいと形容すればいいのか、あの独特のにおいが離れない。

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阪神淡路大震災が街の人々の命も努力も理不尽に奪ったとき、小学生だったぼくは、世の中があっさりと壊れることに諦観をおぼえた。カウンセリングを受けていたら良かったのかもしれない。なんだが、全ては泡沫の夢。という気持ちがどこかにある。だからといって、必死になっても仕方がないという価値観ではない。必死に手を伸ばす物事が少ないほうが、あきらめがつくような気がして、多くを求めないかわりに、手に入ったものは失わないようにがんばるみたいな思考の回路ができていた。

過去を言い訳にして、いまでもそれを続けているけれど、それを良しとできない自分が発生してきて、大きくなってきている。その後の災害や、あの津波の壮絶な映像を見て、そこから立ち上がろうとする人々の背中をみたことが、子供の頃におぼえてしまった諦めるという処世術への疑問符をくれたのかもしれない。
たしかに、自分を振り返ると、夜尿症が中学二年生まで治らなかったことや母が寝込みがちだったことも要因にカウントできるかもしれない。でも、それを理由に「そういうわけなのであきらめつづけます」というのはやっぱりできない気がしてきた。

言動は、認識と感情から発生する。認識と感情は変化の可能性がある。出来事は変えられないけれど、評価値を変えて代入すれば、計算結果は変わる。これは誤魔化しや偽りではなくて、正しく再評価しよう、応えありきで認識と感情を用意するのはやめようという気持ちである。

意気地なしだから、死ぬまで意気地なしでいなくちゃいけない。なんてことはない。布地はデザイン次第で服にもかばんにもなる。パッチワークだってあるんだからツギハギにだってかまわない。認識に新しく折り合いをつけるときに、妄信的になったり、狂信的になったりさえしなければいい。

諦めて立ち止まっていた長い時間のなかで仕上がった布はおおきい。デザインすれば全身コーディネートできるかもしれない。

意気地なしの布で防具をつくって装備しよう。武器にもなるかも。

明日、すごく落ち込むかもしれないけれど、この記事を書いている間だけでも、ポジティブに浸ろう。せっかくのワクワクだ。水を指すのも勿体ない。

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