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出さないと見えない

大学を卒業前に就職活動をせずに過ごしていた私は「これまでの人生は流れに乗って取り残されないように意志薄弱のままに何となく生きてきた。これからの人生、そんなことじゃあかん。一度立ち止まって自分自身のことを考えてじっくりこれからの人生を選んでみよう」と、無職を選んだ。結果、年齢非公表だがこの年で社会人じゃないのは明らかに何かをしくじってしまった。少なくとも、僕が就職していれば父が自己破産をすることは無かったのではないか。と思う。

 一方で、父の借金を自分も負担をかけたからと肩代わりして払い、大卒から現在までに発生する姉の家庭のしくじりで発生した借金の幾ばくかも背負い、働けど働けど我らが暮らし楽にならずでヘットヘトのクッタクタになって命のログアウトをしていたかもしれないとも想像する。

家族であろうと、甘い顔して他者の金銭的苦労を手助けするのはやっぱり違うんだと頭ではわかっているけれど、親を見ていると、なけなしの五千円を渡したりするのだ。これはある種の美談ではあっても正解ではないなぁという感覚があるのだが、私も私で、千円を姉に握らせることもあるので、正しいことを情に流されることなく行うのは難しいなぁ。と思う。

冷酷でも冷徹でもないし、結果優しいのではなく甘いだけだという激しい痛みを伴った学びは受肉しないままだから、なまじ金があるぶん底なし沼に金を放り込み続ける地獄の日々をエンドレスランしていたかもしれない。

情に流されるにしても、綺麗事で押し流すような短絡的な感情のケリの付け方ではなくて、ちゃんと失望感と共に期待も希望も託さずに焼け石に水だなと思って渡すくらいの冷静さを失ってはいけない。
わかっていて、なけなしの血肉をドブに捨てる気持ちでやる。虚無感と悲しみと怒りを貯めながら渡すという行為は、いまお金をせがむあなたは、家族の情愛を担保に、なけなしの金を出させているんだよ。そのことにさえ「仕方がない」の一言でと居直れてしまえるほど残念なひとになったんだよ。

と思いながら、感情を切り崩して、飲み込んで、わかっていて、一緒に死んであげる気でほだされる覚悟をもたないといけない。
単純に、いつか気づいてくれるだろうの精神で、家族だからと思っていたら愛を贄に育つ間違った優しさで破滅する。破滅しても、学んでも、二度と繰り返さないと誓っても、それまでの時間でできた流れやすい川の流れに飲み込まれる。川だったところを治水工事で別の流れにしても、元の川の流れに沿って反乱することがあるらしい話に近い。本当に、学んで変わる。というのは難しい。姉や父を見ていて思う。僕自身は僕の望みのために金銭的な迷惑をかけたことは、大学以降はない。しかし、母の面倒見て食事は作っても、安定的に金を生み出さないから負担をかけ続けている。

最近の記事で父の自己破産について触れたら、姉夫婦の人生のごたごたが関わってくる。というか、父の破産のきっかけとしては一番負担が大きい。二番目は、私の大学の費用だ。だから、姉をけちょんけちょんに責められるような高みにはいない。所詮は目くそ鼻くそを「嘆く」に過ぎない。
そして、嘆くだけではどうしようもない。私は、書いて、何かを学び取る。学び取らねばもったいない。
せっかく体験した地獄だ。せっかく体験中の地獄もある。息のあるうちに脳を言語に。

(ああ、一人称が定まらないなぁ。。。)

余談

どうして自分と家族の恥を書き残しているのか。自分でも理由を断言できないのだが、いま書いておかないと心が持たない気がした。というのが現時点での回答に近い。はずべき行為を行っている後ろめたさがあるけれど、自分と家族のくるしみをきちんと明らかにして、並べて、見直して、そうやっているうちに大事なことが見えてきそうな気がする。このあたりは、父が弁護士さんに相談したときに、自分がなぜこうなったのかを考えて書いてみてくださいという宿題とか、家計簿をつける癖がなかった父がつけることを申し付けられたのに私が行い、私も家計簿をつけなくなったら、やっぱり食費に使う量が増えたりしている現状から、見える化の必要性を再確認したというのもある。やろうとしては失敗してばかりだが、見る前に出さねば。

うんちも出さないと見られないしね。

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