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人の尊厳と、矮小化される女性問題

性差別問題。男女平等という言葉に執拗にこだわっていませんか。ここのところ、ちょっぴり危険思想にすら思えることがある。。。

男女平等問題を語るとき、本来これは人類の尊厳を取り戻すための「闘争」であったはずなんです。

ところが、近年どこをみても経済的弱者である女性の地位向上を求めるものばかり。地位向上?何に対して?もう少し注意深くあってほしい。男性が優位な経済状況の中で男女差をなくし、女性であっても優位に働ける環境を保障しましょうと言うのはわかるけれど。。。これって結局のところ、経済「競争」のなかに女性を取り込むということになってないだろうか。

わたしたちは今「ただ生きるだけ」が許されない社会に生きています。生活必需は商品化され、お金がなければ生きられない時代に生きています。このnoteを読んでいるほとんどの人は、そのためのお金を得る必要から自分時間を労働力として商品化しているはずです。そこにはあなたの自由意志があり、選択の自由があると言う。それを自由と呼んでいるのだけれど、この ”自由” というカッコつきの理念は地球上のほんの1%にも満たない資本家にとっての偏りです。大多数を占める市民にとって、働かなくてもよい人たちまで競争を勝ち抜かなければ生きられないギャップを「自己責任」という言葉で正当化していないだろうか。

働かなくてよい人を労働に駆り立てるように、コミュニティーは小さく分割され、いまや都市部のほぼすべてのコミュニティーは「家族」という名ばかりの極小個体の集まりに集約されてしまいました。

その上更に、女性問題という課題を生み出し、、、女性を「競争」の舞台に引きずり込もうとする。ここまでくると女性だけの話ではなくって、核家族を更に個に分断する話でしかない。その先にあるのは子供までもが経済競争のなかに取り込まれていく沼かもしれない。すべての人は、みんな「ひとり」なのだから、自己責任によって自らのスキル(=賃金収入)を活かし自由に生きなさい、と彼らは言う。そうやって政治、教育、道徳にいたるまで、あらゆることに経済活動が優先される。経済活動に対する障壁を「男女差別」とか、「ジェンダー平等」などと言い換えているだけではないだろうか。

「女性らしさ」とはなんだろう?それ以前に、そもそも「あなたらしさ」とはなんだろう?その問いの根っこにあらためて立ち返ってほしい。人間の尊厳を守るとはあなたがただ生きていてよいという保障だとわたしは思います。

りなる




この記事を引用してくれました!

「平等」と「同じ」という類似した言葉にの間には大きな意味の「揺れ」があるってことに、そろそろみんな思い至ってほしいとわたしも切に願っています。。。

だらだら過ごしても
めいっぱい用事を詰め込んでも
おんなじように1日1日は過ぎてゆく
どちらを選ぶかは人それぞれ
自分のペースや容量を他者に押し付けない方がいい
同じ種と畑から産まれた子どもたちも
全く同じなんて有り得ない

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