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贈与と結び

「贈与」という言葉が気になっている。

「贈与」

贈与というのはドイツ語では「毒」といった意味もある、なんてことを聞いたことがあります。与えてもらった側にとって、いただいたまんまじゃ申し訳ないからと、次の機会にお返しをしないといけないという「縛り」になるのだと。お返しをされたら、またそのお返しのお返しみたいなことが繰り返されたり(笑)そうやって贈与はお互いを縛るかのように永続的に関係性を深めていく。贈与の関係っていうのは、良くも悪くもこのような結びを深く「長く」する。

贈与はもらった恩をいつか「返さなくてはいけない」という意識の上に成り立つようです。誰かに受けたほどこしを顔の見えない誰かにお返しするペイ・フォワードの終わりなき波に変わっていくこともある。基本的には顔の見知った関係で成り立つことが多く、持ちつ持たれつのシーソーゲームが続いてゆく。家族関係であったり、仲間同士であったり、「あぁ、いいよ、それやっておいてあげる。」「こないだありがとね。美味しい佃煮できたからもらってよ。」なんていうお互い様の関係。このような「長い」関係性の中には、お互いを知り尽くしているからこその "ゆるさ" や "あそび" が育まれもする。

「金銭」

これと対局にあるのが「金銭」による関係性。贈与の関係と違い、お互いの信頼関係が成り立たないときに、代替としてお金という「信用」に置き換えることができる。ですから、お金というのは基本的には、顔のみえない関係においてスポットその場限りで取引するのに非常に便利で強力なツールです。「コミュニティ(共同体)」が顔の見える関係または恩を返す誰かがいるのに対して、「マーケット(市場)」とは顔のみえない関係によって金銭を媒介して構成される場です。

こうして取引をお金に代替することで即時に、お金の「信用」を媒介して見ず知らずと関係性を築けるわけです。これは非常に合理的でもあります。取引をするのにその人となりを知り関係性を深める必要もないわですから。タクシーに乗るのにわざわざ運転手と親睦を深めてからじゃないと利用できないなんて言ったら不便でしかたありませんね(笑)逆に、永続的な長い関係である必要がなくなるわけですから、便利だからといって関係性を「お金の信用」に置き換えることで、人間どうしの絆は徐々に薄まっていく方向に行かざるを得ないでしょう。核家族化が進行し、孤独が社会問題になる現代に生きるみなさんにとって、実感として感じることができるのではないでしょうか。

自分が今所属している「場」

身の回りの関係に思いを巡らせてみる。上京したタイミングで親戚や地元と疎遠になり、社会人になった、結婚した、出産したタイミングが重なるたび旧友とも次第に疎遠になる。残されているのは吹いたら消えてしまうほどの小さな家族と、それ以外のほとんどの時間を過ごす職場、あとは消費をするための売り場くらいしか残らない。これを先程の「贈与」の関係で考えてみると、ほんの数人の「贈与」の関係と、その他大勢の金銭による「市場」によって生まれた関係という構図になってしまう。わたしたちの生活はスポットの関係性であふれている。

ここ十年近く、誰と話しても仕事が辛いという話しか聞かない。そのたびに、みんな飲み会の終わりに「仕事が辛いのは当たり前だ」という決り文句で話を結ぶ。でもね、仕事が辛いのは仕事のせいではない、とわたしは思っています。仕事 = 金銭労働という固定観念がその根源にあると思っていて、仕事が金銭労働である以上、わたしたちの関係性はどうしても希薄にならざるを得ない。そこには「贈与」による助け合いも、安心もないし、お互い様のゆるくて良い意味でのズブズブな関係も存在しない。残っているのは、あくまで等価交換という契約上のギブアンドテイクの関係しかない。

エンジニアをしていた20代のころ、わたしは自分が奴隷だと感じて仕事をしていた。就職するということは、自分の人格を金銭化マネタイズして売りさばくこと、そう思いながらもそこから抜け出すことができなかった。辞めたところで自分を助けてくれる関係の場がどこにもないから。たとえ自分が就職した企業が優良な企業であっても、出向した先であったり、元請けであったり、一般の消費者によって、わたしたちはどこかで使い潰される。彼ら顧客の言葉は絶対。お客様は神様である。そうやって、お金が媒介することでお互いの顔が見えなくなっていくのです。これはどの現場でも起こっていました。そうやって過労で同業者が救急隊に運ばれたり、職場復帰できなくなるまで使い潰されたのです。近年は残業などが厳しく規制されて職場環境は大きく改善されました。それは褒められるべきことだけれども、目先の問題をただ先送りにしているだけではないか、という思いもある。なぜなら、問題は過労そのものではなく、金銭により人間を資材としてあつかう、という行為にあるのだから。

心地のよい「場」

近年、特に若者のなかに、このような希薄な人間性から逃れるように仕事や職場に安寧を求める人が増えているように感じています。スタートアップの企業などでは、家族の「ような」関係性を望み、みんなで楽しく仕事をしようといった風潮もみられる。今の不安定な社会を見ていると当然の帰結のようにも思える。わたしはこれをとても好意的に受け止めているけれども、本質を見逃しているとも一方で思う。それは表面的でしかないから。金銭によるスポットの関係でなりたっている以上、(事故や病気、その他さまざまな要因で)その会社に所属できなくなったときに、あなたを無条件で助けてくれる受け皿はそこにはない。問題はもっと根が深い。無条件に助けたいと思える関係、その長い関係を失ってしまったことが問題ではないか。

このような孤独や不安すらも経済合理性によって解決できる、と信じている人はまだまだとても多い。そうではなくて、問題の根本は経済の非合理性、もっと噛み砕けば「贈与」というコミュニティの中でしか解消できない、と少なくともわたしは思っています。ですから、みなさんにも、この先なにか決断を迫られたとき、それが「贈与」による長い関係によってもたらされるのか、経済合理性による短期的な関係であるのか、といったシンプルな判断軸を頭の片隅に持っておいてもらいたいと思うのです。

りなる



この記事にインスパイアされて、ご自身の体験談をnoteに書いてくれました!リンクを貼っておきます!そうなんですよね。このような体験を実際にされてる人や、救いの場を必要としてる人、またそれと気づかずに機会を失っている若者は潜在的に結構いるのじゃないかなぁ。。。


記事を引用いただきました!贈与というキーワードでもって、田舎に帰省してみると、いままでの何気ない習慣がとても意味のある行為に思えてきたという体験談がとても印象的です。視点を変えることでわたしたちはこんなにも住んでる世界の見え方が変わるんだって思えるステキなnote。


参考書籍

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