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わたしたちのストーリー

きのう母がワクチン接種の予約をしたという報告が入った。どうやら手伝ってもらってインターネットでの予約を完了したようだ。事前に操作方法だったりを教わっていたのだけれど結局もたついてしまい、弟が代わりに手取り足取り予約を完了したのだそうw なんともはや、、、やっぱりひとりで、ネット予約は高齢者にとってはハードルが高そうだ。近くに住んでいない遠縁の親戚らはいったいどうしているんだろう。そのうち突然「予約できないんだけど」とコールセンターばりに電話がかかってくるのだろうか。ふっと気になっている。

高齢者にはインターネットは難しい?予約サイトの構成がわかりにくすぎる?色々意見はあって、どれもその通りだなと思うのだけれど、そこにはもっともっと深ーーい本質的な課題があるような気がしてならない。


自分の老後を想像してみる

わたしは自分が80歳になったそのときにあるであろうまだ見ぬ未来の技術に、わたし自身がついていけているだろうか?そんなことをたまに想像してみる。

いまの社会、結局のところなんだかんだ利益第一で回っていて、社会の危機があればあったで、そこには危機を解決するための商機がもたらされる。すると自然に見えざる市場の手が介入して世の中は適切に回っていく、、、と、まぁ、そんな風な説明がなされていて、わたしも無意識のうちにどこかで、そんな風なものだと考えているような気がする。

ただ、どこかでモヤモヤとした違和感を感じてもいた。

3.11に感じた違和感

3.11によって国内が大混乱に陥っていたころ、わたしはヘルスケアの事業に参画してまもなかった。システム開発によって社会貢献はできないけれど、ヘルスケア事業に参画している者として何かできることがあるのではないかと、心のなかで使命感のようなものを感じていた。

そんな中、工場の閉鎖などにより在庫が不足し紙おむつが飛ぶように売れた。風評被害によって飲料水が店頭に並べるやいなやみるみるなくなっていった。放射線物質が除去できるかもしれないという噂が噂を呼び、NASAで開発された技術という触れ込みの何万円もする浄水器があっという間に半年待ちの状態になった。。。

ーーー 次に何が売れるだろう?ヘルスケア業界は嬉々としていた。

わたしはそんな状況を傍目になんとも行きどころのない違和感を感じたことをはっきりと覚えている。決して人の不幸を糧に喜んでいるわけではないということはわかっているのだけれども、手掛けている事業に需要がうまく重なればビジネスは回り続ける。それが人の不幸であってもだ。

社会から不安を取り除いたり、みんなが安心して健康で暮らせる社会であるのが一番いいはず。でも一方で、社会が不幸であるほど、より多くの商機が生まれもする。

利益追求型の社会を続けている限り、このみじめなサイクルは止まらないのではないか。商機を前にして不安を撲滅する必要などないのだから。

CSRの意義

当時、企業ではCSRという言葉が頻繁に囁かれるようになった時期でもあった。何でもかんでも横文字にすりゃぁいいと思ってないかと、三文字アルファベットに悪態をついていたわたしだったけれども、そのアイデア自体は嫌いじゃなかった。CSR (= Corporate Social Responsibility)企業の社会的責任。よりよい社会を実現するために企業が社会貢献に励む努力が必要だという耳障りのよいものだ。

そんな頃に田坂広志教授の講演会でこんな話を聞いてハッとしたことを思い出す。自由市場の中、その利益のもたらすところによって世界の問題を乗り越えようというこの理想はほんとうに地球を救えるだろうか?この問いかけは、わたしが3.11以降に職場で感じていた漠然とした違和感そのものだった。

随分前の話なので、内容はうろ覚えなのだけれども、当時のメモから大方以下のようなことをおっしゃっていた。

CSRは素晴らしい理想ではあるけれど、企業は「競争原理」によるCSRの歪曲を避けることができない。

"CSRを重視しないと競争に負ける"
"CSRを重視すれば利益になる"

企業が利益の最大化を使命とする以上、いかなる決断も「競争力と利益を侵害しない範囲」で下される。

株主の利益を上げることが経営者の義務であり唯一の正義なのだから。CSRだけでなく、企業の存在理由である経営理念でさえ、組織の存続のための利益が最優先され、競争力を損なわない範囲に留まるよう矮小化されてしまう。

コロナと繰り返される違和感

コロナの影響が全国に拡大し長期化することによって、この違和感が以前にも増している。高齢者のワクチン予約サイトを見て思う。インターネットや技術はなんのために進歩し続けるのだろう?サイトのデザインや用いられている技術は20年前とは比べ物にならないほど洗練されている。セキュリティーも強化され、開発面でも運用面でも安全なサイト構築の基準が適用されている。いいことずくめじゃないか!

でも、それはほんとうに社会に暮らす人たちを豊かにすることにつながっているのだろうか?

まるでファッションのように毎年新しいトレンドが生まれては消えてゆく。ホームページひとつとっても、CSS/JS、XHTML、FLASH、JQUERY、レスポンシブ、SPA、、、書ききれないほどのトレンドが生まれては消えていく、マーケットはここぞとばかりにそれを煽り新しい商機へとつなげていく。

高齢者からすれば、サイト毎にデザインが変わり使い慣れたサイトも数年すると新しいものにどんどん置き換わってゆく。想像してごらんよ。自分が将来80歳になったとき、いまよりもっと目まぐるしく変化する社会があって、そこにはもうITなんてものすらないかもしれなくて、毎年買い物のしかたが変わったり人との連絡手段がかわったりする。自分が変わらなくても周りが変わっていくのだから、80歳になったわたしはそれを当たり前とする世の中のインフラについていけているのだろうか。

この歳になって学べるかい!とか語気を強めて主張しようものなら、若者にめんどくさそうな目で一瞥され(まさに自分たちがしてきたようにw)、学ぶ意志がない高齢者の怠慢だと、こんどは自分が責められる側になるのだろうか。

セキュリティーのトレンド化

安全だと言われていたセキュリティー構成は、数年後にはまったく正反対に危険だと言われる。数年おきにフォーラムに参加するだけでもその変化に驚愕するに違いない。技術だけでなく取り巻く環境もいっそう劇的に変化している。デスクトップがノートパソコンになり、携帯がスマホになり、ネットワークが有線LANからWi-Fiになった。持ち出しや持ち込みが可能になり、コストカットの観点からもBYODなど個人端末の業務利用が積極的に許容されるようにもなった。データ資産は社内ネットワークからクラウドに移行され、社内ネットワークはもはや守るものから攻撃されることが前提のゼロトラスト環境へと意識が変わっていく。そのうえで、昨今のテレワークブームで個人利用のプライバシーの領域は無条件に開放しつつ、業務領域は堅牢に監視運用したいなどという矛盾する要求は増え続けている。もはや何が正解か適切に答えられる専門家はどれほどいるのだろうか。

身近な話題として、パスワード管理を想像するだけでもその変化は異様なほどだとわかるだろう。パスワードは紙のメモ書きに保存してはいけない。記憶できるものと言われていたものが、推測しやすい羅列でもいけないからと8文字以上になり、大文字小文字記号の混在でなければならなくなり、サイト毎に別々のパスワードを設定しろと言われ、更にメールアドレスのバリデーションが必要になり、更に更にCAPTCHA認証が推奨され、更に更に更に多要素認証だといって、スマホがなければサイトにログインすらできなくなった。すると更に、今度はパスワード管理ツールや、SSOといったID管理のためのサービスや技術が台頭するようになる。

親戚のパソコン管理を頼まれることが多いけれども、見ているとメールアドレスのバリデーションチェックですら高齢者はもうついていけない。結局わたしが彼らのIDとパスワードからメールアカウントまでの一通りを直接開示してもらう。パソコンの脇にポストイットで貼ってあるからとパスワードを教わり、代わりにログインをして環境設定をしてあげたりする。りっぱな「なりすまし行為」だな、などと思いつつ他にもつっこみどころ満載すぎるずさんなパスワード管理の現実に言葉を飲み込む。それでも、現状そうでもしなければサービスを享受できない。

ワクチン予約でインターネットが使えないと電話に殺到する高齢者を見て、、、わたし自身業界人として責任を感じずにはいられない。社会全体での生活の在り方を模索することを怠ってきたツケが次の世代にも持ち越されようとしていないか。

不具合が頻発するコロナ対策アプリ

そんななか、コロナ関連の接触アプリでは不具合が連続し、予約サイトでは重複予約が発覚したり、存在しない間違った予約番号でも予約が完了してしまうという「ちょっと考えればわかるだろ」と揶揄されるシステム開発が続いている。

でもね、そう言っている人たちがもしシステム開発の任を担ったとしても、「ちょっと考えればわかる」的なもののいくつかは見抜けずに見過ごされてしまうだろうとわたしはむしろ思っている。デジタルに精通した若い人でさえ、直感的に目先の操作で完結するスマホに毒されすぎていて、どのようなしくみでシステムが稼働していて、それが物理的な人の活動にどう関連するかを俯瞰して理解している大人はそう多くない。

ちょっと考えればわかるだろ、これは問題が発生したからこそ当たり前にわかるのであって、発生する前に網羅的に把握するのはおそらく専門家でなければ難しいだろうとわたしは思う。なぜなら、システムで考慮しなければならないポイントはこれだけではなく無数に存在するし、ここ数年だけでもこれだけの技術変化が業界では起こっている。ITは利益を追求しながら魔物のようにその姿を変え続けている。安心安全や使いやすさ、ひとびとの暮らしやすさを第一に発展している業界ではなく、目新しさや斬新さ、そしてそこから得られる利益が優先して無秩序に増殖しているのだ。

もちろん、開発している技術者であれば、おそらくはこの程度のことは気づけただろう。ところが、現在の日本ではシステムを外注する産業構造を持っているため、エンジニアが事業会社の事業内容を100%把握することがとても難しい。加えて、不景気によるコストカットや無謀な要求が横行したことで注文されていないことを技術者の善意でカバーすること自体がリスクとして考えられている。「ちょっと考えればわかる」ことを善意で提言することがはばかられてしまう根深い問題もある気がしている。いまの開発現場では、商機には善意を持ち込んではいけないのだ。

さて、何か新しいアイデア

大豆田十和子の三番目の夫よろしく、こんな問いかけをしている。「IDやパスワードって本当に必要だろうか?」なぜなら、セキュリティーに関わる開発が最もコストがかかり不毛だからだ。

銀行口座のアカウントにログインできてしまうからといって、それの何が問題なのだろう?お金の収支を覗き見たり引き落とされてもよいと言っているわけではもちろんない。システムのしくみ的に誰が引き落としたのか、誰が閲覧したのかがわかりさえすれば「本人しか引き落とせないしくみ」にしなければいけない道理はないはずじゃないか。

例えば現実世界でも、お店から商品を持ち出すことはできる。でもそれ、みんなやりませんよね。それはお店の商品は「勝手に持ち出してはいけない」とみんなが信じているからです。そして、それを信じ運用できるのに十分な程度にわたしたちの社会は成熟しているということです。だから、万引しておいて万引できてしまうしくみ(店)が悪い!なんて主張する人はまずいません。

これはシステムでも同じだと思うのです。そのための教育や検証をわたしたちはこれまで市場にまかせて放置してきました。ネット民のリテラシーが成熟していない。だからこそ、それを取り締まるためのしくみやら技術をこれでもかと言わんばかりに膨大なコストと時間をかけていたちごっこを繰り返している。

コモンネットワーク

どうしても他人の侵入が嫌だということであれば、顔の見知った30人くらいのコミュニティーを形成して、その30人だけが入れる閉鎖的なネットワークを作ったらよくないだろうか。IDもパスワードもなくそれぞれの口座をゆるく管理するくらいならどうだろう。そのネットワーク内では非匿名の接続様式をとってもいい。

本人しかアクセスしてはいけないという縛りを設けるから、セキュリティーは常に複雑になり、高齢者が取り残されるシステムが構成されてしまう。それなら、誰でもアクセスできる口座を作ってもいいし、顔の見知った人だけで構成されるネットワークを作ってもいい。ネットワーク外に出金するときにだけ、複雑な多要素認証や本人確認が必要なしくみにすればよく、その認証方式もできるだけ社会全体でより強固なしくみを担保しながら、統一していけばよくないか。

小さい頃タンスにしまってあるお父さんの財布から1000円を抜き取って怒られたのと同じ事。お父さんの財布がタンスにしまってあることは「みんな知っている」わけですから、その財布からお金をとらないのはしくみの問題ではなく、家族の善意の問題ではないか。デジタルの資産を現実のタンス貯金のようにみんなで共存しながら管理できたら、そんなことを妄想する。

制度設計を市場の商機にまかせるのではなく、そこにはどういう社会を実現したいかという理念が先にあるべきではないか。そこには、わたしたちの、わたしたちのための、ストーリーがあるはずだ。

独自性ってなんだ

サイトデザインの独自性もここまで進むと、むしろ不便でしかない。インターネット黎明期こそ、そこにコストをかけちゃんと整備できる企業というだけで信頼感や箔が付いたかもしれない。いまのご時世、素晴らしい公式サイトを持っているからといって、その企業が優れているという指標には全くならない。無料でそれなりのデザインが瞬時に構築できてしまうサービスで溢れているのだから。

これは最近話題の阿部寛さんのホームページ。なんだか、初期のホームページみたいなデザインが、一周回って新しいと話題ですwww

このホームページを見ていると、本来の目的は伝えたいことが伝わることであって、デザインがキレイだとか、独自性がどうだということは二の次ではないかという可能性を感じずにはいられない。

例えば、企業のIR情報サイトが共通の無機質なフォーマットであっていったい誰が困るだろう。商品「紹介ページ」はものすごく凝ったページであってもいい。だけど、IR情報サイトと同様に「購入ページ」の独自性は本当に必要だろうか?楽天、Amazon、Yahoo!ショッピング、最近流行りのBase、Shopify。。。みんな使い方が異なる。それが独自性なのだと言うけれども、実のところユーザにはなんのメリットもないって本当はわかってる。だって、われわれの親世代にネットショッピングをいくら教えても、サイトごとにボタンの配置が変わり、色もサイズも商品の選択の仕方もまるで違う。その結果いずれのサイトでも「購入することがきない」ショップ郡になっている。

閑話休題 ――― すっかり話がそれてしまった。これが良いとか悪いとかではなく、常識を疑う過程の物語だと思って受け取って欲しい。

人新世に生きるわたしたち

わたしたちは、いま環境問題や様々な社会問題に悩まされているけれど、こういった問題の中にこそ商機があり、より発展した社会にこそその問題を解消する技術やチャンスが生まれていくのだ、とずっと教えられてきたし、わたしもそう考えてきた。

そうやって環境問題は先送りにされ、この20年間見事なまでに経済成長を存続しながら、環境問題はますます深刻化している。上述したとおり利益追求型の社会では、むしろ問題は積極的に解消しなくてもよいとすら考えられているのではないか。

地質というのは本来何千、何億年という単位で変化をするようなものなのだけれども、この数十年の経済発展の末に地表はついに人工物に覆われ、地質学的に新時代に突入したと言われるまでに地球環境を激変させてしまった。この新しい地質時代を「人新世」(じんしんせい / ひとしんせい)と呼ぶ。

最近、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』というベストセラーで話題になった。今までのやりかたを踏襲しつつ、資本主義経済のもとで経済発展を促しながら新しい変革を求めるやり方にはもう限界があるのではないか。

人新世という言葉自体は随分前から話題になっていて、わたしがはじめてこの言葉を耳にしたのは、慶應義塾の設樂先生の講演会だった。

脱成長だとか、持続可能社会だとかいう耳障りのよい言葉が流行っているけれども、商機による発展こそが未来の問題そのものを解決するというその考え方はずっと変わらない。これらの言い分は現状の問題を何一つ直接的に解消しない。現状維持型の思想によって、わたしたちはほんとうに目の前に立ちはだかる問題を回避できるのだろうか?

CSRという言葉が囁かれてから何年かが経過し、それに変わる標語が社会には生まれている、SDGs、グリーンエコノミー、エシカルなどなど。しかし、その方針の本質は何もかわっていない。SDGs(=Sustainable Development Goals)に代表される持続可能な開発目標とはいったいどのようなものなのだろう。利益を最優先とする無尽蔵な「開発」こそがいまの非持続的な社会の根本原因だとしたら「持続可能な開発」とはまったくの矛盾した、響きの良い言葉の組み合わせなだけかもしれない。

さて、わたしたちが目の前に見ている問題の本質は、いったいどこにあるのだろう。

わたしたちのストーリーを描く

短絡的にそんな社会を少しでもよりよくするために、わたしたちができるもっとも効果的なことは選挙にいくことだ。ただ、そうは言っても選挙に行ったところで目に見えた変化はないし、結局は組織票を多く集めている党が美味しいところをもっていくだけで何も変わらない。闇雲に選挙に行くよりは、民間企業や実業家に期待するほうがよほどましだという声も聞こえてくる。わたしはその考えも否定しない。実際、ある意味そのとおりだから。選挙という方式そのものが決して公平な手段であるとも思っていない。

それでも、1%の資産家の資産のほうが残りの99%の地球人口の全資産よりも多いと言われているスーパー格差社会にあって、おおよそ全ての人間は経済的にこそ、どこまでも果てしなく無力なのだ。すると、資産家であろうと貧乏人であろうと同じだけの権利を保証されているのが選挙の一票だ。大部分の人にとって、現状わたしたちが持ちうるもっともパワフルな武器こそ、選挙の一票だとも言える。

ただ「一票が大事だから」選挙に行きなさいという動機もまた不純だ。センター試験を受けなければ大学に受からないんだから、勉強してなくてもせめてセンター試験だけは受けなさい。この主張は正しいようで不毛でもある。

だから、わたしは思う。賢く生きなさい。あなたはあなたらしくいつも賢くあれ。

みんなが少しずつ賢くなった先に、社会は少しずつ成熟してゆく。。わたしたちみんなが学ぶことで、選挙の質が変わり、ゆくゆくは政治を志す人の意識が変わり、当選する政治家の質が変わってゆく。それがゆくゆくは世の中を変える大きな波になってゆくのではないか。

そして、あなたにできることは、それだけじゃない。

もっと重要なことは夢を描くこと。あなたの理想の物語を紡ぐこと。世の中に貢献しようと知識に奔走する人は多い。データドリブンだという考えも流行っている。でも、ときに知識やデータはあなた自身の本質から目をそらしてしまう。常識や固定観念は、より大きな理想や夢を一蹴してしてまう。技術やビジネスモデル、SDGs、CSRといった言葉もそう。知識やデータより大事なものがある。それが理想を追い続ける理念です。あなたの思い描くストーリーです。

わたしたちは、どんな社会に住みたいのだろう。どんな人と、どんな場所で、どんな暮らしをする自分を想像しますか?そのストーリーが、未来を築く第一歩を踏み出すのだと思います。

りなる



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