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組織内のコミュニケーション - 「語る」より「伝わる」こと

このあいだ、お仕事の話をしていて、悪い組織には何が足りてないんだと思います?なんて話になったんです。わたしは、ちょっと考えて「コミュニケーションの不足」みたいに言ったんですけども、どうも相手はその答えに納得がいかなかったようでw 「うーん、でもコミュニケーションだったら、頻繁に1on1やっている企業はいっぱいあるし。昔なんか、ノミュニケーションとかいって部下と飲みに行ってたけど、ブラックな企業は結局ブラックじゃない?」というようなことをおっしゃっていた。

その会話はなにか別の話でその場は流れてしまったのですが、「コミュニケーション」ってなんだろうと、その会話の続きを空想しながらnoteをしています。

やっぱり、コミュニケーション

対立があったり、仲が悪かったり、うまく回らないことは、多かれ少なれどんな組織にもチームにも家族にもありますよね。状況は様々ですけど、理由を紐解いていくと、たいてい意思疎通の問題です。(でも、やり方だったりツールのせいにする人が多い。。。)「それ先に言っといてよ」とか、「本部はなんで共有してくれないの!」とか、「これわたしのやるべきことですか」とか、「自分はチームに評価されていない」とか、「マーケティング部はいつも勝手!」とか「何が求められているかわからない」とか、とか。。。全部、情報がうまく伝わっていないことが原因です。つまり、コミュニケーションが圧倒的に不足しているように思います。圧倒的に、です。

だから、大雑把ですけど、現場レベルでは問題を引き起こしている当事者同士をその場につれてきて、ものの30分会話させるだけでも、ウソみたいに問題が解決することも実際によくありします。もちろん、上辺だけの会話になっては意味がないので、そこには必ず「会話のできる」第三者が介在するなどの工夫はいるかもですが。

技の伝承(体が嘘を嫌う)

先日、『棟梁』という本を読んだんです。小川三夫さんという宮大工によって書かれた本です。失礼を承知で乱暴にカテゴライズしてしまえば、人材育成の物語です。宮大工っていうのは住み込みで師匠について仕事を教わるそうですが、言葉でああだこうだと説明したりは一切しない。言葉で伝わることなんて習得したことにはならなくて、本当に習得したものというのは体に染み込んだもの、それは生活や日々の実体験のなかから体が覚えるもの。だから師匠はああだこうだと言わない。技っていうのはそうやって伝わるものだ、みたいなことをおっしゃっていた。

身体や手というもんは言葉のようにはすぐには浸みこまんもんや。覚えるのにも時間がかかるが、手や体に記憶させたことはそうかんたんには忘れん。時間をかけて覚えることは何も悪いことではない。さっさかさっさかやって上っ面だけを撫でて覚えたつもりになっているのは使えないな。

ほんとうを覚えるのには時間がかかる。時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。

小川三夫「棟梁」

背中をみて仕事を覚えなさい!なんてことは最近は言わないですがw 確かに失敗を経験することで身についた違和感だったり、議論する前に結論がわかってしまう空気感だとか、わたしたちみたいな単調なビジネスの世界ですらそういった体が示す反応みたいなものはあります。

言葉で説明しないのに伝わるだとか、むしろ言葉で説明したものは身につかん、なんていう伝承方法に、改めてコミュニケーションの本質は、言葉で表現すること自体にあるのではなく「伝わる」ことなのだと、当たり前のことにハッとしたのです。技が体に染み込むまでになって、はじめて「伝わった」とする。そういう世界もあるんだと。

語ること ≠ コミュニケーション

職場を見ていると1on1だとか、360度評価だとか、月次の評価面談の必須化とか、、、円滑なコミュニケーションを促そうとするルールがどの組織にもあります。ただ、よく観察してみると「語ること = コミュニケーション」だと言うことになっている。でも違いますよね。「伝わること = コミュニケーション」です。たとえ3時間言葉を交わしたって、思いが伝わっていなければそれはコミュニケーションじゃない。評価面談?オンライン飲み会?ノミュニケーション?部下に何時間も語たって、その思いが伝わらなければ、ただの独り言。。。

現代社会ではカタチばかりを重視することが多いようです。毎月1on1を実施してます、とか。誰もが自由に意見を言える目安箱を設置しました、とか。それってコミュニケーションを重視しているようでいて、カタチに固執している。話すこと = コミュニケーションだという意識でいると、このような誤謬が生まれるように思います。「たくさんコミュニケーション取ってるのに、ブラックな企業はブラックじゃない?」っていう言葉は、その誤謬から生まれているのだと思います。たくさんコミュニケーションを取ったんじゃなくって、きっとたくさん独り言を言った、んだと思う。

カタチばかりの感謝を伝えること

すると、最近よく褒めて伸ばすとか、感謝を伝えるとか、そういうことを言う人がいるじゃないですか?わたしはこれ聞くとどこか違和感を覚えるのです。これも「語ること ≠ コミュニケーション」って軸で考えると、その違和感がはっきりしてきます。

確かに「ありがとうございます!すごい助かりました。」とか、「それすごく、いいですね。」「よくできました!」と、感謝したり褒める言葉を口にする人がとても増えました。その一面だけ見れば、すごく好ましいことと思うんです。汚い言葉を使うよりも、感謝や美しい言葉を使うほうがその場がなごんだり、心地よい空気が生まれますから。ただ、コミュニケーションを相互理解という視点でみると、たいてい独りよがりの事が多い。その感謝は、ほんとに伝わっているだろうか。

ありがとうございます、なんて誰にでも言えるじゃないですか。。。ぶっちゃけ、それがゴマすりなのか、本心なのかなんて、聞いている方にはわかりません。だから、言われる側って、実はいくら感謝の言葉を述べられてもぜんぜん安心できないものです。フリーランスなんかやっていると痛感しますが、社会人はたいていみんな"いい人"で「ありがとう」って言うんです。でも、そのありがとうが、ただのねぎらいなのか、今後も末永くお付き合いしたいっていう好意なのか、それが伝わる「ありがとう」を使いこなす人はそう多くありません。

人から慕われる上司や、信頼される人は、自分の思いを伝える術に長けているように思うのです。それは必ずしも褒めたり感謝する言葉じゃなくってもよいように思います。批判やダメ出しでもいい。ただそれが心からの「本心」であると「相手に伝わった」とき、相手は心から安心します。人っていうのはそういうもののように思います。本心がみえないから不安になるし、本心がみえないから批判や嫌悪につながる。大切なのは、「伝える」技術の方で、感謝とか褒めるのがよいっていうのは、むしろ副次的なもののように思います。

コミュニケーションの「型」

昔、茶道の先生がおっしゃっていたんです。茶道の「型」っていうのは美しい所作の手本である以前に、コミュニケーションのツールなのだと。細かいことは忘れてしまったのですが、そのようなことを言ってました。どういうことかと言えば、茶道の型っていうのは厳密に決まっています。みんな同じ所作を強いられるわけです。ところが、その厳密性の中にも、微妙な誤差が生まれます。あら?○○さん、今日はお辞儀がゆったりしているな、なにかいいことあったのかしら?あれ?お椀を眺める目が泳いでるな。何か不安ごとがあるのかな?つまり、型というのはそれ自体が言語なんですね。ですから、その微妙な所作の揺れによって、言葉にできない思いが表れて「伝わる」。所作にはウソがないから。このようなコミュニケーションを成立させるために技/型の習得が必要になるのだというのです。

普段なにも語らない親方が、今日は弟子の仕事っぷりを見て、黙ってうなずく、とか。去り際に肩をポン!と一つたたいてくれた、とか。。。これだけで、伝わったりするわけです。これが飛び上がるほど嬉しかったり、ああ、このやり方でいいんだと得心する。これはそのような関係性=型ができあがっているからこそ成立するコミュニケーションなのだと思います。

「伝わる = コミュニケーション」という軸でわたしたちの生活を見るとき、そこには伝えるための努力や場が必要になるということです。それは受け手と伝え手、それぞれ「個」の伝える技術でもあるし、お互いの関係性を醸成する「場」でもある。それが「型」という表現には含まれているのです。

コミュニケーションの「質」を考える

コミュニケーションと言う言葉を矮小化して捉えてはいけません。ありがとうと言われて悪い気がする人はいないでしょう。だからといってありがとうと言えばいいかといったら、やっぱり違う。それが伝わって、あぁ、わたしは先輩の役に立ったんだとか、求められていたことがちゃんと達成できたんだ、と受け手が「得心」できなければ、結局いい関係性には発展しません。

あなたの「好き」は、同僚に伝わっていますか?「イヤだ」ということが本当に伝わっていますか?どんなところが好きなのか、なぜイヤなのか、得心をもって伝わっているだろうか?人は理由もなく誰かを好きになったり嫌いになったりはしません。そして、その理由が本心からくるものであれば、相手はそれを聞いて安心するのです。ひょっとすると、□□さんもあなたのことが嫌いな理由やどうしてそうなったのかの経緯を正直に打ち明けてくれるかもしれません。それはほんの些細なことだったりするかもしれません。それでも、お互いの思いが伝わったとき、そこには安心が生まれるのです。

コミュニケーションは「場」が育むもの

長年連れ添った祖父母なんかは、朝おじいちゃんがお茶お飲む素振りでその日の機嫌がわかったりする、らしい。こういうお互いのあうんの呼吸から生まれるコミュニケーションにはウソがない。機嫌が悪いときは、ちょっと近寄らないようにしたり、機嫌がよさそうなときは、ああ機嫌がよさそうだと放っておいたりする。そうやって自分の居場所をみつけられる。だから、安心するんです。コミュニケーションという言葉をもっとより深みをもって理解をするなら、それは「言」よりも「場」なのかもしれない。上述したとおり、「型」には、その両方を含んだようなところがあるように思います。

すると、これは翻って組織の話にもどるのだけれど、これまで企業とか組織って目的を達成するための直線状の手段としか思っていませんでした。でも、より大きな社会循環の視点で見れば、想いを伝え、技を伝承する、そして後を託す、そのための「場」を育むところ。そのような視点を持ったとき、組織の在り方はもう一歩先のステージに進むのかもしれません。

りなる



あとがき

むかし、父の書斎にあった本を何気なく読み始めたら、いっきにのめり込んでしまった。『木のいのち、木のこころ』(西岡常一)。以来、わたしはすっかりこの法隆寺宮大工の西岡棟梁のファンになってしまいました。

小川三夫さんはその最初で最後のお弟子さん。最近たまたま紹介いただいた本『棟梁』(小川三夫)は、西岡棟梁亡き「その後」の物語。これは棟梁の思いを伝承する継承者の物語です。西岡棟梁のファンはぜひ読んでみてほしい!大きな時代の流れの中、消えかけた伝承が、人を通して、また建物に残された技工の声を通して、後世に受け継がれてゆく有り様に胸がじんわりと熱くなります。

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