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評価はどこから生まれる

「どうしたら昇給・昇進できるのか」
「もっと評価してほしい」
「評価されるために何をしたらいいのか」

そのために自分の立ち位置を把握したい。。。だから、会社はフェアな「評価の指標」をはっきりと提示すべきだし、働きやすい環境にするためにはそのような会社側の姿勢が重要だ、と主張する社員は多い。

この時期、相談を受けたり、聞き役になることがよくある。特に若手社員にとって、わたしは社外の人間だからきっと話しやすいのだろう。そんなときこんな質問を投げかけてみたりする。

「 ”評価って何か” 考えたことある?」

あたり前にあると思っている評価について、その正しい在り方などを問う前にそもそも評価はどこから発生していて、評価とは何者であるのか考察してみるところからはじめたい。


仕事の楽しみかた

この話にはずいぶん長い前置きが必要だ。みなさんにも少しこの物語に付き合ってほしい。

「君たちは今の仕事が楽しい?」

このように聞くと、やりがいがあるとか、将来の自分のためだとか、スキルアップのためにモチベーション高く取り組んでいるみたいなことを言う人はいる。けれど、明確に「楽しい」という言葉を発する人は少ないのではないだろうか。。。

「それ、もし仕事じゃなくなっても ”楽しみ” として続けたい?」

そう聞くと大抵黙り込んでしまうのだから、きっと「楽しい」ということとは違っていて、仕事そのものに楽しみを感じているというよりは、間接的に将来のためになるとか、効率よく稼ぎたいとか、生活が楽になるとか、未来の不安を解消する、といった具合なのかもしれない。きっと、この記事を読んでいる多くの人も同じではないかと想像しています。

仕事は本来楽しい

りなるのnoteではしょっちゅう言っていることだけれども、仕事というアクティビティは本来「楽しい」もの。わたしたちが社会のため、あるいは誰かのために一生懸命にしてあげたり何かを提供したりする、そのためにより効率よくうまく立ち回る工夫は、わたちたちの心を満たすだけでなく、より没頭し時間を忘れるほどの快楽を生み出す要素をもっている。そう、レジャーやゲームなんかより、よっぽど仕事はわたしたちに「楽しみ」をもたらしてくれるアクティビティなのだ。

仕事とは関連性のない『遊び』だけを楽しめて、人生で取り組む真剣な仕事を耐え難い重荷として耐えなくてはならない、と信じる理由はもはや存在しない。仕事と遊びの境界が人為的なものだと気づけば、問題の本質を掌握し、もっと生きがいのある人生の創造という難題に取り掛かれる。

ミハイ・チクセントミハイ

だとしたら、仕事を「生きがいのある楽しみ」から「耐え難い重荷」に変えてしまっているものの正体とは何だろう。

「いったいその原因は何だと思う?」

みなさんにもいっしょに考えてみてほしい。

耐え難い重荷を生むもの

より多くの報酬を与えることでモチベーションは上がってゆくものだと、わたしたちはどこかでずっと信じてる。年収400万の職場より、1000万の専門職の方が気持ちがアガるし、いい人材だって集まってくるよね。より多くの報酬を保証することで、従業員はより高度なスキルを身につけようとするし、より多くのインセンティブを与えるからこそ、頑張って目標を達成しようと努力する。すると、より効率が上がり、より良いアイデアが浮かび、仕事に対するクリエイティビティーも自ずと向上すると。

このような「アメとムチ」によるモチベーションコントロールによってわたしたちは仕事と折り合いをつけている。うまくすれば良い報酬がもらえる。逆に期待や需要に応えられなければ当然報酬はさがるし、希望する権限や地位も得られないだろう。そうすることで全員の意識付けを補正し、組織として統制を取ってきたのだ。大きな会社ほどそのための ”清廉な” 制度が必ず整備されている。

「仕事ってそういうものですよね?」

果たしてそれは本当に ”そういうもの” なのだろうか。むしろ、これは単なる信条にすぎない。そこに疑問を挟む余地がないほどに信じ込んでいるだけではないかとわたしは思っている。これはもう50年以上前に行われた実験や研究者によって指摘されていることだけれど、このような報酬や賞罰によってわたしたちのモチベーションは上がらないし、むしろわたしたちの持っている貴重なクリエイティビティの源泉は阻害され続ける。世の中のビジネスマンの4割は自分の仕事に楽しみを感じられてないし、2割は自分自身の仕事を世の中のためにならない、呆れるほどブルシットなどうでもいい行為だと自認している。この割合は今後もっと増え続けるだろう。これは、今にはじまったことじゃない。繰り返すけど、ずっと指摘されてきたこと。

報酬による ”清廉な” 制度などというものは存在しない。むしろ、そのような組織統制の手段は目先のエサに呼び寄せられるだけの安直な行為を助長する。

報酬は往々にして、奨励指標としている事柄の足をひっぱる役割を果たす。 …科学的には、飴と鞭は悪しき行為を助長し、依存を生み出し、長期的視点をないがしろにした短略的思考を促すおそれがある、とすでに証明されているからだ。

ダニエル・ピンク

お金がもらえるからこそ仕事をするのじゃないかと、反論したくなるかもしれない。でも、お金がもらえないことに、君たちはそれ以上に没頭しているじゃないか。お金がもらえないゲームに課金をし、お金のもらえないSNSにいいねボタンを連打する。1銭にもならないnoteの創作活動に何時間もかけて投稿している。そのモチベーションはどこからきているのか。その目的が報酬にすり替わったとき、それは不毛な労働に成り下がってしまう。

このアメとムチによる動機付け、報酬による統制こそ、「生きがいのある楽しみ」を「耐え難い重荷」に変えてしまうものの正体なんだ。

「お金をもらわずに仕事をしろってこと?そんなことできませんよ。」

君たちは決まってそう主張する。でも君たちはお金をもらうために人生の快楽に蓋をして、限りある「1日」という時間のほとんどを賃金労働などというものに費やしている。賃金労働は君の「仕事」に対する本質的な「楽しみ」から目を逸らす。それでも、より多くの報酬を得ることで、毎シーズン流行の移り変わるスカートを履き替え、自由なファッションを楽しんでいると言う。君の右手に握りしめている何万円もする板を3年に一度は買い替え、これこそが最新のテクノロジーだと興奮気味に語る。それだけではない。たいして家事をしない白物家電をそろえるのに何十万円も使い、都会に生活するためだけに何百万円ものお金を使い需要を生むことが、幸せで洗練された現代生活だと言う。

「自らの心の ”豊かさ” を捨てていないか?」

わたしは人生の価値を何に何時間使ったのかなどといった「時間割」で判定することを好まないのだけれど、もしそれが好みだと言うのなら限りある1日 = 24時間を具体的に何に費やしているのか。その時間配分はコストに見合っているのか、その内訳に目を凝らしてみたらいい。

アメかムチかを判定するしくみ

さぁ、それでは「評価」の話をしよう。

「評価とはどこから生まれているのか?」

君たちは通常企業に勤めていて「仕事」をしている。当然、その仕事には報酬があって、君たちの「頑張り」に応じてお金が支払われる。君が頑張ったのか期待にそわなかったのか、それを判定するのが評価だ。あたり前のようだけど、これはとても大事なこと。

本来、そのアクティビティを「楽しむ」ためだけなら、評価をされたいといった思考が割り込む余地なんてないはずだ。君が純粋に楽しむために評価など必要ないのだから。仕事に対して評価という言葉を用いるとき、君は仕事そのものから目を逸している。

言い換えれば、評価とは報酬をエサにして統制をとるための、「会社組織にとっての」スタビライザー安定装置なんだ。つまり報酬と評価は表裏と言っても良い。このことを明確に意識できる人は少ない。会社組織における評価とは報酬(お金)のことと言っても大きく間違ってないだろう。むしろ、そう理解したほうが現実を正しく見ることができるかもしれない。

「評価がされない」「もっとよく評価してほしい」そう主張する声をこの時期ほんとうによく耳にする。これは仕事に対するやりがいや不満にたいして正当な主張をぶつけているようにも聞こえるけれど、その真意は単に「もっとお金がほしい」という声だとも言える。

「”評価”という言葉を”お金”に換言してみてごらん。」

そのとき、君の心に何か変化は現れるだろうか。観察してみてほしい。君は仕事にやりがいを見出しているのか、それともその脇にある報酬を見ているのか。後者であった場合、君の仕事に対する「楽しみ」とはいったいなんだろう。

評価制度につながっていく

大きな組織になったり、従業員がより公平に働けるために、この評価の基準を明確にして、みんなにとって納得のいくルールを設けよう。評価をする側にとっても、評価される側にとっても、この指標さえあれば迷うこともないし「フェア」であると共有できるもの。これがつまり「評価制度」です。

「みんなが迷わず共通に認識できる指標がほしい。」

評価の先には必ず、「フェアな評価制度」の制定という話が持ち上がります。これはおそらく避けられない。遅かれ早かれ組織の規模が増大してくると、フェアネスという言葉が声高に叫ばれるようになる。

これはつまりお金による「アメとムチ」という統制方法を「しくみ化」しようという試みです。フェアネスという言葉がこれをオブラートに包み美化して見せる。。。上述したとおり、「評価」という言葉を「お金」に換言してみるとよい。評価制度とはお金の制度ということです。みんなが納得できるように、お金の配分方法をわかりやすく「しくみ化」しましょうと言っている。

君たちは、評価制度を制定しろ、評価指標を明確化しろと主張しているけれども、それは自らを「アメとムチ」というお金による動機付けのしくみに組み込まれようとしている主張と変わらない。評価を取り入れ、制度化することで、仕事はますます本質から目を逸らされていく。

そもそもフェアな評価なんてない

近年は多様性なんて言葉が流行っているけれど、その真意が正しく理解されていないようにわたしは思う。多様性というのは、いろんな人がいるよねということではなく、みんな違う、みんな「ユニーク」である、ということ。

つまり人間とはルールやしくみによって、グルーピングできるものではなく、「人それぞれ」でしかない。人が人を評価するなどということは本質的に不可能であるという前提に立たなくてはいけないんだ。ルール化・しくみ化というのは便宜的に人をそのような枠の中に分類して安心(あるいは手間を省いている)にすぎない。

だって、君の頑張りと、君の同僚の頑張りが「同じ」頑張りだとどうして言えるだろう?独身で全国を飛び回り毎日お客さんと飲み歩いて獲得した営業実績と、母子家庭で2人の子供を育てながら獲得した営業実績が同じ努力だとみなしてよいものだろうか。そして、それはフェアだろうか。

君の今期の売上はたまたま世の中の動向にフィットしただけかもしれない。君の今のポジションはたまたま配属された部署の引き立てがあったからだけかもしれない。ハーバード大学に入学した学生には長男の割合が圧倒的に多いのだそうだ。君が自負しているその努力ですら、長男として生まれた環境がもたらしたものかもしれないし、ただの遺伝かもしれない。

「多様(ユニーク)な個を評価するとはどういうことだろう?」

努力や成果によって評価する、この行為自体が、現代社会における未だに解決できていない「差別」かもしれない。マイケル・サンデル教授はこう言います。実力があるからこそその努力に報いるために優遇されて当然だという考えこそが現代社会に残る見えない差別であり不条理な不平等を正当化する偏見なのだと。

制度化すると人は安心する

ほんのちょっぴりだけ、思想の話をしよう。興味がなければ読み飛ばしてくれてかまわない。

19世紀からカール・マルクスはこんな風に君たちが賃金労働によって労働の本質から引き剥がされてしまうことを「疎外」と呼んで警笛をならしていました。そうなんです。これは、今になって突然主張されるようになったことでもなく、もう150年以上前からずっと指摘され、危惧されてきたことです。

わたしたちは人生におけるやりがいや生きがい、豊かな「仕事」という活動から報酬によるしくみによって「疎外」され続けてきている。更に、それをフェアネスという言葉で制度化してきた。人はルール化をすることで安心するものです。みんなが別々に評価され独断で報酬が支払われていると思うとそこには不公平があるのではないかと不安になりますが、全員が同じルールに則って評価されると信じることで安心できる。そのようにして、わたしたちはみんなでこの「同じ色をした枠」の中に入って、結局お金というしくみに「画一化」されています。

マックス・ウェーバーはこの枠のことを「鉄の檻」と呼びました。そして、わたしたちは結局この檻の中に安住し、依存するようになるのだと。そのようにして心を失い主体性を手放してしまうことを「没人格化」すると表現したのです。宮台教授はこれを現代風に翻訳して、人が劣化するとか、クズ化するのだと表現しています。

「君たちは自らを劣化させ、豊かさを享受するための心を失ってないか?」

さて、ここまでの話で、評価や評価制度に対し、いま君たちは何を見出すのだろう。現代の企業や起業家は従業員のモチベーションの向上だとか、フェアネスだとか、成熟した組織のありかたなどと雄大に語りながらも、実のところこの100年以上の長きにわたる本質的な課題から脱却することができていない。そして、君たちも同じく、その100年以上もの間に組み上げられてきた檻のなかに安住しているつもりになってないか。

チャレンジングな事例紹介

さて、事例紹介として、わたしが関わったいくつかの企業で、この課題にチャレンジしようとしている組織の話をしようと思う。

君たちの何人かもこの企業の出身だけれど、このような視点をもって改めて自らの組織を見つめ直すきっかけとしてほしい。

現実問題として、仕事から報酬を完全に分離することはできないだろう。けれども、一般的に企業内で評価と言われているものの意味を再考察し、報酬という意識から仕事をできるだけ分離し、やりがいや豊かな時間を演出する工夫をしている企業はいくつもある。

株) グリーンテック(仮名)

この企業は前にもnoteで言及したことがあるけれど、このテック企業には「評価制度」が存在していない。従業員を評価すること自体を諦めた企業がある。純粋にシステム開発を楽しむことだけが重要だと考え、成果をあげようがあげまいが評価に影響しない。自分の技能が向上すれば、人によって1週間かかる仕事が2日で終わったりもする。それがインセンティブになる。やることさえやれば、余った時間に遊んでいようが副業しようが叱られたりしない。好きなときに思う存分働けばよい。

具体的には給料が全員一律になっている。給料を一律にできるからこそ、評価制度を必要としないのだ。これは他の業態では応用できないかもしれない。従業員がみんなエンジニアという「同じ職種」の人間で統一されているからこそできる環境だ。

この会社には組織体制というものも薄い。組織体制とは会社の利益構造をもとにした枠が先にあって、その「枠」に従業員を当て込む作業だ。この会社ではこのような利益構造を軸にした考えを持たない。だから、従業員の保有スキルだったり、やりたいこと、ひとりひとりの「顔」が先にあって、それぞれが心地よい相互扶助の関係性がグルーピングされたものが組織体制になっている。

株) ブルーリテール(仮名)

この企業はグリーンテックと違い小売なので様々な職種の従業員が存在している。だから、給料を一律化するといった荒業は使えない。その代わりこの企業の評価制度には達成目標といったものが一切存在しない。四半期ごとに行われる従業員の面談シートには、来季までに達成しなければならない数値目標や期限などといった一般的に必須と言われている評価指標がどこにも書かれていない。

それは、なぜか。達成目標といったものは、単にその時のビジネスの運でしかないということを知っているからだ。そして達成目標があると、従業員はその目標のために仕事の本質から目を逸してしまうことを承知しているからだ。

全ての従業員は会社になんらかの貢献をしている。だから、従業員と共有したいのは評価ではなくむしろ感謝なのだ。この企業ではあえて「評価」という言葉を使わない。これをカリブレーションと呼んで自分たちが進むべき方向性についての意識合わせをしているのだとおっしゃっていた。

これは取引先に対しても同様で、実績を分析するために数値はどの企業よりも多く活用するけれども、それを従業員だけでなく取引先との契約の評価には使わない。

株) マリーンセール(仮名)

この企業は全国に店舗をもっていてより物理的なサービスを展開している企業だ。人と人の距離が近く、家族のような温かみを大切にしている。仕事の成果よりお互いのありがとうを助長し、お互いを助け合うような仕組みを模索している。

例えば、ありがとうシステムといってお互いの感謝を数値化するシステムを社内で構築している。評価制度とは別に稼働するこのシステムによって、お互いのありがとうを蓄積しようという意識がとても強く働いている。

ブルーリテール社と同様、さまざまな職種の従業員がいるので給料には差があるけれど、なんとこの会社では全ての従業員の給料を完全公開している。これによって、返って従業員は隠された評価によるフェアネスに意識を奪われることなく、納得感をもって仕事に没頭できている。

チャレンジにみるこれから

このようなチャレンジングな好例には影も見える。その影こそが、君たちがいまわたしに主張している、「評価指標を明確化してほしい」「評価制度をより厳格にしくみ化してほしい」という主張そのものだということに気づいてほしい。

グリーンテック社は近年業績が伸びている。そのためエンジニア以外に人材の登用が増えた。マーケッターが参加し、営業が参加し、総務や経理が加わった。そしてより質の高い人材を育成しようということで新卒採用が始まった。すると、どうしてもこれまでのように、報酬を一律化することが難しくなってくる。それと同時に評価指標が欲しいという声が一気に高まっている。

マリーンセール社でも同じようなことが起きている。報酬以外の場で、ありがとうが表現できるしくみとして用いられたものを少しでも還元したいという思いから、システムを報酬に紐づけた途端、自分のありがとうポイントが何ポイントあって、次のステージに達するのに来季までに何ポイント必要なのかという問い合わせが人事部に多く寄せられるようになった。ありがとうをもらいやすい部署とそうでない部署がフェアに扱われるように、ポイントが報酬に紐付けられる計算ロジックがより厳密に管理され公開されるようになった。そうやって、ありがとうシステムは一方でみるみる金券化しつつある。

「 評価はどこから生まれているのか?」

冒頭の質問に対する答えが、今なら少し見えるようになってきただろうか。仕事を報酬という麻薬から分離するためには、わたしたち自身が常に自分を観察し続けなければいけない。さもなければ、簡単に目先の「灰色の枠」に押し戻されてしまう。その方が安心だと思ってしまう。でもね、その感性こそが劣化を招いているんだ。仕事を無機質でくだらないものに変えてしまう。そのことをぜひ覚えておいてほしい。

りなる



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この記事をネタにnoteを書いていただきました。過去記事や他の記事からの引用をしつつ仕事の本質について考察していただいています。こうやって同じトピックを共有できたり、これをきっかけに各々のnoteに持ち帰って、考察を深めていただけるのがなによりうれしい!!


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