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これまでのあらすじ - りなるのnote

ここのnoteを読んだことのない友人に何を話そうかと考えています。

みなさん記事をしっかり読んでくれたり、過去記事からの流れをくんでくれたりするので、noteだとついつい自分の意見が簡単に伝わると勘違いしてしまいそうになるのですが、実際に同じようなトピックを前提なしに話そうとするとあまりの伝わらなさに苦労しますよね。。。みなさんもそんな経験をされたことがあるのじゃないかと思います。

わたし自身の頭の整理を含めて、そのまま記事にしてみようと思っています。

仕事は楽しくないのか

わたしたちの生活を賃金からどう引き剥がしていけるのだろう、といったことをずいぶん前から考えています。「単に労働をしたくないだけ」だろ、といった怠惰と誤解されてしまうこともあります。でも、決してそうではありません。そもそも、労働の本質は「生きがい」になりえるとわたしは思っています。

労働は本来やりがいがあって、楽しめさえするものだからです。

初期のnoteで真っ先に書いたのも「仕事は楽しいもの」という主張でした。もし本当に、仕事がやりがいに満ちているものになりえるのであれば、これほどもったいない社会的損失はない!世の中に溢れている不毛な習慣はいったいどこからくるのだろう?

働かざる者食うべからず

労働の本質から目をそらさせてしまうのは、「報酬と罰」によって人を管理するしくみだとわたしは思っています。生きていくためには働かなければならないという言葉が、生きていくためには稼がなければならない、という言葉に置き換わってしまっている不自然さに友人もまた気づくことができるでしょうか?

生きていくためには働かなければならない、というのは本来それほどネガティブな言葉ではありません。わたしたちがより楽に安全に暮らすためには、各々が自分のできる範囲でコミュニティーに協力をするのがよいのです。他者を害さず、他者から奪わず、虚偽を語らず、お互いに献身的であることが、健全で安心な拠り所を生むのです。それも行き過ぎると、みなさんが嫌がる村社会的な圧力にもなりますが、本来心地よい「場」はそのような努力によって生まれます。

ところが、生きていくためには稼がなければならない、となると話は変わってきます。稼ぎがなければ文字通り生きていけないし、生きる価値がないとすらみなされてしまう。すると、世の中をより良い場にしようという目的が個々の生存競争にすり替わってしまう。更に、利益という概念を仲介させることで、取引の「向こう側」にある行為がベールにつつまれ、他者を害し、奪い、虚偽を働くことに無関心になるのです。

縁の切れ目

不本意な仕事を担ぎ、体を壊すほど酷使されてなお、辞めるという選択ができずない人は多い。仕事を辞めてしまったら生きていけない。若いうちはスキルアップが必須。そんな不安に駆られると、望まない環境から足を洗うことができなくなります。自分の生活は給与によって保証され、その代わりに対価として労働が課せられていると強引にも感じてしまう。

奴隷のように働く若者を前に、辞める権利はみんなに与えられているし、職業選択の自由だってある、みたいなことを言う高学歴の人もいます。でも、お金というのは負債を保証するものです。ですから、仕事をはじめ、お金にまつわる取引には、負債を返済するための対価が課されるのです。借りたものは何が何でも返済しなければならない、妄信的とも言える強引な「縛り」を生むのです。

そして、このような「縛り」に、人間関係が移行してしまうと、その縛りが効いている間はつながりは(ある意味強引に)維持されますが、これが開放された瞬間にわたしたちの関係もきれいに解消されます。人間関係というのは「お互い様」の恩義によって永続するものですが、お金というのはこの関係性を良くも悪くも「精算」してしまうものです。

友人関係や親子関係といった永続する関係というのは、どんなことがあってもなかなか縁が切れることはありません。ところが、お金の関係というのはここでいう負債の「縛り」がなくなった瞬間に解消されます。金づるがなくなったらから関係性が終わるのではなく、お金の借貸がゼロになった切れ目が、縁の切れ目ということです

こういった人間関係の結びつきを「市場」と「恩義/贈与」の関係でnoteでも語ったことがあります。このnoteは、わたしが予想した以上に反応があり、引用もしていただき驚いたのを思いだしています。数年前までは、このような話をしてもまともに取り合ってもらえなかったのですが、そこに気づく人がどんどん増えてきたように実感しているトピックです。

自分を取り巻く人間関係はどのような結びつきをもっていますか?人間関係すら「市場」から調達していないですか?後腐れがないからと、友人関係すらもお金でのつながりに移行しようとしていませんか?取り返しがつかなくなる前に、現実の生活の中で友達を作り育み、地域のつながりをもつように努力するのがよいということをまさに地元の友人にわかってもらいたいのです。

人間の活動が軸にある

具体的にどのような解決策があるのだろう。わたしたち一般の労働者が賃金労働から完全に開放されることは、現時点ではほぼ不可能でしょう。

すると、労働者から、資産運用や投資家のようにお金を活用する側にシフトせよ!と叫ぶ人がたくさんいますが、これはわたしのポリシーに反します。お金というのは、本来「人間の活動」に対して活用されるべきものだと思うからです。お金自体に良いとか悪いとかがあるのではなく、「お金が動く」ことによって、どのように「人が動く」のかが最も重要なのです。わたしたちが豊かな人生を謳歌するためには、「人間としての活動」があるはずです。お金はその活動を助長するためにあるべきです。お金はただの数字ですので、社会でより豊かな活動が増えるように増やせばよいし、逆にそうでないのであれば制限すればよい。そのように正しく理解されれば、わたしたちはある程度社会の枠組みを設計することもできるでしょう。

すると、お金でお金を生む行為は、まったく本質的ではありません。そこに連動する人間の活動がないからです。と、わたしは個人的に思っています。

わたしたちの人生を豊かにする営みや活動はなんなのか?それを増やすためには、何かが過剰で、一方で何かが足りていないのか。こういった人や物の動きをお金によって可視化するのではなく、「人間の活動」を軸に考察する習慣ができたらいいなと考えています。

成功とは何か?お金が増えることが成功なのではなく、豊かな人間活動が増えることが成功ではないでしょうか?

雇用から距離を置くステップ

具体的に、雇用関係から距離を置くことは、今現在どこまで可能だろうか?ということをしばしば考えます。わたしが泥沼の職場環境から抜け出せなかった日々を思い出す時、なぜすんなり諦めることができなかったのだろう?その一つの理由は、会社に依存しすぎてしまっていたということではないかと思うのです。この会社を辞めてしまったら、明日からどうやって生きていけばわからない。。。人間はまだ見ぬ恐怖やリスクに弱いですから、未知の不安よりも既知の不幸を選択してしまいがちです。自分の置かれている環境が不遇であるほどに、その傾向は強く働きます。

(余談)そこでわたしが真っ先に考えたのは農業でした。食べるものさえあれば、少なくとも生きるという最低限のリスクからは解放され、それが賃金労働に対する依存度を薄めることになるのではないかと思ったからです。その考えは今でも間違いではないと思っているのですが、ちょっと安直に考えすぎなところがあり、うまくいきませんでした。。。はじめは自給自足だ!と、一足飛びに農家さんに農業体験に行ったり、地主さんに土地をかりて友達と農園を作ってみたりしたのですが、単に農作物を扱うという技術的な問題だけでなく、都市部における土地や法律、種、重機、燃料、肥料、農薬などなど、、、そもそも慣行農法(現代における一般的な農作物の栽培方法)って、自然物というよりは市場で製造されたプロダクトだと思ったほうがいい。お金がかかるんです。。。自給以前の問題に逆戻りしまして、まぁ、そんなに簡単じゃないですよね(当たり前)。。。

もっと一般的なサラリーマンが低いリスクで段階的に関われることはないだろうか、と考えるようになりました。そこでわたしが次に考えたのは、賃金労働を完全になくすことはできなくても、少なくとも1つの組織に依存するリスクは回避することができるのではないかということです。

現在わたしは4社ほどと薄く契約をしています。所属する組織を分散することで、仮に1つの案件の雲行きが怪しくなったり(例えばいきなりクビになったとしても)とりあえず残りの数社で生存ができる、雇用のリスクを分散することで、自前でセーフティーネットを構築できるではないか。これが正解だとは思っていませんが、、、雇用という活動から意識を人間的な活動に向けるためのステップとして有効ではないかと考えています。

雇用する側にとっても、これから人材が枯渇すると言われる中で、このように人材を分散して広く活躍できる場を作るメリットは大きいのじゃないか、と思います。特にエンジニアのような高単価の社員を分散して小さく雇用できるメリットは企業側にもエンジニア側にも大きく働くはずです。

ただ、現段階ではフリーランスとして活動するしか、このような働き方を支援する手立てがないのも現状です。自由な働き方といって、フリーランスがもてはやされてもいますが、注意も必要です。これはどこか、非正規雇用がもてはやされた派遣社員のときと似ています。自由な働き方だといって正社員であることを辞め、その数年後に派遣切りといって企業の都合で大量に解雇されたでしょう。近い将来に、フリーランス切りが起こるのは必定でしょう。非課税事業者を切り捨てようとするインボイス制度なども、似たようなものかもしれません。利益追求がベースにある以上、このようなリスクは常について回ります。

現在わたし自身がいろいろな働き方を試しているなかで見つけたさまざまな問題と課題をもっとリアルの友達や同僚とも話し合いたいものです。

最高益を追求「しない」

ゆるく組織と繋がりを持ちながら、自分の稼働を分散するようになると、同時に自分自身で働き方や稼働時間を調整できるようにもなります。価格設定をはじめ、実際には休日や平日の区別も自分のさじ加減になるので、どのくらいの量をどれほどの深さで関わるのか決めなければなりません。

この時、何を基準に考えるかがとても重要です。多くの個人事業主の話を聞いていると、いかに効率よく収入を得るか、収入を最高益にするためにはどういった価格帯にすればよいか、といったことを考える人がとても多い。もちろん、昨今は金額(年収)の高低によって人の価値を決めてしまうところがあるので、年収400万より、800万のほうがよいし、更に1200万のほうがより価値の高い人材だということになります。そういう固定観念に縛られています。そうです。これは固定観念なのです。

年収の最高額をベースに議論をはじめてしまうと、わたしたちはいつまでたっても、収益レースから逃れることはできません。あなたの持ちうる余裕はすべて ”マネタイズ収益化” のための原資になってしまいます。

最も重要なことは、わたしたちの生活にとって、最低限の必要はいくらか、という洞察に基づく分析です。これは自分のことですけども、なかなか明らかにならないものです。生活水準というものは、万人に共通なものではなくて、社会には際限のないいくつもの階層レイヤーが存在しています。人は望む限りいくらでも欲を生み、不足を持ち続けてしまう。自分はどのポジションにいるのが心地よく、また満足を感じることができるのか?自分に対する問いかけでもあります。

わたしたちの心の豊かさを感じられる暮らしはどこに位置しているのだろう?そのために、わたしはどれだけ必要なのだろう?これがわかってくると、あなたの生活に実はどれほどの余裕があるのかがわかるようになります。週休3日でも暮らしていけるのか、週休4日でもいけるのか。毎年夏に長期休暇を取れるのか。それでも、毎年変わる流行りを追いかけ、ブランドで着飾るために休日すらも返上するのがよいかというのなら、その嗜好によって、今の会社に居続けるという選択肢をとっても良いと思います。

生まれた時間を何に使う

最も大事なのは、手に入れた時間を何に使うかということ。上述のように、自身の生活をより深く洞察することで、固定観念から離れ、自分にどれだけの余裕が生まれえるのかを知ることができるようになると思います。

その新たに生まれた時間を、人生を豊かにする活動に使えばいいのです。稼ぐスキルを身につけることが成長ではなく、余裕のある稼ぎが豊かな人生を彩るわけでもありません。人の成長とはなにか、人生の豊かさとは何かを洞察する時間こそが、人生における意義ではないでしょうか。

ところが、実際のところ時間を何に使えばいいかを明確に把握している人は少ないかもしれません。退職して突然膨大な時間ができたとたん何をしていいかわからない昭和世代のサラリーマンをよく見かけます。わたしたちが暮らしている社会では、おおよそすべてのことはその行動の結果によって評価されています。何かを実行し、何かの行動し、賃金労働の対価として(生きていくために)、結果を伴う行動を「しなければならない」という縛りのなかで生きてきたのです。

豊かな生活とはなんだろう?人生の価値、人間性、心の美しさ、愛情の深さ、心地の良い空間、心温まる絆など、こういった安らぎは何からもたらされるのだろう?このような感性は必ずしも決められた行動の結果による対価として得られるわけではありません。生き様をかたどる美徳であったり、憎しみや恐れを癒やす智慧であったり、または「しなければならない」ことを「しない」という行為の中にみいだされるものです。

多くの人は会社にいかず望まない労働をしなくなればハッピーになると信じているかもしれませんが、それは大きな間違いです。

自身の人生をより豊かにするために、必要なものはなんだろう?そこを考察しはじめることは今すぐにでも始められると思うのです。

りなる



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