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快楽に生きよ

快楽に生きる。エピクロスの話を聞いていて最近ぼんやり思うところを記事にしてみたくなった。エピクロスは古代ギリシャの哲学者で、快楽主義者として知られている。快楽こそが善であり人生の目的だと主張する。その主張は欲望にあふれる現代に住むわたしたちにこそすんなりと響くかもしれない。

欲望を3つに分類する

そうはいっても尽きない欲をただ追い続けろというのではもちろんない。エピクロスは快楽をもたらす欲望を満たすことを是としつつも、その欲望を正しく観よと言う。欲望には3つの種類があって(人間として①自然で必要な欲求、②自然ではあるけど不必要な欲求、③自然でも必要でもない欲求)快楽を善く味わうためにはただ欲に溺れるのではなく、わたしたちが生物として自然で必須の欲求①を見極めることで、その他の必要以上の欲求②③に振り回されることによる不安や恐怖から自由でありなさいと説いているのだ。

そうすることで生まれる「平静な心」こそがわたしたちの求めるもの。これを「アタラクシア希: Ἀταραξία、英: Ataraxia」と呼んでとても重んじた。

成功を追求しても平穏は保証されない

さて、いまわたしたちが置かれている環境から見ていこう。「誰でも成功者になれる」と世間は言う。「成果主義」というフェアなルールに則って、誰もが「頑張りに応じて報われる」。みんなにその価値と権利があるのだと主張する。そうして、きらびやかな世界の成功者を常に連想させられる。ただ一方でそれは裏を返すなら自分の有能さを示すことができなければ先がないということでもある。昨今は追い立てられるように「自助努力」「自己責任」が求められるようになった。成果主義と自己責任というのは表裏のセットなのだ。ほんの一握りの成功者に対して、大半の凡夫にとって能力主義の先にあるのは不安定な自己責任による孤立なのだ。誰でも成功者になって自由を謳歌できるという世界観は反面、わたしたちの平穏アタラクシアを奪っている。

わたしたちはあらゆる欲望に自由であるようでいて、あらゆる欲望を手にしようと奮闘することで生活の平穏が奪われている。

いくら「欲しい」か?の問いに答えられるヒト

就職・転職活動をするとき、面接の終盤にちょっと声のトーンを落とした面接官にこんな質問をされるのがお決まりだ。「ぶっちゃけ年収はどのくらいを希望してますか?」

わたしも採用面接に立ち会ったことが幾度かあるけれど、そんなとき待ってましたと言わんばかりに「ボーナス込みで600万くらいを希望します。」などとみんなスラリと答える。業界の平均であったり自分のこれまでの業績やスキルを加味して事前に算出しているのだろう。ここでわたしはふと不思議な感覚を覚える。自分の能力がわかっていて、自分の価値を値踏みしながら自ら希望年収が算出できる能力はすばらしいけれど、これは一方で奇妙でもある。

自分がいかほどのもので、相性もわからない組織に対してどれほどの貢献ができるかなどむしろ未知数なのが当然だし、そうでなかったとしても自分が評価されたらその評価分お金はくれればいいのだから、いくらほしいかの上限など「もらえるだけ」というほうがむしろ的を得ているのではないか。

いくら「必要」か?の問いに答えられないヒト

すると「いくら欲しいか?」よりも、「いくら必要か?」のほうが本来よほど「確定的・確定可能」だということにならないだろうか。あなたが生活するのに最低限必要な金額はいくらで、満足のいく豊かな生活をするのにはどれだけ余剰があるべきなのか。そしてそれは当然、自分の能力や業界の通例から決まるものではなく、家族構成、扶養家族、自分の趣味趣向、所属している組織や地域などによって様々に異なるはずだ。

ところが「いくら欲しいか?」という問いにはみな決まって同じような額面をスラリと答えるのに、「いくら必要か?」という、より個別具体的な答えに重きを置いている人はあまりいない。飲みの会話でもただ給料を上げたいなんて話はそこら中で耳にするけど、給料を下限にあわせて適正に下げたいなどという話はまず聞かない。そもそも自分の下限がどのくらいなのか正確にわかっている人などいるのだろうか。

つまりエピクロスの言う欲望の洞察が何一つできていないのではないか。快楽を享受せよと世間は言うけれども、味わうべき快楽の質を観ない。毎日CMや広告に欲望を垂れ流されるがままに生活している。その反対に自分が「欲しい年収はいくら?」という本来答え「られない」はずの問いに答えることで、あなたは自らを惨めな世間の枠組みにはめ込んでいる。すると、先程の「面接官の質問」は果たしてどれだけの社会的価値があるのだろう。むしろ害悪とすら思えるのだ。

際限ない快楽への欲求をかきたてる一方で、暗黙的に制限をもった世間の枠に自らを陥れるなど狂気ではないか。現代の生活はどこまでも他人本位で、怖いほどに盲目的だ。

必要から生活を再設計する

お金の話をしようと思っていたわけではないのだけど、ようするに欲しい年収によって人生の設計をすると、あなたは世間の枠組みの中で苦しむことになる。現代社会はわたしたち凡夫にとって「豊かな暮らし」を満喫しようという遥か以前に、「能力の限り労働せよ!」そして「可能な限り消費せよ!」と駆り立てられ続けているのだから。

だからこそ「自然で必要な欲求」から生活を構築せよ!とのエピクロスの主張はいまの時代にも響くものがある。自分だけの必要・必須ではなく、より広く地産地消で地元グループで相互扶助のコミュニティーを築けるのなら、求められる必要・必須は更に変わってくる。後述するけれども、必要・必須から生活を再設計することでむしろ8時間労働という呪縛からも逃れられるのではないか。

豊かな生活の足場

わたし自身が実験的にやってみている働き方を少し紹介しようと思う。コロナの蔓延するちょっと前にフリーランスとして働き始めたこともあり、以前から思考していたちょっと変わった働き方をしてみている。

いまの社会で自分の必要・必須な下限を見極めるというのは実はとても勇気がいるし不安が伴う。社会が不安定で自己責任論が蔓延するいま、お金はあったに越したことはないからだ。そんな中、コロナによってわたしの年収は半ば強制的に半減した。これはいま思えばよいキッカケだった。お金のために働く仕事は5割以下に減った。その代わり、割は良くなくても好きな組織に奉仕するのが2割くらい、全くお金にならないけど楽しい仕事(そうなるとただのボランティアw)を1割くらい。余った時間はnoteだったり、いままで自分のために使えなかった勉強の時間や趣味の時間、家族や友人とともに過ごす時間に当てたりした。

するとだんだん自分にとっての必要な収入がどのくらいなのかが肌感覚としてわかってくる。あ、このくらいの収入でこのくらいの生活ができるのかとか、逆にもうちょっと余裕をもった暮らしがしたいなど、体感としてイメージが湧いてくる。いままでどれだけ過剰なものに自己を犠牲にしてきたかを知れば、より有意義な生活を取り戻すことができるかもしれない。

変わってみえる日常

下限から生活を再設計することで変わってみえるのは、まず「平日は5日」という感覚が薄くなったこと。当たり前だけど1週間は7日ある。そのうち好きなときに仕事をすればよい。土日や休日に仕事をするという言葉が適さないのであれば、活動と言い換えてもいい。最低限必要な活動と余剰として選択している活動が明確になることで、コントロールできる生活の幅が感覚的にどんどん増してくる。

結果的に(副業ではなく)「複業」という働き方を選択したことにより、別の意味で生活に安定感を与えてくれる。ひとつの仕事に固執することなく、もしこれがダメでもこっちで食いつなぐことができる。お金にならない実験的な仕事も複業のひとつとして取り入れられればチャレンジに対するリスクも小さくできる。

1日8時間という感覚も薄くなった。これは全員には当てはまらないかもしれないけれど、在宅勤務が増えたことで8時間労働が5,6時間労働くらいに感じられる。朝オフィスに行く準備をする必要もないし通勤時間もない、気がのらないときは音楽聴きながらダラダラと2時間仕事をして(その代わり1時間分の仕事をしたと正直に申告している)もいい。土日も仕事に当てられるなら平日5日間にこだわらず、7日間を均等に早朝から午前中だけ仕事をしたっていい。日中がまるまる自由時間になる感覚はきっと驚くほど生活に自由を与えてくれる。

際限なく上限を求める限り、わたしたちは8時間という労働基準の範囲内で「働けるだけめいっぱい働く」しかないし、更にスキルアップして同じ時間でもらえる「時給額を更新し続ける」しかない。これを成長だと勘違いしている労働者は多い。でも、自分の必要な欲求がどれほどだとわかり、それに必要な労働が明確になってくると、それ以上稼ぐための活動が「自分に何をもたらすのか」の明確な理由が必要になる。そうならざるをえない。すると、限られた時間割のなかで何をするのか?それによって自分の生活がまったく違う色彩を帯びてくる。

成長とは同じ時間でより多くのお金を稼げるようになることではなく、同じ時間でより豊かな時間を過ごせるスキルや環境を得ることだとわたしは思う。

課題も残る

ただ世の中がまだ1つの企業に属するという慣習から抜け出せていないので、このような細切れな関わり方は疎外感を感じるし、みんなと一緒に仕事をしている感はどうしても薄れてしまう。コミュニティーを強くして相互に頼り合えるつながりを増やしていくというわたし自身の理想からも離れてしまっている面も否定できない。

それだけじゃない。6人に1人が貧困化しているなんていわれている日本で、そもそも必要最低限のお金を稼ぐこと自体がままならないという人も大勢いるだろうと予想している。必要・必須から生活をしろというのは、決して貧しくあれとか、貧しい生活に満足せよというものではないのだけれど、日本の現実をみるとむしろ貧しさを賛美するものになってしまいかねない。

多くの課題は残ったままだ。

アーリーリタイアという考え

少し話が逸れる。FIRE(Financial Independence, Retire Early「経済的自立」と「早期リタイア」)とかアーリーリタイアなんて言葉が流行っているけれど、わたしはあまりこの考えには賛同しない。早期退職するためにとっとと稼いで、ゲームから早々に「イチ抜け」しちゃおうっていう意味合いをとても強く感じる。しかし、人生における生活の意義や「やりがい」というものは地域への貢献だったり、その関わりからこそ感じられるのだとわたしは思う。そういった充足は仕事からこそもたらされる可能性がとても高い。わたしを含め多くの人が仕事が不毛だと感じるのは、仕事の中身ではなく、むしろ仕事の在り方の問題なのだ。この話は以前にもなんどか触れているのでここでは深堀りしない。

自分の興味のない仕事だろうと、一緒に働いている人が好きであったり、関わった人たちの笑顔であったり、そこからもたらされる感謝や感情によって、大きなやりがいを感じる活動はこれまでにもたくさんあったのではないだろうか。自分のやりたいこととか、自分の好きなことだけに拘る人がいるのはいいのだけれど、やりがいは自分の好きなことと全く関係ないところにも転がっている。

こういった環境と出会うにはたくさんの機会が必要だし、みつかったとしてもやりがいを感じるほどに関係性が熟成されるのには更に時間がかかる。そこにたどり着くには長い目で物事をみる冷静さと、複業的にリスクを回避できる足場が必要ではないか、いまはそんな風にわたしは思う。

心に生じるさざ波を観察する

現代社会では上をみればいくらでも贅沢はできるし、あらゆる快楽にあふれている(ようにみえる)。しかし、それは非常に過酷な格差社会の中のほんの一握りの人だけが刹那的に見る夢なのだ。自分がほんとうは何を嗜好しているのかすらわからなくなってしまうと、あらゆる不確定な欲求を満たすためにできることは、ありったけのお金を効率よく稼ぐことだとしか考えられなくなってしまう。

禁欲的に生きろとか、稼ぐことを諦めろと言っているわけではない。その快楽に生きるいまだからこそ、その快楽が自分の心や身体にどのような影響をもたらしているのかをより深く知っておくことは重要だ。快いことをやってみると同時に、その後の24時間から36時間のあいだ自分の心にどのようなさざ波が起こるのかを注意深く観察してみることをおすすめする。欲求を満たすことで得られる興奮や快楽には、至福をもたらすものもあれば、持続しないものもあるし、むしろ不安をもたらすものもある。その中で後からじんわりと充足という形で心の中に現れる平穏がある。これがアタラクシアだ。

わたしの周りの卓越した成功者をみていると彼らには生活の中に「軸」を持っている人が多いように思う。欲求を満たすことに躊躇せず果敢にチャレンジする。と同時にその欲望が自分にとってどのくらい持続可能であるのかをよく心得ている。もちろん莫大なお金によってアタラクシアを実現できる人もいるかもしれない(それはエピクロスの示唆したものとは違うかもしれないが)。欲望の種類とその影響はわたしたちの能力や環境、それぞれの身体的な条件によっても様々に異なってくる。答えはみんな違っている。だからこそ、わたしたちひとりひとりが己を内省する感性が重要なのだ。

アタラクシアに生きる

最後に、このような生活を通して気づいたことがある。なんの才能も持たない人にも、運に恵まれない人にも、財力のない人にとっても、最もシンプルで簡単なアタラクシアの実現方法がひとつある。それは自分の「軸」に愛情を注ぐことだ。同時に愛情を注いでもらっていると実感できることだ。それこそがコストがかからず持続可能な源泉だ。多くの人にとってもっとも簡単でシンプルなアタラクシアは、好きな人、好きだと思える人がたくさんいること。そしてそのつながりのなかでの自分の肯定なのだ。それは帰属するコミュニティや社会のつながりの中でこそ発現する。

わたしたちの心の豊かさを彩るものはなんだろう。自助努力、格差、自己責任が蔓延し心を病む人が絶えない中、わたしたちが求めているものはシンプルに「心の平穏」なのではないのだろうか。その心の平穏をもたらす生活や環境を自ら創造できることが現代に生きるわたしたちにとっての本当の豊かさなのだとわたしは思う。

りなる



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