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「人間活動」で考える習慣

この記事は3回ほど書き直しているのですが、どうも想いが絡み合っていて何を起点に話を展開すればよいものか悩んでおります(笑)わかりにくい表現があるところはどうぞご容赦くださいませ。過去記事などを引用することで補足できればいいなと思いながら書いています。

さて、わたしたちの人生を豊かにするものはいったいなんだろうというテーマで今回はノートを書き進めたいと思います。

ワークとライフ

ワークライフバランスなんて言葉をよく耳にします。わたしも仕事とプライベートの両立に苦労したことがあるのでワークライフバランスを声高に叫んでいたひとりであります。自分のための時間と労働に割く時間をしっかりと分離して、人生における生活のバランスをとるようにしましょうということです。一見とてもすばらしい理想に見えます。

ワークライフバランスの記事などを読むと、ワークとライフの一方を選択するといったことではなく、それらを両立することによって得られる「相乗効果」のことだと説明されています。ただ、最近の働き方や選択肢の多様化を見ていると、相乗効果以前に本来わたしたちの活動ってワークとライフのように単純化できるものなのだろうか、と疑問が湧いてきます。

ワークとライフを分離するという思想は、どこか消費と生産の分類に似ています。労働によって稼ぎ(生産する)、その労をねぎらうように自己投資をしたりご褒美といって稼いだお金を好きなことに使う(消費する)自由が与えられる。そもそもわたしたち人間の活動をワークとライフ、労働と余暇、生産と消費、なんでもいいんですけども、このような二分化した構造に置き換える背景には、稼いで使う、生活のために労働がある、よい暮らしには相応の労働が必要である、といった「生産」と「消費」のわかりやすいモデルがその背景に染み付いているように思うのです。

労働とは

でも、ここでわたしはふと思うのです。労働を過酷な必要悪と考える一般的なサラリーマンがいる一方で、近年さまざまな働き方を選ぶ人、一風変わった会社運営をする経営者、遊ぶように働く人々がいます。彼らにとって仕事は対価を得るための労働なのだろうか。

逆に賃金労働だけが労働なのだろうか?ボランティア活動は労働とは何が違うのだろうか?自分の興味のある仕事に無償で奉仕することは労働ではないのだろうか?趣味に没頭する時間は労働といったい何が違うのだろう?

科学的な見地から見ると、わたしたちの身の回りの活動を「仕事」と「レジャー」とに分ける明確な線引など実は存在しないのだそうです。なんとなく(ほんとになんとなく)、稼ぐための活動とそれ以外とをわたしたちは暗黙に受け入れているんです。

「仕事」とは関連性のない「遊び」だけを楽しめて、人生で取り組む真剣な仕事を耐え難い重荷として受け入れなくてはならない、と信じる理由はもはや存在しない。仕事と遊びの境界が人為的なものだと気づけば、問題の本質を掌握し、もっと生きがいのある人生の創造という難題に取りかかれる。

「フローについて」ミハイ・チクセントミハイ

人間活動とは

では、人生を豊かにする活動とはいったいなんだろう?

ショッピング、旅行、レジャー、自己啓発、恋人と甘い時間を過ごすこと、我が子と同じ時間を共有すること、かもしれない。友達と会って談笑したり、趣味に没頭する時間かもしれない。それこそ仕事かもしれない。わたしがしばしばノートに書く「しない・をする」こと、何もせずに自然に身を委ねる選択かもしれない。みなさんの人生に起こったさまざまな活動やイベントを思い起こしてみてください。

人生には望む望まないに関わらず、さまざまな活動があります。それはワークでもライフでもない、またはそのどちらでもあったりする活動の集合体です。それをうまく表現する言葉がなかったので、ここでは「人間活動」と呼ぶことにします。

人生とはそれがなんであれ、「人間活動」の積み重ねによって育まれていく体験の集合体です。わたしはそのように考えています。

人間活動を軸に据える

さて、そのように考えると人生を豊かにする要素というのは、この「人間活動」の機会を最大化することではないかと思うのです。もちろん、個人が「あぁ、豊かな人生だった」と思うか思わないかはその人次第なので、わたしがとやかく言うことではありません。ここで指摘したいのは、みんなの暮らす「社会のあり方」として大切なのは、この「人間活動の機会を損なわない」ということではないかということです。

話が抽象的になってきたので、もう少し具体的な事例を上げてみたいと思います。「ワーク」vs「ライフ」の分類から離れて、「人間活動」という軸でわたしたちの生活を眺めてみたとき、あれ?これ本来何がしたかったんだっけ?というものって意外とあります。

・年収を最大化する

例えば、年収を最大化するという考え方。ほぼ世界的にどこにいっても、就職するときに自分の能力を最大限活かせて、年収を最大化することがよしとされています。お金はあったに越したことはないかもしれません。でも、共働きの家族であったり、両親と同居していたり、持ち家があったり、子沢山であったり、人によって生活のスタイルはまちまちです。それでも、みんなが「自分の能力に見合った年収」を希望するのです。

これはなんだかおかしな話です。年300万円しか必要のない人がやりたくもない仕事をするために800万じゃ少ない、年収1000万はほしい、もっと給料上げろと主張します。「自分の生活にあった年収」を得ることよりも金額の最大化が目的になっているようです。この行為は本当に人間活動を最大化しているのだろうか?と考えると疑問です。(いま日本は30年近く続く異常なデフレ下にあり、生活がままならない人が多くいるので年収を選べる状況にある人が少なく語りにくいトピックではありますが。)

・8時間労働

就業時間には仕事以外のことはやっちゃいけないし、やるべきことすべてやり終わっていても8時間の拘束時間中には仕事らしきことをやり続けなければいけません。そうやって、やらなくていい仕事が増えブルシットなタスクが増えていきます。本質的な目的はどこにあるのだろうと考えるなら、1時間でこなせる仕事を3時間(それこそ映画をみながら)ダラダラとこなしたって、お友達とカフェで過ごしながら合間時間に仕事をしたって構わない。ダラダラ仕事をしようが、集中しようが品質が担保されれば成果物に違いはないのですから。8時間労働の制約はわたしたちの「人間活動」を物理的に分断し多くの制約を生んでいると思いませんか?

お金は人間活動を増大するか

そして避けて通れないのが、お金の話かもしれません。お金がなければ結局やりたいことはできないし、ほしいものも手に入れることができません。だから一生懸命労働をして稼がなければいけない。そうやって多くの労働力が集まって社会は大きく発展してきました。お金を稼ぐために労働が不可欠だというストーリーはとてもわかりやすく社会を動かす大きな原動力になっていることは間違いないでしょう。

しかし、これは現代貨幣理論(MMT)などで近年指摘されるようになってきたことですが「お金は稼ぐことで増えて、使ったら減る」という考えはなんだかおかしい。わたしが使ったお金はだれかの収入になって、誰かの使ったお金は巡り巡ってわたしの収入になるわけですから、無駄遣いしようが社会全体でみたらお金はどれだけ使っても減りはしません。その矛盾に気がつくと、そもそも財源っていう発想自体が奇妙に思えてきます。現代のお金というのは大雑把にいえば、個々の保有量が重要なのではなく、社会全体の流通量が大事なのです。流通量が適切でないとわたしたちの活動が制限されるということです。

お金はたくさんあれば欲しい物が何でも手に入る!なんてことのためにあるわけではなく、本来わたしたちの「人間活動」をより活発にし、柔軟にうながすために存在している潤滑油みないなものです。世の中に十分なお金があれば活動は活発になるし、そうでなければ活動は抑制されていきます。

すると、みんなが好きに生活できるようにどんどんお金をばらまけばいい、という話に行き着くことも多い。それもデフレ下の日本では、ある意味正しいと思いますが、一方でばらまいた先の世界もまたよく見えてこない。現代のわたしたちの生活はむしろお金によって不自由が増え、お金のために自由な時間が消えていくあべこべな構造になっているように見えます。結局、お金から生まれる原動力をどのように活かしたいかの「ストーリー」が描けていないないんです。だからお金が潤沢にあってもわたしたちの生活はおそらく大きくは変わらないでしょう。

ストーリーが描けない社会人

このストーリーを描けない理由は、わたしたちが「ワーク」と「ライフ」、「生産」と「消費」を発展させるという観念から離れられないからだとわたしは思っています。

わたしたちの人生を豊かにするためにとっても大切なことはそのような二分化された「経済活動」ではなく「人間活動」です。物が少なく社会に物が行き渡らなかった時代は、経済活動 ≒ 人間活動という理解でも大きな齟齬はなかったかもしれません。でも、いまは違います。物であふれるようになった現代社会では、経済活動の発展が人間活動を抑制していると実感をもってみなさんも感じているのではないでしょうか。

社会人になってから、かつての旧友と過ごす時間はどれだけ増えただろうか。自分で使えるお金の自由は増えたけれども、それに伴いやりたかったことが実現できているんだろうか。社会人になって自分の好きな趣味に割く時間は増えたのか。家族と過ごす時間は充実しているのだろうか。

潤沢なお金があって経済発展が促されたとしても、結局そのストーリーが描けない限り、これから先もずっと、わたしたちの生活は生産と消費のサイクルの中に消失してしまうのではないでしょうか。

人間活動を最大化する

人間活動を最大化するものってなんだろう?もっと単純に考えたらよいと思うんです。友人とたくさんの時間を過ごすためには何が必要だろう?会社の同僚とワクワクする事業を展開するには何が足りないのだろう?家族や恋人、愛娘といっしょに過ごすためには何が必要だろう?

ここは多くの人が間違い続けている常識だと思うのですが、経済発展が重要なのではありません。経済発展は人間活動がより増大する限りにおいて必要なのであって、それそのものが目的ではないはずです。お金もそうです。経済を回すためにお金を市場に投入するべきなのではなく、人間活動の最大化につながることにお金を投入すべきなんです。みんなが家族と有意義な時間を過ごすためだというのであれば経済発展を促せばよい。ただ、逆に環境破壊、大気汚染、異常気象により持続不可能な社会が実現するくらいなら経済発展とは違った道を選択する時期なのかもしれません。人間活動の増大につながらないことが明らかだからです。視点を変えると答えはとてもシンプルなものになります。そこには経済発展をするかしないかの二択の問題ではなく、わたしたちがどのように「人間活動を最大化する準備」をするかという本質の議論がなくてはなりません。

少し具体的な話をするなら、人間活動を最大化する根源的な機会のひとつって、わたしは人と会うことだと思うんです。だとするなら、誰かと会うために公共の交通機関などは全て無料にしたっていいわけです。子育て世帯が孤立化し母親がウツになるような話をよく聞きます。これも子育てを生みの親だけが自助努力によって責任を負う必要もありません。より包括的に地域や社会で育てるための育ての親や施設にお金を使ってもいいと思います。逆に、経済活動は盛んになるけれども人間活動に貢献しない投機などにこそ課税すべきだと思います。人間活動に視点が変われば商品開発も変わってくるでしょう。商品やサービスの拡充にしろ毎年似たようなバージョンアップをするために競い合って膨大な時間をその生産に割く必要もないし、それを購入するために労働に明け暮れる必要もありません。スマホのレンズが1つから3つになって通信回線が4Gから5Gになってわたしたちのライフスタイルは変わったかもしれない。でも人間活動という視点でみたらどうだろう。返って活動そのものが減少し続けていないだろうか。わたしたちがいまの生活を不毛だと感じる大きな理由は物質的に満たされないからではなく、その活動に本質がないからだと思うのです。

大切なのは財源はどこにあるんだ?などという論争ではなくって、人間活動を抑制しないために必要な潤沢さだけなのです。どう使うべきなのか?あるいは使わないべきなのか?すべてはその社会に生きるわたしたちが描くストーリー次第です。そのための軸をワークとライフといった経済活動の二分化におくのではなく「人間活動」においたとき、見えてくる社会の形はまるで違うものになるのではないでしょうか。

りなる




今回、なかなかテーマがまとまらなかったので、久しぶりにマインドマップで整理しました。前回載せたマインドマップが好評だったのでまた乗っけておきます。ツールは miro のMind Mapテンプレートを使っています。

元になったマインドマップ


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