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「共感」の先へ

最近、テレビやニュースを見ていて、よく行き詰まりを感じるのが「共感」というワード。24時間テレビなどを見ていても「やりすぎ」だとか、他人の不幸を「マーケティング利用」しているなど、批判すらみられるようになってきました。確かに、他人の不幸で儲けようなんて!って気持ちはよくわかります。それでも、「共感」には相互理解の可能性があるのだし、それで社会が好転するならよいではないかという意見も理解できる。むしろ、他人に共感できるほどの想像力をもった人たちが、単純な賛否にいちいち目くじら立てていること、その理由のほうが気になるのです。

ひょっとすると理由はもっと別のところにあって、「共感」を助長するこれらの番組に嫌気を感じるのには、もっと込み入った事情があるのではないかとわたしは思いはじめています。

「共感」は疲弊する

そんな折、こんな言葉が目に止まりハッとしました。

「共感」は人を疲弊させる。

共感とは、他人の環境や立場を理解し共に同じ心持ちを感じとるということです。不幸な境遇をみて、その同じ痛みを感じる。同じ悲しみを味わうということ。共感とは痛みを分かち合う、痛み分けの儀式です。つまり、共感する側にとっても痛みを伴うのです。

共感に痛みが伴うのなら、世の中に無限に存在する不条理や悲しみに寄り添う限り、あなたはあなた自身の心をすり減らし続けなければなりません。これは果たしてわたしたちにとってより持続的な行為だと言えるのだろうか?

「共感」は悪を憎む

共感は他者との友愛を生むと言われる。同じ苦しみや悲しみを共有することで、そこに共通の理解が生まれるからです。しかし、一方でその痛みの矛先に更に別の対象がいる場合や、そこに怒りや憎しみが伴う場合、ときとして、わたしたちはその怒りに共鳴することで、同じように怒り、同じように誰かを憎むことになってしまいます。どちらか一方に共感することで、他方を陥れることにもなるのです。さて、どうやら「共感」は平和への万能薬ではないようです。

わたしたちは世界を相対的な極でしか認識することができません。白単色で色は表せない。わたしの存在のみでわたしを認識することはできません。陰のみで陰を認識することもできません。あらゆる現象は振り子のように相対が存在し、その振り幅にコトバを与えるのです。それが幾重にも折り重なった複雑な意味の構造体が我々が生きる人の世界です。

これは裏を返せば、平和というコトバのみで平和という概念を作り出すことはできない、ということです。平和というコトバには戦争という相対があってはじめて生まれる。もし、ほんとうに世界から戦争というワードを消し去りたいのであれば、それは「ヒロシマを忘れない」だとか、「あの日の苦しみを後世に伝え続けなければならない」といった「共感」を誘うことではない、とわたしはぼんやりと思うのです。

「共感」はコトバを増強します。

戦争というコトバをほんとうに世の中からなくしたいと願うのであれば、それは平和とか戦争といった振り子のどちらかの極に偏るのでなく、戦争でも平和でもそのどちらでもない、何も「ない」日常のなかに起こる。振り子の動きに無頓着であること、あるいは振り子の支点へ至る道こそがその先にある風景だと思うのです。

その先の道へ

誰かを理解しようと務めるとき、必ずしも共感によって同じ思いを共有する必要はありません。それはあなたの心そのものにも痛みを伴います。そしてその痛みはそこにある意味を増強する。世界はときとして残酷かもしれません。しかし、だからといってあなたがそれを一緒に背負う必要などないのです。世界はときに残酷であり愛に溢れてもいます。それらはわれわれの意識のなかで起こっている認識のゆらぎです。振り子が揺れている、そのゆらぎによってあるように見える「現象」です。

不幸な誰かを目の前にしたとき、むしろ彼らが笑う顔を想像しよう。彼らと共に歩んでいる今を想像しよう。それは憎しみだとか、悲しみだとか、愛すらもない、日常のなかに沸き起こる「場」ではないかとわたしは思うのです。

りなる



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