見出し画像

組織づくりの未来図

普段エンジニアとしてお仕事している(つもり)なのですが、最近はIT導入という名目で組織改革が絡んだり、IT統制という名目で体制づくりに手をだしたりと、専門ではないけども、組織づくりに関わることが多くなってきました。世の中には、ほんとにたくさんの異なる企業があって面白い。企業がまちまちなら、そこで働いている従業員もまちまちです。それぞれにあった環境を整えるには、またそれぞれ異なる構造化が必要になるのは当然ですが、そんな中でも、組織づくりにはある程度の共通点みたいなものがあるように思っています。

これが答え!と言った明確なものがわたしのなかで確立されているわけではないので、noteに残してよいものか迷っているのですが、、、そこは、よしなに読んでくださいw

最後まで書き終わってから、序文を追記しています。思ったよりだいぶ長文になってしまいました。。。記事は分割せずこのまま掲載しますので、何日間かに分けて、適宜また戻ってきて、ゆっくり読んでくださいませ。


組織を何で判断するか

1. 人数の規模

組織づくりにおいて、わたしが最初に注目するのは、その人数です。人間には(または、人間関係には)認識できる規模に限界があって、人の輪がそれ以上になると、無意識的に人を顔の見えないマス(グループのかたまり)で判断するようになっていきます。仲間をひとりひとりの「個」として認識できるのは、おおよそ100人程度の規模までだと感じています。敏腕リーダーがいたとして、強引にまとめ上げられたとしてもせいぜい130人くらいが限度じゃないかと。確実なことは言えませんが、経験上だいたいどの組織も80人くらいで「あれ?」と違和感を感じ始め、100人を超えてくると目に見えて機能不全を感じるようになるのではないかと思います。

強力なリーダーがいて、ガっとまとめ上げてしまうような組織でも、家族のような雰囲気で和気あいあいとした組織でも、それが全体に行き渡って「場」をみんなで共有できるのは100人程度までです。それ以上になると「統制」が必要になります

2. 報酬と評価

統制っていうのは何かって言うと、簡単に言えば「ルール」であったり、あるいは「しくみ化」です。IT統制とか、人事評価制度とか、、、具体的にはそういうことになってくるのですが、突き詰めるとつまりは「評価」と「報酬」の明文化というところに行き着くように思います。

わたしたちは「報酬」のために仕事をしているわけですから、何によって自分が「評価」され、それがどのように他者と比べて "フェア" に給与に反映されるのかといったことが明確にされなければならなくなるでしょう。これは、ひとりひとりの「個」が見えなくなるからこそ必要になるのです。個がみえなくなるから「しくみ化」が必要になります

ちょっと話がそれますが、この人数の壁を越えようとしたときに、わたしたちは「お金」によって仕事をさせられている・させているのだという事実を突きつけられることになります。ちょっと考えればわかることかもしれませんが、マス化された人間関係に対して、"フェア" なしくみなどというものはそもそも現実不可能です。ですから、企業組織の摩擦のほとんどはこの現実不可能なしくみで "フェアネス" を実現しようとするギャップから生まれています。

3. 能力の同質性

組織というのは面白いもので、人材や能力には偏りが生まれるものです。昨今では多様性だとか、個性だとかいったことが盛んに叫ばれるようになり、そこに注力する人も多いのではないかと思います。ところが、意識的に自分が所属している組織に偏りがあるということを知覚している人は少ないように思います。

これは学校をイメージするとわかりやすいかもしれません。小学校というのはその地区に住む子供が機械的に集められるので、「多様」な友達がいたはずです。頭のいい子・わるい子、運動のできる子・苦手な子、がさつな子、上品な子、内気な子、強気な子。。。様々な子がいたはずです。地域性による違いはあるにせよ、これが本来の人間社会の有り様です。一方で、高校や大学になるとそこには受験があって、入るために人為的な選別がされるようになります。すると、能力が似通った人どうしの集まりになるわけです。そこに居心地のよさを感じることもあれば、肌に合わないといった異質感を味わった人もいるでしょう。いずれにせよ、これは多様性という観点とは反対の「偏り」の傾向です。

この観点で企業組織を見ると、おおよその企業には多少なりとも偏りがあるということが意識できるかと思います。Google社員は多様な人材雇用を推奨してるといったところで、やっぱり優秀な人材という点で偏りがある。それが良いとか悪いと言っているわけではなく、戦略的に人材の偏りを意識できるかが重要だということです。

たとえば、職種によってもこれは変わります。全国に店舗を持っている小売業では、お店の棚卸しをするような作業員から、店長、エリア長、本部のマーケッター、などなど雇用する人材には必然的に「多様な幅」が生まれます。一方で、SEやITベンダーなどでは、基本的にはエンジニアという「単一の能力」をもった人材に偏りがちです。

当たり前のことを言っているようですが、、、先程の組織統制の話と絡めるとどうでしょう?例えば、これは実際にあるIT企業の話ですが、その企業では従業員に対する統制を意識的に諦めました。その代わりに報酬を全従業員(ほぼ)一定にするという割り切りをしています。この企業には評価制度がありません。これによって"フェアネス"を考慮する必要がなくなるわけです。非常に賢い組織統制のハックだとわたしは思いました。ただ、これは逆に言えば、IT企業のように組織内に偏りがあって「同じような人材しかいない」場合にしか適用できません。小売業のように、棚卸しをする作業員と、組織全体を統制するマーケッターが同居する環境で、同じ条件で雇用すると言うのは(それが理想だとわたしは密かに思うところもありますが)現代社会では現実的ではありません。

つまり、戦略的に人材の偏りを許容することで組織統制から開放されたり、統制を一部緩和することで、より均一的で働きやすい環境を構築することができるようになります。逆に多様性を受け入れる場合には、そこには実現困難な"フェアネス"の壁が立ちはだかります

似たもの同士、好きな人同士で集まって仕事をしたらいいじゃん、というのは、つまりはこの同質性を戦略的に許容する、ということになります。

わたしは決して人材の偏りが良いと言っているわけではありません。むしろコミュニティはひとりひとりの顔が見える範囲で多様な個性で構成されるのが望ましい(≒自然だ)と思っています。人材の偏りはいつか必ず排他的な傾向を帯びるからです。一方で、多様性を受け入れるには「報酬」と「評価」によるフェアネスとは何かを、ゼロから再考するところから始めなければならない長い道のりだということです。世の中の多くが、同質性をより好むのは、その方が短期的には効果が出やすく、手間が少なく見えるからです。

4. リーダーの素養

最近はリーダー論が人気ですが、良い組織には強力なリーダーが必要だと言う主張はちょっと違うように思います。天才的なカリスマリーダーは、どこか永続性がありません。それでも人数が小規模で、自分に賛同してくれるメンバーのみであれば、当面はうまく行きます。市場での戦略がことごとくハマり、業績は右肩上がりで上がっていきます。そこで安定すればよいのですが、これがまた企業経営のサガというか、どんな企業も成功するほどに成長をしたがるものです。規模が大きくなって組織が多様化した時に、上述したとおり100人の壁に突き当たります。チームは多かれ少なかれ分断します。この時に問われるのがむしろ人間力です。

どんなに天才的なリーダーも、手助けしたいと思わせる「何か」がなければ人はついてきません。組織構成って結局は相互の人間関係によって成り立つのですから、ビジネスの才のみでなく、仲間が何を考え何を感じているのかを洞察できる力が大切です。人数が少ないときは目配せでなんとかなるのです。選り好みもできます。でも、それは長くは続きません。

近年わたしが関わった企業でも、短期的な視点で見れば天才的なカリスマリーダーが業績を伸ばすケースは少なくありません。しかし、規模が大きくなったときに、従業員がどこまで能動的に機能する組織を作れるかは、また別の領域です。リーダーこそ社会的な人間であるべきではないかというのがわたしの考えです。そういった意味では、リーダーや経営者というのはある程度の社会人経験を持っているべきではないかという気がします。サラリーマンが「お金」による報酬で働いているという常識が覆らない以上、お金によって働くということがどういう意味を持つのか、その肌感を持っているのかいないのかは、これからの先の見えない将来において決定的な違いを生むように思うのです。

既得権益を持った層が社会からいなくなれば、若い経営者やリーダーによって、社会は必然的に変わると主張する人がいます。しかし、既得権益層がいなくなるだけで、まったくの社会人経験がないリーダーがいきなり現れて、社会を変えるなんてことがありえるのだろうか?わたしはそこに少し疑問を持っています。社会を変革するにしても維持するにしても、そこで働く従業員がどういう生活を送っていて、何にリスペクトを感じて、何に嫌悪感を抱いているのか?社会人経験のない経営者と話しているとこの点において平行線をたどります。

残念なことに、人間力とここで表現したものは、人事評価やビジネススキルなとで表現できない「何か」です。データで定量的に物事を判断するだけでは、取りこぼされてしまうものです。そして、裏を返せば、今みなさんの多くが感じている企業に対する不平や不満こそ未来の素養としてきっと大きな意味を持つのではないかと思うのです。

組織のあり方を観察する

さて、このような軸で考えると、組織の在り方が傾向として見て取れるようになると思います。

100人を超えない小さな集団に所属している場合には、各々が自律的に問題解決できるので、組織としての統制を意識することは少ないでしょう。この集団が大きくなったときに、組織づくりに意識的になります。

ただ、組織全体が数百人の規模であっても、数千人の規模であっても、全員が同一のチームとして機能することはなくって、たいてい実務的な観点では、その内実は100人に満たない集団(いわゆる「現場」)によって動いていることには変わりありません。この「現場」を組織の一部として制御しようと考えるのであれば、統制を厳しくする必要がでてきます。評価と報酬が「厳密に管理」され、少なくとも大多数に納得の行く形で明文化されなければならないでしょう。逆に「現場」に大きな裁量をもたせ、自由度を高めようとするのであれば、統制をゆるくすればよいのです。そのためには報酬あるいは評価のいずれかに「割り切り」が必要になるかもしれません。

余談ですが、年功序列っていうのも評価に対する割り切りです。評価を年齢にリンクさせることで報酬を決定していたわけですから、この割り切りによってフェアネスのギャップを埋めたのだと思います。20世紀末の組織運営を想像するに年功序列って、戦略的によく考えられていたのじゃないかと、今更ながらに思います。

それぞれ責任者という形でリーダーが各所に配置され、どのような方針で、どのような主義のリーダーを配置するのかによって、「現場」の在り方が決まってくると言ってよいと思います。

少し、具体的な事例を元にこの軸をイメージしてみたいと思います。

大企業病を考える

ブラックな大企業であったとしても、部分的に「良い事業部門」というのは存在しえます。よい事業部長がいて、ある程度の裁量がその部門に任されていて、その部門長が壁役になって部下を保護し、小さな独立した組織を形成できるような場合です。

ただ、、、現在30年にも及ぶ不景気が絶賛継続中の日本において、予算が厳しく管理されることはあっても、自由に裁量がまかされるようなケースは稀です。っていうか、たぶん皆無です。ですから、そういったリーダーは配置されないし、そのような事業部は費用対効果が合わないといった理由の元、どんどん潰されているのが現状ではないかと思います。新たな産業を興すなんておとぎ話でしか聞かなくなりましたよね。これは大部分は政治の問題だと思うので、企業ばかりを責めるのは酷かもしれませんが、、、。近年どこの会社に行っても、大手になればなるほど、やっていることはみな気持ちが悪いほど同じことの繰り返しです。業務効率化による粗利増(ITに丸投げするだけなので、たいていうまくいかない)と、値引き施策による売上増(販促はポイントかクーポンなど、値引き施策の表面を変えているだけ)。これしかありません。

いわゆる大企業病というのは、特に日本では不景気などの外的要因も含め、このリーダーの配置による「現場主導」が効かなくなった硬直状態のことを言いうのだと思います。

天才は組織づくりに必須か?

このような大企業病に疲れてしまうと、どうしてもスタートアップなどによる天才経営者の出現を待ち望みたくなる気持ちはわたしにも理解できます。ジョブスのようにたった一人の天才が業界の全てに革命をもたらすこともあるでしょうけれども、組織づくりの観点から言えば非常に稀なケースだとわたしは思います。

高いビジネススキルを持った天才が組織をコントロールできるのは、上述のとおり100人規模の小さな集団までです。それよりも事業を大きくしようとした時には必ず壁に突き当たります。組織の規模によって、リーダーである自分だけでなく、メンバーの役割そのものが劇的に変わるものです。自律的な「機転」から、組織的な「連携」に仕事の仕方が変わるからです。これまで超優秀だと思っていた機転の効く従業員がまったく機能しなくなったり、同じことをやっているのに、うまく連携しなくなる臨界点は必ずやってきます。

その壁を乗り越えてなお、よい組織を維持している経営者は、やはりどこか社会人経験が豊富で、従業員の心理をよく理解しています。ビジネスを動かすために従業員の心をどう掴むのか、ビジネス以前に組織内で人間関係をどう構築するかなど、ビジネスそのものよりも、そのしくみ化に没頭している経営者が多い。あるいはそれをサポートするように従業員と橋渡ししてくれる「右腕」の存在があるように思います。100人を超える規模では、天才カリスマの「鶴の声」は次第に通らなくなっていきます。必ず「しくみ化」が必要になるのです。

さて、大企業と天才というキーワードを元にこれらの軸をどのように捕えるのか、事例を交えて語ってみましたが、なんとなくイメージが湧いてきたでしょうか?

* 小休止 *

組織の「これから」を考える

ここからが本題です。組織の「これから」を考える前に、今の組織がどのような絡みで構成されているのか、わたし自身の言葉で語らせてもらいました。前置きが長くなってしまいました。(いつものことかw)

わたしは個人的に、今はまさに時代の過渡期、あるいは過渡期前夜みたいな感じで考えていて、これから先どこかのタイミングで今のトレンドといったものは刷新されるのだろうなと思っています。

そのキーワードは「お金」だと、わたし自身は思っています。今後わたしたちが組織に関わる動機を「お金」としたままとするのか、それ以外のものを動機として設計するかによって、組織の「これから」は大きく様相が変わってくるのではないでしょうか。

ライフ・ワークバランスという21世紀のトレンド

現代社会において、わたしたちが企業という組織に関わる第一の、そして多くの人にとって唯一の動機は「報酬」です。わたしたちは生活をするために、生きるために、お金が必要で、その入手方法は一般的な多くの人にとって企業から労働の対価として得ることだと思います。シンプルに、なぜ働くのか?って、お金をもらうためですよね?

さて、この先の未来もわたしたちが企業と関わる動機が「報酬」のままでありつづける、、、「お金を稼がないと」生きていけない社会でありつづける、と考えるなら。

ライフ・ワークバランスという方向に行かざるを得ないでしょう。このトレンドはむしろ必然だと思います。人間は自由を欲するものですが、上述の通り組織というのは、ある程度の規模になると「統制」が必要になるものです。ですから、わたしたち人間がその統制から自由になろうとするのは自然な流れだと思います。統制(ワーク)と、開放(ライフ)を適切に分離して、できるだけライフに割く時間を確保しましょうというのが、もっとも簡単でシンプルな解決方法です。

ただ、みなさんもたぶん気づいていると思いますが、これは単なる小手先の解決手段でしかありません。なぜなら、自由とは無条件に自由でなければならないからです。「毎日5時間だけ鎖につながれに戻ってきなさい、でもそれ以外は自由にしていいよ」という条件付き自由が本当の自由だと言えるでしょうか?

家族のような組織

最近は、会社に子供を連れてきたり、リビングのようなオフィスでくつろぎながら仕事をしたり、「仲間」とか「家族」のようなつながりを意識した組織が特にスタートアップなどに増えています。これはつまり、ライフ・ワークバランスのように統制と開放を無理に分離するのではなく、統制そのものをなくそうという試みだとわたしは感じています。

では、統制そのものをなくすためには、組織づくりの観点から何が必要でしょう。上述の章を読んでいただいたみなさんにはもう分かると思いますが、一つは、人数の規模を小さく絞ることです。もう一つは、組織の同質性を担保することです。これにより、統制はゆるくなります。同じような仲間とつるむ、仲の良い人達だけを選別して組織を作ってみんなで楽しく仕事をしようというのは、まさにこの流れです。

ですから、今後は手の届く範囲で、気の合う仲間を選別しながら、「仲良し」組織といったものが、トレンドとして流行ってくるだろうと思います。ライフとワークを分離するよりも抜本的な解決策のように思います。これにより、統制そのものを克服し、ライフとワークの境界がうすれ融合していく生活が実現できればよいのです。

ただ、恐らくそうはなりません。

同質性を保つというのは、つまりは集団のもつ偏りを許容するということです。これは遅かれ早かれ排他的で時に残酷な制約を新たに生みだすことになるのではないかとわたしは思っています。仲間だったのに、結婚したとたんに人が変わってw 合わない人が現れたらどうなるでしょう?また、居心地が良くなればなるほど、新規メンバーの加入の敷居もどんどん高くなるでしょう。選別が厳しくなるのです。そうやって厳しい制約が生まれるのです。

それだけではありません。より重要なのは「つながり」の強さです。例えば、事業内容が変わって、まったくスキルが活かせなくなった仲間がいたらどうなるでしょう?「君はもう仲間/家族なんだから、毎日座っているだけいい。給料も今まで通り払うから!」なんてことが言えるでしょうか。

言えないですよね。家族のような組織、友達のような組織というのは、あくまで「ような」関係なんです。企業組織における「つながり」の本質はやっぱり「報酬」だからです。報酬に対して適切な成果を提供できないのなら、その組織にいる意味はありません。

家族や友達というのは、いつまでもそこにいていい関係性ですよね。切ったり貼ったりを一方的にコントロールできるものではありません。そこを混同してはいけないと思います。

小さな組織

もちろん家族や友達も排他的な色を帯びる点では、組織と変わらない面もあるかもしれません。人間は同質を好み、見えないモノを排除したがります。人間社会から未知を排斥しようとする行為を完全になくすことは不可能かもしれません。ただ、それを最小限に留める努力はできるとわたしは思います。

そのひとつの手段が、ひとつひとつの集団やコミュニティーの規模を小さくすることです。状況が複雑になると、どうしてもわたしたちはわかりやすく例外を排して、慣れ親しんだパターンによって状況を制御したくなります。これは裏を返せば、社会が複雑になりすぎたために起こるのです。組織でも同じです。わたしたちは100人を超える人の顔を同時に見ることができないのです。小さな集団の中で、ひとりひとりの顔が見えるようになると、そこには排他的な行為が及びにくくなります

日本人が嫌いだ!と言ったとき、具体的な個人の顔が浮かんでいるでしょうか?日本人の友達ができたとき。具体的な顔を思い浮かべて、日本人が嫌いだといえる人はそういないんです。日本人という言葉には実体がなく、単なる便宜上のカテゴライズです。日本人ひとりひとりを把握することができない複雑系を単純化するためのテクニックでしかありません。ひとりひとりの顔がみえれば差別や排他は生まれにくくなるものなのです。

ただ、現代社会において、企業というのは成長を促されます。永続する組織であるほどに、発展がもたらされなければなりません。小さな組織に留まることは現代のトレンドからは逆行する動きであって、とても難易度の高いことなのかもしれません。

永続する組織とは何か。持続可能な組織とは何か。この問いに対する現代社会の回答は「資本力」だとわたしは思います。どんなに有益な組織であっても、お金を生む資本が続かなければそれは永続しません。逆説的ですが、お金が続くために成長が促されるし、成長すれば組織は大きくせざるを得ない。大きくなれば組織は複雑化し、例外を排斥する動きが強まったり、そこに属する従業員の統制が必要になる。そして再び自由が奪われるループもまた永続するのです。

贈与からつながりを考える

すると、結局わたしはいつも最後に「お金」とは何か?という行き止まりに突き当たります。仕事は「お金」によって回るものなのか?つながりは「報酬」によって強化されるのか?いずれも、議論の中心には常に「お金」がついてまわります

先ほど「報酬」には、もうひとつのトレンドとして、同質性を受け入れることで戦略的に統制から逃れようとした好例をあげました。家族のような組織です。同じような人を集めて、報酬をある程度一律にしてしまう。あなたは誰からも値踏みされることなく、評価を同一性のなかに薄めてしまおうという試みです。これによってわたしたちは「報酬」と「評価」から自由になることができます。このような企業をみてわたしは正直目からウロコでした。なかなかに策士ですね。

ところが、上述した通り、この戦略にも穴はあります。果たしてあなたが使い物にならなくなったときに、企業はそれでもあなたを救ってくれるのか?家族というのは何があってもそうそうつながりが切れるものではありません。友達もそうです。使い物にならなくなったとしても、ずっとそこにいていい関係です。「家族」と「家族みたいな従業員」との違いはそこにあります。

では、ずっとそこにいていい関係というのは何から生まれるのか?その答えは「贈与経済」というキーワードにあります。永続する関係性というものには、必ず何かをしてもらったという恩義が常に存在します。こないだミカンをもらった、宿題を手伝ってもらった、荷物を持ってもらった、なんでもいいんです。人は対価なしに「贈与」してもらった恩に対して恩返しをしなければならないと思ってしまう動物なのです。恩返しをしてもらうと、今度はまた恩返しの恩返しをせずにはいられない。恩を着せられたままでは気持ちが悪い。そうやって贈与交換が続いていく。この気持ち悪さ(=不等価の関係)こそがつながりを永続させるのです。お金の関係というのはまったく逆です。この不等価の関係を精算するためのしくみがお金です。ですから、お金による取引というのは常に等価の関係です。人間は等価関係によってスッキリした瞬間、縁が切れるのです。

すると、人のつながりの強さとは何から来るのか。ずっと関係を保ったままでよいよと言ってもらえる関係は何から来るのか。それは、お金によってきれいに精算された関係ではありません。常に持ちつ持たれつ、恩を送り合う面倒くさい関係のほうなんです。その恩があるからこそ、そこに自分はずっといてもいいと感じるし、いてもいいと心から言ってあげられる。

未来の組織

さて、ずいぶんと長く語ってしまいました。まだまだ、語り足りないことはたくさんあります。職とお金は不可分なのか、贈与とお金は共存できるのか、小さな組織と大きな産業はどう共存するのか、などなど、、、ただ、ここから先は組織づくりの問題ではなく、より大きな社会構造の話になるので、今日はここまでで止めておきたいと思います。

その未来は5年後にくるのかもしれないし、50年後にくるのかもしれないけれど、わたしたちが今抱えている組織の問題は何に起因していて、それを解消するためにはどんな壁があるのか、わたしがここ数年、フリーランスとしていくつかの企業を訪問していて漠然と湧いてきたパターンであったり、共通のイメージが、少しでも伝わったらと思います。

組織というのは、わたしたち人間がより効率的に、そして安定して共存できるように構成されるのです。それは機械的なものではなくって、わたしたち生身の人間が絡むとても有機的なものです。ですから、そこには必然的に制約があって、そのうちの何かを活かそうとすれば、もう一方が崩れたりもします。ですから、その釣り合いをしっかり理解しながら、わたしたちがこの先の未来で、どのような生活を求めるのか、人生において何を優先するのかによって、また組織の在り方というのは自ずと決まってくるように思うのです。

りなる



あわせて読みたい

グローバル企業で活躍されている世界の普通からさんにて、グローバルな独自の観点からりなるのnoteを解説していただきました!世界各地に住むすべてのnoterさんたちと日本にいながらにしてフィードバックをもらったり、つながりを深めたりできる心強い気持ちになります。

組織づくりの未来図は、私たち一人ひとりの思いにかかっています。

世界の普通から


この記事が参加している募集

仕事について話そう

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?