りなる氏の記事にコメントしたら 3000字になった
りなるさんの記事に白目をむいたのはこれで何度目だろう。
☝の記事は 10,000字超えの大作ですが、一気に・しかしじっくりと、精読してほしい。
「組織」について語りつつも、射程はその範囲を越えて「経済論」、さらに「社会論」になっています。
原文の順に沿って要点を抜粋しながら、コメントを加えたくなりました。
まったくそのとおり。
私は、大中小様々な会社を audit した経験から、成長企業が従業員数の壁に突き当たっておかしくなってしまう例をいくつも見てきました。
創業者のワンマン・カリスマ性で成長してきた企業が、従業員数 100人、さらに 1000人を超えても同じノリで経営してしまうパターンは多い。
例えば、ある食品メーカー(2000人規模)は、営業一筋でやってきた創業者の精神が全従業員に乗り移っていて、本来与信を管理すべき経理課長さんまでが、得意先の格付を無視して無茶な与信枠を設定していたため、不良債権がマウンテンになってた。
逆のパターンもある。
ある専門商社は、事業規模の拡大にともなって、統制環境を整備し始めた。社内規程を作り、会議体を増やし、IT全般統制を入れた。すると、その会社ならではの良さを失って業績が低迷した。
典型的なジレンマ案件なんですね。
変わらないと死ぬけど、下手に変えても死ぬ。
ならば、一定以上は大きくしないのが企業存続の秘訣なのではないか。
フェアネスやジャスティスは、西洋社会(とくに US)において重視される概念です。一方、日本の社会では、それ以上に重要なのが “納得感” だと私は考えます。納得感というのは、多分に情緒的で、パーソナルな感情です。
評価と報酬を切り離すことを私は提案したい。
報酬を全従業員ほぼ同一にするのはいいアイデアだ。しかし、個々の人間の働きに対する評価は決して疎かにしてはいけない。そこで、評価のカタチを金銭的報酬ではなく、丁寧なフィードバックというものにする。上司とは別に、”師匠” というロールを設定し、自分の師匠を自由に選べることにする。師匠の役割は、”弟子” の働きを誰よりもよく理解し、心のこもった言葉でフィードバックを与えること。
Appreciateという言葉には「価値を認める」といった意味があり、「評価」と「感謝」の両方の意を含んでいる。自分の好きな人から appreciateされることは、金銭に代えがたい最高の報酬となるでしょう。
日本国民が内閣総理大臣をリーダーと思っていないように、大企業の社員は社長をリーダーとは思っていない。母集団が大きすぎるからです。
社長の才覚や人間性如何で業績が変わる企業はヤバい。
誰が社長をやっても大差ない企業こそ、真に強い組織。
これは日本の会社の特質とも言えます。誰が総理大臣をやっても日本の国政にほとんど影響がない事実がそのことを示唆しています。
「経営者の役割が重要」などという考えは、過去の幻想である。
2000年代、「ビジネスリーダー」の養成が重視された時代があった。
ビジネスリーダーとは、事業部長クラスのポジションを指す。
社長よりは小さいユニットの長ですが、それでも大きすぎます。
リーダーの能力がモノを言うのは、せいぜい 100人までの集団です。
飛信隊の信が最も輝いていたのは、彼が百人将になった頃でした。
たしかにそのとおりだ!
ワークライフバランスなどという甘言に騙されるところでした。
条件付き自由と、無条件の自由。
深い。深いよ、りなるさん。
あなたはすでに、その先を見ているというのか。
では、どうすれば無条件の自由を手に入れることができるのでしょう。
ふむふむ。
なぬ!?
やはり「お金」の問題に行き着きますか。
これは今に始まったことではなく、ずーっと昔からそうだったのです。
歴史をみれば、戦争も、テロリズムや犯罪も、絶対的権力の絶対的腐敗も、すべてお金が原因であり目的です。
400年前、ホッブズは「万人の万人に対する闘争」こそ人間の「自然状態」だと言った。21世紀の現在でも人間はそうなの?と私は真顔で疑問に思う。というのも、私は身近な人たちとこの辺りの価値観が合わないように感じているから。
経済的に十分恵まれている人にかぎって、「お金が大事」と言う。常にお金の不安を抱えているように見える。どれだけ稼げば、どれだけ所有していればその不安から解放されるのですか?と私は真剣に問いたくなります。
お金を際限なく欲しがるのは、国家や企業という暴走する装置と、犯罪者や権力者など一部の狂人だけであってほしい。
ごく普通の人が、十分以上に恵まれているのに、必要以上にお金を欲しがる性向が私には理解できないのです。
そういうことを言うと、「ならお前は報酬ゼロでも今の仕事をやれるか?」みたいな極論に走る人がいる。その質問は幼稚すぎて答える気にならない。
私が思うのは以下の 2点です。
✅金銭的報酬のみにモチベートされる人がいい仕事はできない
✅お金のために働く人は、より多い報酬でしか満足を得られない
「贈与経済」の反対が「市場経済」ですね。
「田舎」と「都会」の関係と重なります。田舎には贈与経済が生きていて、それを「煩わしい」と感じた人は都会に移動する。都会は市場が発達していて、等価交換のみで生活できる。贈与からくる煩わしさがない。同時に、人と人のつながりもない。あっても一回性のみ。都会の住人が孤独なのは必然なんですね。
孤独にならないためには、市場を介さない関係が必要ですが、近所付き合いがなく非婚化が進む状況下では難しそう。それでも田舎から都市部へ人口が移動し続けているのは、職を求めてのことでしょう。やっぱりお金の問題になってしまうのか。
数値化できるもの(お金) vs. 数値化できないもの(贈与)の対立のように思えます。そして、現代社会は数値化できるものが勝つルールらしい。この勝敗が逆転する世界は、少なくとも今の私には想像できていません。
おそらく世界がひっくり返ることはなく、個人的に対処するしかないのでしょう。自分だけでも数値化に抗う、ということですね。
身近なところで、note から始めてみましょうか。
note の運営にお願いして、スキ数・ビュー数・フォロワー数が表示されない仕様を実装してもらうのはどうでしょう。
小さな組織と大きな産業の共存はイメージできます。
日本という国籍に名目だけ属しながら、小さな生活圏=共同体で完結する生き方。100人は難しいとしても、市区町村レベルのユニットなら可能では?国政選挙の投票率が 20%を下回り、地方選挙の投票率が 80%を超えれば、自治権の大幅な拡大が実現するのではないか。
それと同じように、巨大な企業グループの傘下に資本だけ属し、統制のない 100人程度の組織で働く、というのがこれからの会社のあり方だと考えています。
マルクスは、労働価値説(=価値の源泉は労働である)の立場を発展させ、資本制のもとでは「労働力」が商品(=市場で取引可能なもの)となることを説いた。
人間から労働力(=商品)が切り離されることをマルクスは「疎外」と呼んだ。「労働」を人間が主体となるべき創造的営みと捉えていたマルクスは、労働が「労働力」として商品化されることを批判したんですね。
労働力が商品なら、賃金はその価格。
労働力市場において、人間は労働力と賃金の等価交換を行う。
まさに、「贈与経済」が「市場経済」に移行した瞬間ですね。
資本制 ⇒ 労働力の商品化 ⇒ 労働力と賃金の等価交換 ⇒ 人が疎外される
うーん、しびれますね。マルクスは死んでない。
りなる氏(りなる師、りなる士、りなる志)は、フリーランスとして、様々な組織を渡り歩きながら、世直しをしているのだと思います。
旅芸人。吟遊詩人。スナフキン。森の人セルム。
あなたが属する組織にも、ある日突然、りなる氏がふらりと現れて、魔法をかけて去っていくかもしれませんよ。
組織づくりの未来図は、私たち一人ひとりの思いにかかっています。
りなるファン・世界の普通から