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生きるの「意味」

自分はいったいなんのために生きているんだろう?人生の意義とはなんだろう?そんないまにも押しつぶされそうな問いが聞こえてきそうです。

冬の日の日だまりのなか木枯らしに吹かれながら、生きている意味を探しているこの「わたし自身」は誰だろう、なんてことをいまぼんやり考えたりしています。

今日は、その「自分」について少しnoteしてみたいと思います。

「自分」を通してみる世界

あらゆるモノやコトは「自分」を通してしか知覚することができない。夕暮れ時の空、雪の日に食べるシチュー、温かい毛布の手触り、心を洗うような歌声、ラベンダーの香り、はじめて自転車に乗れた日の思い出、フラれた悲しみ、最愛の人と出会えた感動、そのすべては「自分」というフィルター越しに色付づいた世界の中にあります。

目の前には、ただ景色が在る。それを美しいと感じるのは「自分」を通して世界を見るから。「自分」が場に "美しい" という意味を与えています。知識や感情など無形のものだけでなく、感触、感覚などの有形のものですら、「自分」を通さずに知覚することは決してできないのです。

どれだけ精密に動く現象も「自分」があらゆる意味において知覚できなければ世界に存在できない。存在するとは「自分」が知覚し、そこに意味付けすることによって生まれる概念なのです。

世界は常に「真」でしかない

自分のことが好きになれないという人はとても多い。けれども、注意深く観察すると、そこには「好きになれない」という好き嫌いを判定している「自分」がいることがわかります。好きになれない基準を持ち合わせているということです。

例えば、電車でつらそうに立っているおばあちゃんを見て「席を譲ってあげないといけない」と思う人もいれば、まったく「気にもとめない」人もいます。あなたは席を「譲らないといけないのに譲れなかった自分」に嫌気がさしているかもしれない。でも、少なくともつらそうなおばあちゃんをみて、「席を譲らないといけないと思った」という価値基準は、好き嫌いを判定しているあなた自身と必ず一致するはずです。

そうです。価値基準は常にあなた自身だからです。そしてその価値基準を通してしかあなたは世界を知覚することができないのです。だから、あなたが感じる世界は常に「真」なのです。「真」であること以外ありえない。そのフィルターの形をしっかり把握することができれば、体験する前から結果はわかっているのです。あなたはあなたが感じる前から、何をどう感じるかを会得しているのだから。お釈迦さんが2500年も前から繰り返し、心の状態をまず「きちんと観なさい」としつこく言うのもこのためではないかとわたしは思います。これが現実に醒めているということなのです。

あなたが見ている世界は、100%あなたの基準の範疇で動いています。すべてがあなたの趣向に従っています。すべてが「真」であるという事実を忘れてはいけません。それがあなたの持っている「自分」というフィルターの外郭です。

この事実を受け入れることで、あなたは純粋に人生のジェットコースターをただ愉しむことができるようになるでしょう。

「自分」が現実に意味を与えている

お金持ちになりたい、モテたい、幸せな家族に囲まれて暮らしたい。人生に意味を与えているのは「自分」です。そしてその人生を知覚できるのもまた「自分」だけです。

そうやって堂々巡りを繰り返すのです。

人のためになるとか、自分の成長をするために、何かに貢献をするだとか、学ぶことが人生の目的であったり、人生の意義だと主張する人もいるかもしれません。

しかし、貢献とは何でしょう?学びとは何でしょう?その根源を見つめてみてください。

地球環境の浄化に貢献するために、植物性洗剤を開発販売していた起業家がいました。彼は環境汚染を止めるために排水によって環境を汚染しない洗剤を世に広め社会に大きな貢献をし、大きな成功を収めました。数年経ったある日、原料のヤシの実を仕入れている途上国を訪問して彼は知ることになります。洗剤を売れば売るほど、途上国の主食であったトウモロコシ畑が削られ、ヤシの実を生産する農園にされている。そのため返って地元の住民は食べるものがなく困窮していたのです。彼はその後、思い悩み過去を後悔し植物性洗剤の製造を辞めてしまいます。さて、さかのぼって彼がそれまで社会貢献だと思ってやってきた過去は善行だったのでしょうか?

ここでは、彼の行いがどうだと結論したいわけではありません。行動や行為に意味づけしているのは、「自分」であるということが言いたいのです。だから、見る視点や立場、時間の経過によってギャップが生じるのです。そこに本質がないからです。

良し悪し、正誤、満足不満足を演出する世界は、あなたが「自分」を通して意味付けしたのです。「あなたの見ている世界」はそのフィルターを通してしか認識できない意味の場でしかありません。

「自分」とは反応

万物はただ起こっている。常に起こり続けているモノゴトにはただ「ゆらぎ」があるのです。そのゆらぎを知覚する器官が心でありマインドです。

何かが右から左にゆらいだ。そのゆらぎを知覚するから心が動くのです。たとえ、世界がどれだけゆらいでも、それを知覚することができなければ心は動きません。

また、ゆらぎがなければ心も存在できないのです。

すべての天気が晴れだったら、晴れた心は存在できません。雨があり、雪があり、曇りがあって、はじめて晴れを認識するのです。幸せもまたつまりは幸せを感じる幸・不幸のゆらぎのなかに起こっています。

「自分」とはこの知覚器官でありその反応です。あなたはその反応を「自分」だと思いこんでいるにすぎません。

もし、風に揺らぐ木々の反応をつぶさにあなたの器官が知覚するなら、あなたはきっと自分は「木」だと思うでしょう。あなたがもし、心臓細胞の目的をすっかりと知覚するなら、あなたはきっと自分は「心臓」だと思うでしょう。

「それ」はただ起こっている。

わたしには心臓細胞の反応を知覚することができない。すると細胞やそれを構成するよりミクロな素粒子にはどこまでも意思はないのだろうか?それでも心臓はあなたの体に血液を循環させる計画を持って動いている。それは意思なのだろうか?反対に広大な全宇宙は人間の理解を凌ぐ深遠な法則を元に綿密に活動している。では、宇宙に意思はあるのだろうか?その計画が説明できるものであれば、物理現象、生理現象などと呼ばれ、人智の説明できないものはただ大いなる奇跡だと呼ばれる。

そのうちの反応する部分だけを「自分」の意思であると同一視している。

あなたが「自分」だと思っているものは、宇宙のゆらぎを知覚する反応でしかない。あなたは、その反応の範疇において、宇宙のゆらぎそのものに「自分」という意味を与えているのです。

さて、人生の意味

そうすると、生きる意味はいったいなんなのだ?と、疑問に思うかもしれない。

でもそれは、疑問そのものがおかしい。

「意味」そのものが「自分」から生まれているのだから、わたしにわたしは誰ですか?と聞いているあべこべな自己証明のようなものです。

「それ」はただ起こっています。ただそれは、無秩序に無機質に起こっているわけではなく、宇宙はなにかとても緻密な法則をもって動いている(ように見える)。そのような説明できない法則を「奇跡」と呼ぶなら、わたしたちの生そのものが奇跡なのです。

宇宙はその膨大な奇跡のゆらぎです。

わたしたちはその奇跡にただようひとかけらの反応なのです。

人生に社会貢献や、愛情、正義、自由といった生きるに十分な意義をもたらそうとする努力は、その奇跡の前で空回りしているチリのようなものなのです。

わたしたちは目の前にただ起こる奇跡をよく観察し、ただ人生を愉しむ反応のかけらなのです。

わたしは「生きる」とはそんな風なものと思います。

りなる



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