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#MeToo の"Me"って誰だろう。

きっかけは、このツイート。

ハリウッドのプロデューサーである
ハーヴィー・ワインスタインさんが
性暴力を行っていたという疑いをうけて、
月曜日、ハリウッド女優
アリッサ・ミラノさんが声を上げた。
性的なハラスメントや暴力を受けた人が
声をみんなで上げることで
被害を受けている人がこんなにいるんだ、
ということを示そう、というものだった。

これにはすぐに大きな反響があり、
世界中で #MeToo というハッシュタグとともに
自分の経験を共有するツイートやポストが
ソーシャルメディアに寄せられた。


これを見て、
わたしもすぐにつぶやきたくなった。
大きいこと、小さいこと、たくさんあるけど
自分が同意していないのにされたことだったり
相手は何気ないつもりで言ったのだろうけど
自分にとって違和感の残ることだったり、
自分のジェンダーやセクシャリティーが原因で
数々の嫌な思いをしてきた。

わたしは今でも自分が
「女性」として見られるのが心から嫌だし、
これまでの体験が自分の性格や価値観を
大きく変えてきたことも自覚している。


そんな思いもあって早速自分が勝手に
言論の自由の場と思っているFacebookに
これを投稿しようと思ったのだけれど、
その前に一つの葛藤があった。

それが「日本社会で声を挙げること」と
「#MeToo のジェンダーバイアス」の
ジレンマであった。
今日はちょっとその思いを共有してみようかな!

☞日本における #MeToo
日本にもこのハッシュタグのムーブメントの
波はゆっくり、でも確実に来ているようで、
検索すると日本語のツイートもたくさん出てくる。

一方で、ジェンダーを勉強している身として
飽きるほど聞いてきたのがこんな言葉。
「他にも辛い思いしている人がいるんだから
あなただけ主張するのはどうなの?」
「ポリティカルコレクトネスて
いちいち言ってたらきりがないじゃん!」
「気にしすぎても、生きづらいだけだよ!」

実際にこのハッシュタグに関して
「不幸自慢」と言及するツイートもある。

最近、いろいろな人とお話しする中で
思ったことでもあるけれど、
この社会では、様々な差別があるときに、
それらが団結ではなくて分断や抑圧に
向かうことがとても多い。

声を上げると「我慢しろ」と言われる。
声を上げること自体が良しとされない。

最近ではフジテレビでゲイを
揶揄するキャラクターが番組で使われ、
批判を受けた際、
ウーマンラッシュアワーの村本さんが
「お前だけが被害者面すんな」と
ツイートしたけれど、
これが今の社会をよく象徴している気がする。

また、9月にジャーナリストの伊藤詩織さんが
望まない性交渉を強制されたことを
裁判で訴えたものの
不起訴相当になったことも記憶に新しい。

あれは警察や権力の問題でもあるけれど
あえて性暴力という観点から見るとすれば、
詩織さんが弱い立場に立たされていること
想像できないのかな?と思うような
自己責任論を振りかざす声も強かった。

そんな日本社会にあって、
自分も不条理の当事者であるということ、
そもそもこれは不条理であるということ、
これから日本でどのくらいこのハッシュタグが
広まっていくのか、
どれだけ話す人が出てくるか、
わからないけれども。
少なくとも声を上げられて、
かつその意思のある自分が
語ることには意義があるのかもしれない。

☞"Me"って誰なのかな
でも、そんな一方で
"Me" て一体誰なんだろう?というのが
頭の中によぎっていることも事実。
特に以下の二つの点に関してそう思った。

1. 性暴力は女性だけが被害者?
#MeToo が広まっていくとともに、
そのレスポンスとして、
男性に向けて #HowIWillChange  
すなわちどのように自分が変わるのか、
というのを誓うハッシュタグも生まれた。

確かにわたしも経験的に
「女性として扱われることの痛み」が
男性にわかってもらえないこと、
そして多くの人がそれに対して
無痛覚であることは強く感じている。

でも、別に男性は
最初から強くて「男らしい」から
性暴力やハラスメントをするわけでも、
女性は最初から弱くて「女らしい」から
その被害者になるわけでもない。
女性がいつも被害者であるわけでもない。

注視しないといけないとすれば、
それは社会的に構築されてきた
「男らしさ」「女らしさ」という規範と
それらを通して生み出されてきた
男女の権力関係であるはず。
「男性だから」反省しないといけない
ということになってはいけない。


「女性だから声を上げる」
「男性だから態度を自省する」
ためのハッシュタグではなくて、
性的役割を相対化して脱構築することが
必要なのではないのかなあ。

2. そもそも異性愛が前提になってない?
女性だけでなく、多くの人たちが
ハッシュタグとともに自分の体験を
話しているけれど、
議論が男性と女性の権力関係の話に
集中しているのではないかと疑問に思った。

全くそうした意図はないのだろうけれども
このハッシュタグがどんどん
ヘテロセクシャル(=異性愛者)で
シスジェンダー
(=生まれもった性に違和感がない人)
が前提という方向に
向かっているように感じられる。

このハッシュタグは女性しか使えないの?
男性で嫌な思いをした人は?
ヘテロやシスジェンダーじゃない人は?
アウティングをされた人は?


実際に
例えばLGBTQの排除を感じている声を
取り上げている記事
もあったりします。

これに関しては同性愛者であることを
カミングアウトしている、
エレン・デジェネレスさんが素敵なことを
言っていた。


This is not a male thing or a female thing, ... [t]his is a human thing and it happens in the workplace, it happens in families, it happens all over the world and we are all the same.

性暴力はどこでも起こることだし
人間としてみんな当事者だよ、
というメッセージ。
本当にその通りだと思う。

これが日常的に繰り返される
無自覚な暴力に向き合うものであれば、
それは男女だけのものじゃない。

もちろん提唱者ミラノさんの
気持ちや痛みは
引き継いでいかれるべきだけれども、
誰に対してもオープンであるか、
これからの広まりを見ていくとき、
必ず見ていかないといけない
ところなのではないかな。


このムーブメントは
問題の大きさを可視化させるためにも、
ストーリーを通して
性暴力にあった人たちを「被害者」ではなく
顔の見える人間として見るためにも
大きな意義があるように感じられる。

でも、新たな排除を生まないためにも
このハッシュタグ自体が立っている
前提に対しても、常に自覚的でありたい。

日本で声を上げることの大切さ、
そして同時にこのハッシュタグが
無意識に生んでしまっている排除。

そんな葛藤があって、
ハッシュタグつけてポストすることが
果たして良いことであるのか、
ここ一週間ずっと考えていた。

でも、#MeToo とつぶやける人、
つぶやかないと決めた人、
つぶやくことができない人、
みんなみんな、もうこれ以上今みたいに
痛みや怒りが抑圧されるのは見たくない。

だから、これは女性としてでも
ヘテロとしてでも
シスジェンダーとしてでもなく、
一人の人間として自信を持って言います。
#MeToo .

ちなみにサムネイル写真は
伊藤詩織さんの『ブラック・ボックス』。
早く読みたいようう💭

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