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親愛なるあしながおじ様 - Daddy Long Legs -

母から手渡された一枚の500円玉を募金箱に入れた。
3歳の頃の記憶だ。

小学生になり小説を読む。
特に印象に残るような作品ではなかった。
不運な孤児とちょっとひねくれた慈善家の物語ー
その程度の印象は有れど、それが心に残ったか、記憶に何を残したかと問われれば、良くも悪くも「読んだだけ」で終わってしまった作品であった。

それなりの人生の時間を探し、40代が見えてきた2020年初秋ー
舞台作品として再び対峙することになるとは思わなかった。

Daddy Long Legs -ダディ・ロング・レッグズ-

そう、「あしながおじさん」だ。

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脚本・演出を手がけるのはジョン・ケアード。
彼の名前を知らずとも、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を手掛けた人と聞けば、「民衆の歌」や「夢やぶれて」といった名曲を思い浮かべる人がいるだろう。

だが、「ダディ・ロング・レッグズ」に突出した名曲はない。
ミュージカルだがオケピはない。
主旋律を奏でるのはピアノとチェロ、ギター。
舞台奥には「あしながおじさん」の書斎ー大きな本棚とたくさんの本、本棚にかけられた梯子、書斎机、モスグリーンの革張りの椅子、グリーンのバンカーズランプ、タイプライター、手紙。舞台手前にはたくさんのボックスとトランクが無造作にならぶ。ポスターの写真以上のセットは何もない。
そして、ジルーシャを演じる坂本真綾とジャーヴィスの井上芳雄。

たったそれだけ。
そう、それだけしか存在しないのだ―

ミュージカルと聞いて人が思い浮かべるようなダンサブルなナンバーはない。そもそもダンスはないし、派手な動きだってない。
作品を代表するような曲や印象に残る名曲ー例えばコンサートで単独で演奏するような曲はと問われれば、私はないと答えるだろう。
名場面はと問われればそれすらないと答えるだろう。

だが、この3人の音楽家と2人の演者が淡々と進める「ないない」づくしの舞台、終幕後に残ったのは「しあわせ」だけだった。

Disclaimer
以下、作品の特性、また自身の文章の癖から散文的な感想を書くことが大変に難しく、結果的に作品のネタバレとなってしまいました。
観劇後に、浮かんだ構成を色々動かしてみたのですが、イラストが不得手なことも有り、感想や演出について語るためには一定程度の言語化が必要となりました。すべては構成能力の低さに起因するものです。お許しください。
2020年の全公演が終演してから記事は公開していますが、本作品のネタバレを避けたい方はこの先に読み進めないようお願いいたします。
また、カッコ書きの歌詞・セリフにはニュアンスが多分に含まれます。
特にセリフは美しい言葉・流れるような描写が多くあり、作品の大きな核となっていました。そのため、その核をくっきりと書くことは避けています。ご覧になった方は心の中で思い起こして頂き、未観劇の方にはいつの日か劇場にてその素敵な言葉で紡がれた物語を観て頂きたいと願っております。

静まりかえった客席にチェロの調弦の音が響く。
チェロの少し低く温かみのある音が止むと舞台は暗転する。

時代は20世紀初頭のアメリカ・ジョングリア孤児院。
静かな舞台に現れた孤児のジルーシャはエプロンで手を拭きながら我が身の哀れさを淡々と語り歌う("一番年上のみなしご")。誰かに聴かせるために感情を吐露する歌ではない。
自らに語りかけ、期待さえ持つことを考えられない己に「希望なぞ持つな」と言い聞かせる歌である。

「哀れなジルーシャ…」
この歌の巧みさは「ジルーシャ」という自らの呼び方に現れている。
「哀れなのは私自身」と歌っているのだが、「哀れな私」とするのと「哀れなジルーシャ」とするのでは大きな違いがある。
自分を一人称ではなく三人称の名前で呼ぶことで、ジルーシャは自らが口ずさむ歌の主人公があたかも自分以外の誰かであるかのように表現するのだ。
普通の女性ならば、せいぜい女性であるだけで狭まる選択肢を悲嘆する(そういった思考すらも前衛的で持ちえぬ時代ではあるが)程度だろう。
だが、彼女は孤児であったがために、あってないような選択肢しか自分には残されていないー与えられてすらいないことを痛いほど理解している。人生を達観し諦めている、それでもどこかで諦めきれない、大人になる直前の揺れる少女の心にぴったと嵌る表現だ。
余談だが、英語版では彼女は自身の事をフルネームで呼び、より一層その客観度が上がるように私は感じている。

だが、世の中ー
いや、人生には思わぬ光が差し込む瞬間が時として訪れることがある。

ジルーシャのもとに届いた一通の手紙。
彼女の文才を認めた孤児院の賛助員で篤志家のMrジョン・スミスーもちろん偽名であるーは文筆家になるに必要な教育を受けるべく彼女に大学進学の支援を申し出る。

ジルーシャ・アボットという安直な名前を付けた孤児院のリペット院長は何かにつけてジルーシャにとって気にくわない相手。
ジルーシャを演じながらジルーシャとしてリペット院長の厭味ったらしい口真似をする坂本さんの台詞回しは実に自然だ。深夜、親友とベッドに寝転がって共通の知人のちょっとした悪口をシェアするかのようだ。

「大学に行ける幸運」をいぶかしがるジルーシャに手渡されたMrスミスからの手紙には9つの条件が。
「月に1回、手紙を書くように」「感謝の言葉はいらない」「立場を明かすつもりはない」「手紙に返事をすることは決してない」
et cetera, et cetera, et cetera...!
条件をひとつ読むごとにジルーシャの疑念は深まっていく。
本来なればこの手紙を読む時間は彼女にとってふって湧いた幸運をかみしめる時間になるはずであったであろうに。
そう、この珍妙でトリッキーな条件さえなければ!

その疑念を自己処理する過程をジルーシャ演ずる坂本真綾さんは強い表情や強弱ではなく、視線の動きで表現していく。
静かな作品の中でともすれば大げさに動いたり眉を顰めたりしたくなるところを最小限の動きに留めてみせている。

スポットもなく静かに舞台に登場した後ろ姿のMrスミス(井上芳雄)は「ただ存在する」影だった。その影を舞台セットの一部として扱い、坂本ジルーシャは訪れた幸運を咀嚼しきれない様を視線で虚空を「描く」ことで表現することに成功した。

この舞台を表現する言葉はとても難しい。
だが、キーワードをいくつか列挙することはできる。
私ならばそのひとつに「シームレス」という言葉を挙げるだろう。

舞台の転換は一切ない。だが、時間の経過が見える。
幕が上がってから舞台下手奥の狭いエリアで忙しなく動き回っていたジルーシャはトランクに見立てた舞台下手前方に置かれた箱の前へ進みエプロンを外す。仕立てのいいモダンなスカートを頭からかぶって身にまとい、舞台中央へと歩を進める。
華美ではないが綺麗なスカートを孤児院育ちの彼女が身につけ、舞台中央へ歩を進めるという行為で彼女が孤児院を出て新たな世界に飛び出したことがわかる。
「たったそれだけ」
それだけで時間の経過、場所の変化が見て取れるのだ。
この継ぎ目のない、時間が自然に流れる空間の心地よさは終幕まで続く。

孤児院を出て大学の授業開始を前に入寮したジルーシャはMrスミスへ初めての手紙をしたためる。孤児院という閉ざされた世界を抜け出した18歳のジルーシャが新しい世界に飛び出すわくわくと喜びを手紙に綴るそのとき、そこにはただ無邪気な笑顔だけがあった。
孤児院の中で子供であることを許されなかったジルーシャが18歳にして「子供らしい」憂いや影のないピュアな笑顔を弾けさせる。

影としての認識しかないーそれも意識を向ける前に一瞬見かけただけの影の紳士との手紙での出会いは珍妙なものであった。
手紙を読み「いぶかしがる」という心の動きをピアニッシモで表現したことで、孤独の中で武装して生きてきた18歳の少女が、孤児院を出て一瞬で18歳の「幼児」に変わることを観客は自然に受け入れる。

謎の慈善家、足の長いMrスミス、こと、ジャーヴィスは上手奥の扉から静かに舞台に登場する。帽子を脱ぎ、鏡の前で髪の乱れを直して自室の書斎に座っている。
脱帽のゆったりとした動作から座るまでの動き。足は軽く投げ出されているが、背もたれにもたれかかることなくすっくと伸びた背中と軽く傾げた頭はジャーヴィスの隠しようのない育ちの良さをしっかりとみせている。
役として立てる、歩ける、座れるというのは俳優にとって、こと観客の視線に晒され続ける舞台俳優にとって必要な素養であることは言うまでもない。特に何に今回のように衣装が地位などを反映しない芝居においては殊更に。

3つの楽器が奏でる穏やかな音楽に少女の心の動きを丁寧に紡ぐ坂本さん。そして、後ろ姿で己の出自を語ってみせた井上さん。
この舞台は間違いなく素敵なものになる。
そんな確信を得たのは照明が落ちてから僅か5分後のことだった。

舞台を観ることはとても好きだ。
もちろん王道のミュージカルも大好きだ。だが、自分が観た事のないものに出会うことはそれ以上に好きで、常に新しい作品を求めている。
他方、観劇を制限せざるを得ない現状下ではかなりセレクティブにならざるを得ず。以前のようにちょっと興味があるというものになかなか足を運べなくなってしまったのだ。
絶え間無く湧き上がる魅力的なものに出会いたいという欲望。劇場に到着し、そして幕が上がってからもさえもドキドキが収まることはない。
演者が良くとも脚本が良くなかったらどうしよう、演出はどうだろうか、舞台セットは、照明は、劇場は…チケットを取る前から様々逡巡させている。
そんな中で、この作品はOff-Broadwayでも上演されているし、日本でも繰り返し上演されているいわゆる「名作」だがチケットやタイミングなど、これまで縁がない作品であった。
正確にはDaddy Long LegsはBroadway HDで観た。だが、劇場という空間で実際に観劇するのと複数のカメラとスイッチャーによって他者の目線で編集された映像を観るのでは大きく異なる。つまり、映像を観た時はそこまで引き込まれはしなかったのだ。
未知の舞台に対する期待と不安がこんなにも早く、一瞬で霧散してしまったのは本当に久々のことだった。

「幼児」のジルーシャは興味の塊だ。
Mrスミスという偽名は「イケてない」と早速名前に無邪気にかみつく。
ごもっともな指摘である。ジョン・スミスなどー「山田太郎」である。オーソドックスな名前をふたつ並べた彼の名前から人と成りなど見えてこない(最も、関心を持たれたくない彼にとってはそれこそが狙いなのだが)。

「だって貴方のことが想像できない名前なのよ」
孤児院で一瞬見えた足の長い紳士-想像の中でより一層足が長い男性を思い浮かべるジルーシャ、まるであしなが蜘蛛だわとMrスミスに新たな名前ーDaddy Long Legsーを与える。
これがのちに「Mrスミス」にとって最大のギフトになる。

余談だが、今回Daddy Long Legsの長い足を影で直接表現をするという演出がなかったのは、面白かったと思っている。
ジルーシャがリペット院長の部屋に向かう途中、下手からほんのわずかの時間、強い光―車のヘッドライトがジルーシャの背中を照らし、舞台の壁にスローモーションで動く彼女の大きな影が投影された。Mrスミスをジルーシャが逆光の中一瞬見かけたシーンの演出だ。
当然、彼女の影は「かなり」の大きさである。そんな彼女の影よりも大きく、そして長い足を持つMrスミスの影はどんなのだろうか。
観客は、ジルーシャが「Daddy Long Legs」とMrスミスを呼んだ瞬間、舞台冒頭のジルーシャの大きな影を思い出す。そして、彼女によってDaddy Long Legsと名付けられた男性と、後ろを向いて座る男性に同時に思いをいたす。男性ージャーヴィスが正面を向き照明があたるまで「彼はどのような男性なのだろうか」と空想させる余白を作ってくれるのだ。

無邪気なジルーシャは空想を止めることも、それを心に留め置く術も知らない。心の浮かんだ疑問を全て手紙にしたためる("ミスター女の子嫌い")。
「女の子は嫌い?」とー
一見無遠慮にみえる質問に込められた願いは、自分に新しい生活を与えてくれた貴方の容姿だけでも想像させて欲しい。孤児のジルーシャは自らの想像でこの慈善家に実態を持たせる。せめて心の中で家族としたいという本人も気が付かない欲求が彼女のしたためた手紙からはダイレクトに伝わってくる。
「とても重要なことです」「貴方の年齢を教えてください」

そして、ここでMrスミスことジャーヴィスを演じる井上芳雄に初めて照明があたる。
「慈善家として金は出す」と言い切るジャーヴィス。
ゆったりとした所作で彼女からの手紙を読む彼に感情は見えない。支援の条件に「手紙を毎月送るように」としたのは自分自身であり、その初めての手紙が来たというのにだ。
これから始まる学生生活に胸を弾ませるジルーシャの溌剌とした感情を爆発させた文章、文筆家を目指す者が書く文章としては些か期待外れともいえる手紙は彼のお気に召さなかったのか不満もないがさしたる興味も湧かないといった風情だ。
ジルーシャの文才を見出し女性への初めての支援を決めたジャーヴィスは彼女から向けられる興味に応えることはなかった。ただ「感謝は不要」という言葉を咀嚼し間接的に感謝をぶつけに来る文章は多少なりとも引っかかったのかーこうして初めての手紙は書斎の本棚に張られた。

幕が上がってから数分でこの舞台の登場人物2人が舞台に揃うが、終幕までこのふたりは舞台に立ち続ける。そう、ジルーシャの手紙へのジャーヴィスの反応を観客は見続けることになるのだ。
ジルーシャの視点で書かれた原作にはないジャーヴィスの人となり。それを同じ舞台の異なるエリアで同時進行で観せられることで観客はふたりの登場人物それぞれに適度な感情移入ができるようになっている。
とはいえ、支援にあたり9つの条件を出す篤志家ーそれも照明があたった瞬間の斜に構えたー崩すことのないしかめっ面の男性・ジャーヴィスを好意的にとらえる人はそう多くないはずだ。

そんなジャーヴィスが初めて人間的な反応を見せるのはジルーシャからの2通目の手紙だ。
「親愛なるダディ・ロング・レッグズ様」
丁寧な書き出しから始まる手紙は学生生活のはじまりを報告し、反応のないダディを文章で挑発にかかる。
「貴方はグレーヘア」
「グレーヘアではなく…ひょっとして禿げているの」
「ダディ、貴方はお酒を飲むのかしら」
「ほどほどになさってね」
「貴方はそう…年のいった老人の肝臓にお酒は悪いのよ」

ジルーシャの想像力はダディだけでなく観客にとっても斜め上を行く発想を生み出す。「返事を書くつもりはない」とわざわざ条件に入れてくるような人間が一回の手紙で返信がなかったからと「禿げた年寄り」呼ばわりするなんて!
そんな無邪気な坂本ジルーシャの視線はまだ虚空に向かっている。だが、見知らぬダディのー初老の足が長い紳士の姿を空想の中でしっかりとらえており、瞳にはそれまでなかった輝きが見える。

瞳をキラキラさせるジルーシャの後ろに見えるジャーヴィスはウィットに富んだ彼女の手紙に少し心を動かす。大きな反応は引き続きないものの、1通目の手紙のように興味を示さなかったジャーヴィスではない。鼻と口角をピクリと反応させ、心がわずかに動いた様子が見える。
老人扱いされたことを心外に思いつつ、だんまりを決めこみ、鼻で笑って手にしていたストレートのウィスキーを煽ってみせた。そして、ひとこと
「面白い。個性的だ」
"年寄り"という歌を歌う井上ジャービスの表情と斜に構えた気だるげなう動きに「この偏屈め」と悪態をついたのは私だけではあるまい。ちなみに、英語のタイトルは"She Thinks I'm Old"。いいタイトルである。

3通目の手紙は大学で始まる日々に目を輝かせるジルーシャの様子が彼女らしい表現で表現される("他の子のように")。
タイトルこそ"他の子のように"となっているが、
「パイを焼きたい」「交響曲を作曲して」「ノーベル賞も取る」
なかなかの女性である。この豊かな表現にジャーヴィスはのめりこんでゆく。

授業にも慣れてきたころ、ジャーヴィスの手元に送られてきた4通目の手紙。ジルーシャの世界が急速に拡大していく("Freshman-Year Studies")様が垣間見える。彼女が書いてくる読んだ本の感想に自らも本棚から本を引っ張り出してくるジャーヴィス。
引き出しが増えていくことで豊かになるジルーシャの文章。手紙を読み上げるジルーシャの声は感情の起伏に富んでいて、ジャーヴィスが少しばかり前のめりに読み進める。
デスクにお尻をかけてみたり、梯子を上りながら手紙を読んだりージルーシャの声のトーンはそのままジャーヴィスの心踊る様だ。
ジャーヴィスがジルーシャに対して「支援する若者のひとり」以上の興味を持ち始めたことがわかる。

そして、5通目の手紙でジルーシャは大学生活の中で身分やそれに起因する教育格差に直面する("知らなかったこと")。
大学に通うことがまだまだ当たり前ではなかった20世紀初頭のアメリカ、それも女性で高等教育を受けられる者は一握りの良家の子女だけだった時代。
「ミケランジェロ」「フローレンス・ナイチンゲール」の存在を知らなかったがために、同級生たちから失笑をかったジルーシャの手紙は己に対する落胆から始まり、家族がいる人が当たり前に享受しているものを持ちえなかった自分を恥じてもいる。
ジルーシャは己の無知こそ恥じてこそいるが、舞台冒頭で歌って見せたように「哀れ(もしくは"みじめな")ジルーシャ」とは思っていない。過去や格差を前に思うことは有れ、己の身を嘆くといったネガティブな方向に感情のベクトルは向かっていないところに彼女の素直な魅力が見て取れる。

ジルーシャ本人は己の無知に傷ついているが、拡がり続ける世界の中で「幼児」から「少女」へ確実に成長している。それをジャーヴィスが手紙越しに感じ取る過程はただただ微笑ましい。
そして、自身がその出自によって無条件に与えられてきたものー教育に思いを寄せる様が印象的だ。

そして手紙は寮生活を共に送る友の話へと移っていく。
友達のひとりはサリー・マクブライド。ちょっと気弱な彼女は「素敵なお友達です」。そして、もうひとりはジュリア。
「彼女のことは苦手だわ。如何にもペンドルトン家の方!」
この一文を読んだジャーヴィスの動揺と絶望たるや。
だって、彼のフルネームはジャーヴィス・ペンドルトン。ジュリアの従兄なのだから!

大仰さとは無縁の今回の舞台において、くるくると動き回る「動」のジルーシャとは対照的にジャーヴィスは「静」の部分を担っている。
それは彼の主要なアクティングエリアが舞台の僅か4分の一ほどの書斎であることからもわかる。
井上ジャーヴィスの「初めての動揺」は坂本ジルーシャの「いぶかしい手紙への反応」と同じだった。全身の表現ではなく、首だけを前に出し目を丸くするという舞台としては控えめなものだった。

ジルーシャがジャーヴィスから与えられた道に躊躇なく踏み出し、駆け出していくのとは反対に、ジャーヴィスは頑なに自分の世界の中で生きている。
世間的には、恵まれた環境で生きてきたジャーヴィスが生きる世界は実はとても狭く、ジルーシャの手紙はそんな彼の世界の扉を遠慮なしに、それも容赦なく叩きに来る。約束の1か月に1通を上回るペースでやってくるのだ。
そして、その手紙は新緑が芽吹くがごとく急激な成長を遂げる若い女性の瑞々しい感性に溢れている。
これを無視し続けることがどれほど難しいのか、きっとこの時のジャーヴィスは理解していない。井上ジャーヴィスのともすれば控えめに映る動揺は扉をノックする音に初めて反応した瞬間としてきちんと観客の印象に残った。

ジルーシャの手紙の表現は加速度的に豊かになっていく。
勉強によって得た知識とうんともすんとも反応のないダディへの尽きることのない興味と空想。図らずもダディから与えられた(正しくは「齎されてしまった」なのかもしれないが)環境が彼女の引き出しを増やしていく。
そして、失礼ではないが遠慮のない文章は、ジルーシャの感情の起伏がストレートに反映されていく。
支援条件9条に「返事は書かない」とあれど、あの手この手でダディの興味を惹き、ひとこと返事をという希望を捨てきれないジルーシャ。その姿は欲しいものを手に入れたくて駄々をこねる子供そのものである。
期待など持つことさえなかった孤児のジルーシャにダディは希望を与えてしまった。小さな希望が次々に生まれ、夢に変わり、実現し、ひとつずつ消化する過程で己の努力では決して手に入らないものの存在に気が付いてしまったのだ。

無償で施しを与えるダディはジルーシャ自身の強い思いによって空想上の「家族」となっていた。
坂本ジルーシャの感情は虚空にいるダディを素通りしていく。彼女の成長を手紙から楽しむ井上ジャービスはダディに向けられた関心を決まり文句として気にも留めていない。
ただ、届けられる手紙にどんどん前のめりになっているジャービスは日常ではあまり表に出すことはない感情をその顔に浮かべるようになっている。そして、しゃんと伸びた背筋はそのままに前傾姿勢で書斎を歩き回りながら手紙をその読む様は少年そのもの。

だが、クリスマスに彼の手元に届いた手紙に書かれていた何気ない言葉ー
「クリスマスには誰かを愛さずにはいられない」("彼女の愛とは?")
ジャーヴィスはその言葉を必死に咀嚼する。
「愛している」ではない、「愛さずにはいられない」なのだ。
サンタクロースからの手紙に目を輝かせる30歳の少年は、ジルーシャの言葉に様々思いを馳せるが、頑なに返事を書くことはしない。誰かを愛さずにはいられない日に、「Merry Christmas」のひとことを伝えることすらも。

ジルーシャにとっては拷問に等しい日々だ。
いくら、支援の条件に「返信はしない」とあっても。普通の人間であれば彼女からの手紙を無視することはできないだろうに。ひとことのメッセージでも届くであろうに。

「私もいつか手紙を受け取る日が来るのかしら」
ダディへの手紙を出しながらそうつぶやくジルーシャ。決して返ってくることのない手紙に彼女のフラストレーションはたまる一方だ。
ジルーシャは返事がなくともダディにメッセージを送り続ける。だが、返事が返ってこないという事実はブーメランとしてかえってきて彼女の精神を容赦なく叩きのめしに来る。

学生生活においても落第の危機に直面するジルーシャ。
ダディに恐る恐る「どうかがっかりなさらないで」「貴方の期待を裏切ることのないように頑張るわ」と手紙を書くがもちろんそれにも返事はない。
舞台上では描かれていないが、手紙が届いていないかと寮の管理者に尋ねに行ってはひしがれる様がジルーシャの下がり続ける肩と重い足取り、そして深まるばかりの眉間のしわに見て取れる。
キャパシティを超えたフラストレーションを制御できなくなった頃、ジルーシャは病気になる("ヤな子")。

坂本ジルーシャの巧みさは声色の豊かさが支えていると実感したのがこのシーンだった。
ジルーシャの手紙は「●月●日、親愛なるダディ」という形式で綴られる。坂本ジルーシャはレターヘッドに書かれた日付の読み方ひとつでジルーシャの心の在り処を的確に表現していく。
今回、幸運なことに舞台間近の席で拝見することになったが、表情や動きがなくとも声色ひとつで表現ができる。
生憎アニメや声優に疎い私は、彼女が「レ・ミゼラブル」のエポニーヌに選ばれたときも声優がミュージカルに出演するのかという程度の認識しかなかった(もっとも、そのころは「レ・ミゼラブル」という演目は卒業してしまっていたので、チケットを手配することすら試みていなかったのだが)。

そして、何といってもセリフがクリア。
声色が変わっても声のトーンが変わっても、はたまた声のボリュームが落ちたとしても。決してぶれることのない聴きやすさ。井上さんの滑舌は舞台拝見し存じ上げていたが、2時間半近い舞台で手紙を読み、歌い続ける坂本さんの澱むことのない滑舌と確固たる技術あってこそ成立する舞台だった。

話を戻そう。
「もう熱が6日も下がりません」
熱でいよいよ感情のコントロールが効かなくなったジルーシャの心が暴走を止められない。きっと彼女の千々に乱れる心は熱の所為ではなく手紙の文字にまで現れていたのだろう。
いつもならば最後まで手紙を読み、本棚にピンナップするはずのジャーヴィスははじかれたように電話に飛びつき、病床の彼女にバラの花束を届ける。
手配の電話を掛けた時の苦悶に満ちたジャーヴィスの表情は初めて彼が見せた人間らしい表情、そして無意識の動作だったと思う。

「感謝は要らない」
こんな横柄で偏屈なジャーヴィスが、ジルーシャに起きたハプニングについに己が扉を自ら開けたのだ。それも、自分では気が付かないうちに。
それまでのゆったりとした動作でもなく、斜に構えた表情でもなく。ただ衝動のままに自分の心に初めて従った瞬間だった。

だが、バラの花束を手にした瞬間のジルーシャの目に喜びはない。
ただただ驚きと現実の出来事かを疑う。纏う空気は哀しみにも見えるが花束をぎゅっと抱きしめるしぐさに彼女の自己嫌悪とダディから向けられた温かなモノ、初めての贈り物への思いがにじむ。
家族から与えられる有形・無形のものを無償の愛と表現する。Given Nameというのは将にその与えられし愛の最たるものだろう。
名前すら与えられなかった(若しくは与えられたものを失ってしまった)当たり前を知らずに生きてきた少女ー
ダディという架空の「家族」を得るも、金銭や服など生活に必要なモノだけを一方的に享受する歪な時間を過ごしてきた。
同級生と同等の生活を送るために必要な毎月35ドルのお金だって、彼女にとってはただの金銭でしかない。

そこに初めてダディから届けられたプレゼント。
生活に直結するものでは全くない。実質的ではない贈り物。
人生で初めて贈られたージルーシャの心に宛てられたバラの花束がどれほど彼女の心を満たしたかは想像に難くない。
振り返るにつけ、坂本さんの表現がストンと腑に落ちていく。
誰しもが生きている中で一度は経験したであろう、感情の坩の中で何をやってもうまくいかない苛立ちが爆発し自己嫌悪に陥るまでを歌う"ヤな子"は1幕のジルーシャを象徴する一曲になっている。

こうして「接触禁止」のルールを破ってしまったジャーヴィス。
バラのプレゼントをきっかけに、それまで舞台上で頑固な謎の紳士を装っていた井上ジャーヴィスはいとも簡単にその仮面をあっさりと脱ぎ捨ててしまう。

【追記 - 2020.9.29】
ジョンは今回、ジャーヴィスのチャーミングな様やジルーシャに惹かれていることを最初から前面に打ち出す演出プランを提示していたとのこと。ジャーヴィスをオープンマインドにすることで、チャーミング(コミカルな部分)が前面に出くる演出だった。

(略)
それが今回は、最初からジルーシャにひかれていることや、彼のチャーミングなところを出していいと言われました。理由は聞いてませんが、ジョンが考える今のジャーヴィス像なのかもしれません。この作品は世界中で上演されているので、それを踏まえて、少しずつ解釈が変わってきたのかもしれないです。

出所:エンタメ!井上芳雄 エンタメ通信
久しぶりの演技 やっぱり役者って面白い(井上芳雄)
第77回 2020/9/19
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO63948500X10C20A9000000

文才ある少女がダディに振り向いて欲しいと書き続けた言葉の数々。
好奇心を少しくすぐられては楽しい気分になり、自分の中に沸き上がる小さな感情の数々に蓋をしてきたジャーヴィス。彼女の病気という不測の事態があったとはいえ、バラの花束を贈るという行為で、彼のタガは文字通り「ぶっ飛んで」行くのだが、その様は文字通り、井上さんの演技の爆発力そのものだ。

自分で作ったルールに耐え切れなくなったジャーヴィスはデスクに向かい手紙を書くことにする。
このデスクの配置がなんとも絶妙なのだ。
舞台上、ジャーヴィスのデスクと椅子は客席から背を向けるように設置されている。劇場上手前方の端っこの席に座る観客が彼の表情をうかがい知ることができるか否かのギリギリのラインだ。
つまり、ジャーヴィスが机に向かって手紙を書こうとすると、必然的に客席に背を向けることになる。
狭いアクティングエリアで客席に背を向けさせる配置とすることでジャーヴィスの狭い世界が見える。そして、手紙を認める時、彼はデスクの引き出しを開きー実際それはサイドテーブルとなっているのだがー斜めではあるものの客席に顔を向けてその手紙を書き始めることになる。

舞台が始まって数十分。
井上ジャーヴィスが正面を向くことはここまでほとんどなかった。
ふたりのデュエットナンバーは正面を向く坂本ジルーシャと斜め方向に身体を向ける井上ジャーヴィスという形だった。彼が正面を向くのは登場シーンのソロナンバーなど斜に構えて自分について歌うときだけだった。

彼にはジルーシャに真っ向から対峙できるようなー舞台上において真正面を完全に向けるほどの勇気はない。そんな人間であれば、あんなややこしい支援条件など提示するはずもないのだ。
傍から見ればさしたるものではないだろうが、自分にとっての硬い殻を破ったジャーヴィスが弾けていく変化を表現するのにこのデスクの角度が絶妙だったということは明記しておきたい。

文章にうるさいジャーヴィスも、いざ自分が書くとなるとこれが読むに堪えないような文章しか書けない。いや、自らに才がないからこそ持つ者への尊敬の念が沸き上がるのかもしれないが。
ジルーシャの情感豊かな表現の引き立て役としては最適だが、それにしたってもっと書きようがあるだろうと観ているこちらがイライラさせられる。少なくとも感情込めた手紙は全くもって「へたくそ」だ。
(そう書きながら私がダメージを受けているのは、この観劇ノートを読んでお分かりの通り、私自身感情を込めた文章を書くのが苦手だということにも起因する。)

書くことはあきらめ、手紙を綺麗に真ん中で破りジルーシャに会いに行くぞと歌い上げた井上ジャーヴィス("いつ会おう?")。
井上さんはロングブレスで歌い上げるときに力がこもると鼻の右上にストレスをかけるように私には見えるのだが、この「井上芳雄」の癖が、好奇心に負けジルーシャに会いに行くぞと初めてのぞかせるジャーヴィスの笑顔に重なったとき、何とも憎たらしく、でも憎みきれない「ジャーヴィス・ペンドルトン」の表情が出来上がる。
この表情のジャーヴィスが、ジャーヴィスの本質に一番近いように思われる。そして、観客はここをきっかけに徐々にジャーヴィスへの感情移入をはじめることとなる。

井上芳雄というミュージカル俳優はテレビには全く向かない俳優だと思う。舞台という広い空間ではミュージカルであろうとストレートプレイであろうと、あれだけ空間を支配できるのに。
舞台においては細かい表現をしつくすというのに、映像になると舞台との違いを意識しすぎて抑制し過ぎるのだと思う。

だが、舞台では抑制の効いた芝居というのをきっちりと仕上げてくる。
抑制が効いているということは、作品のどこかで必ず訪れる感情の起伏をナチュラルに観客に受け入れさせる素地ー準備ができているということでもある。もちろん、この起伏部を過度に表現すれば台無しになるのだが、そこのコントロールも井上芳雄という俳優はしっかりとしてくる。
映像でファンを獲得するミュージカル俳優も増えてきている中、映像向きの演技が弱いというのは役者として勿体ないと思うこともあるが、劇場が好きな私は彼が本領を発揮できるのはやはり劇場なのだと嬉しくもなる。
ジャーヴィスのことを言えたものでは全くない…私も大概歪んでいる。

ダディ・ロング・レッグズにおけるジャーヴィスの感情の激しい起伏が発生するシーンのひとつは将にこのシーンにあり、ここをしっかり表現しきった井上芳雄は観客の前にジャーヴィス・ペンドルトン、その人としてしっかりと立っていた。「現れた」のだ。

そして、このシーンをきっかけに物語の視点はジルーシャからジャーヴィスへと移っていく。1幕前半はジルーシャの急激な精神的成長にフォーカスしているが、彼女が花束を抱きしめ現状を受け入れたことで彼女の精神は年相応の女性に追いついてくる。
1幕後半はジルーシャによってもたらされた世界に浮足立つジャーヴィスの物語へと変わっていく。舞台は引き続き、ジルーシャの手紙で綴られるが、物語の局面が明確に変わっていく。
この辺りの流れも実に自然ーシームレスなのだ。

「親愛なるダディ。変わったお客様がいらっしゃいました。」
手紙を書くことをあきらめたジャーヴィスは一度会っただけで「嫌い」になった姪ジュリアの伯父として学校に現れる。
もちろんそれは口実でジルーシャとの対面が目的だ。

1幕前半を舞台の4分の一で過ごしたジャーヴィスはハットをかぶりステッキを持ち初めて舞台中央へ歩を進める(余談だが、このハットをかぶるときに井上さんの右手の動きが実に上流階級の男性らしく気に入っている)。あくまでもジャービスはジルーシャの手紙の中の登場人物として振る舞うので、多少風変りなところはあるものの年相応の男性として舞台前方に存在している。

幕開きから30分余り。同じ舞台に立っていても、同じ場所には存在しえなかったふたり。手紙の中とはいえ、初めて同じ場所に立ったことで、ふたりは「レディ」と「紳士」というーこれまでと異なる表情を見せている。
そして、観客は初めて、これまで見てきたふたりが心に感じていたことを全て吐露していたという事実に気が付く。余所行きの顔で振る舞うふたりには初々しさのようなものも垣間見え微笑ましい。
1幕も半ばに来てこのシーンが挟まれることで、大きな変化がなかった舞台に新鮮な空気が流れた。

ジルーシャにとって、先生などを除けば初めて出会ったであろう大人の男性。それも自分のことをどことなく理解してくれているような男性が目の前に現れたことで、彼女はジャーヴィスにダディの姿を重ねる。
「若い時の貴方はきっと彼みたいだったのね」
「一度も貴方には会ったことはないけれども」("あなたの目の色")
実態を持たないダディという90歳の老人が若人の姿を借りて現れたとさえ彼女は思っていたのかもしれない。これまで影でしかなかったダディがジャーヴィスの出現によって急激に実態を持った人間へと変化していく。
彼女の歌はジャーヴィスの描写という体裁を取りながらジャーヴィスの向こうに見えるダディに問いかける。そして、どれほどジャーヴィスが彼女の話を温かく、優しい目で聞いていたのかもを伝えている。

一方のジャーヴィス。ジルーシャとの初対面が彼にとってどれほどの意味があったかは分からない。ただ、初対面を終え、書斎にてジルーシャがジャーヴィスについて描写する手紙に破顔する様はそれなりの好印象を彼女に残したことへの喜びの笑みが浮かぶ。その様はテストの答え合わせをするかのようだ。ただ、それは以前のような斜に構えたものではなく小さな喜びを心の内で反芻するうちに出てきた笑みに見えた。
ジルーシャの切ない思いはどこまで彼に伝わっているのだろうか…

この楽曲"あなたの目の色"で、井上芳雄と坂本真綾は初めてしっかりとしたデュエットを聴かせる。
所謂ミュージカル的な歌唱方法をしない坂本さんと、クラシカルな歌唱技法を演じる役に合わせて正調ミュージカルにアレンジして歌う井上さん。同系統の歌唱をする人が並ぶと、この穏やかなミュージカルの楽曲では双方の声が活きない。
少し系統が違う人が一緒に歌うことで活きる曲が多いのだ。そういった意味でも、このふたりのキャスティングは絶妙だと感じた。

ジルーシャの大学の1年はあっという間に終わる。
数学などの落第や追試といったイベントがあり、ジルーシャの感情は引き続き目まぐるしく変化するが、ダディの存在を認識した彼女の精神面は落ち着いている。
だが、夏休み。ジルーシャの周囲は里帰りし、彼女には大嫌いなリペット院長からは「孤児院を手伝うように」との手紙が届く。彼女が「いつか私ももらえるのかしら」と願った手紙。それは大いに期待外れなものだった("他の子たちとは (リプライズ)")。

ここからのジャーヴィスの東奔西走っぷりは筆舌に尽くしがたい。
すべてのモノが用意されている上流階級の「ボンボン」の本領発揮である。
Mrスミスの秘書のフリをしたジャーヴィスは、ジルーシャをロックウィローという農園に出向くようにタイプライターで手紙を打つ。
ぱちぱちと無機質で少し重い音を鳴らすタイプライターは、仮面外す前の偏屈なジャーヴィスを想起させる。

舞台上手と下手より中央にあった木の窓。
ふたりが其々窓を開けるとカーテン越しに緑の大地が広がる。セットの本棚も透かしになっており、並ぶ本の向こう側に田舎の青緑の景色が広がることで舞台空間が一気に広がったような錯覚を受ける。
「ないない」づくしの舞台と最初に書いたが、舞台転換という最も簡単に観客を異世界に移動させる手法を自らに許さなかったことで、この作品は舞台として大きなものを手にしている。

舞台は現実と虚構の狭間にある。
マイムひとつでないものを実在させることができる。棒を持って「刀を抜け」と言い、視線を鋭く動かせばそこに真剣を持った複数の者の戦いの場が生まれる。
同じテーブルがあっても「ただいま」と言えば家に変わるし、息せき切って「間に合った」と言えばそこはオフィスや学校に変わるだろう。

旅に出かけると礎石並ぶ遺跡を前に立ち尽くすことがある。
草生す世界、太陽の光や風の匂いの向こうに遠い過去の人々の生が見えるのだ。目に映る景色が五感と想像力で鮮やかに変化していく。
そう、まるで舞台を観ているかのように。

人間には「欠けたものを埋めようとする才」がある。
セットが豪奢になり、モニターやプロジェクションマッピングなど表現手法は無尽蔵だ。その中で舞台は自らその魅力を捨てていく傾向にある。
セットは必要だ。だが、人間の能力を信頼できない舞台製作者が増えたのか、必要以上に装置や小道具で説明をしようとする。

贅沢な舞台にはその良さがあるし、それを否定するつもりはない。
だが、表現に必要十分なモノだけが物理的に存在するステージというものは、舞台が自らに「与えられた」特別な能力、つまり表現手段をいかんなく発揮するための準備が完璧に整えられている空間である。

ロックウィローの屋敷の窓を開け放ったとき、揺らぐカーテンとそこを抜ける光に観客はロックウィローの風を、景色を見た。本棚の本は木々や山のように、その向こうに広がる空、たなびく薄い雲ー窓の外の広がりが見えたのだ。
一瞬の演出だったが、信頼を寄せられた観客が気持ちよく作品の世界に没入できる心地のいい瞬間ーそして舞台っていいなぁとしみじみ感じられる心弾む瞬間でもあった。たったそれだけのシーンで、涙が溢れそうになるのだ。

ロックウィローでのとある日、ジルーシャの本の上にあしなが蜘蛛ーDaddy Long Legsが現れる。ジルーシャは「彼」の長い脚をそっと持ち窓の外に放つ。
上流階級の子女の中、拠り所となるものが何ひとつなかったジルーシャの不安と、その拠り所をダディに求めていたのであろうことがここで痛く伝わってくる。根無し草の自分、ルーツがない自分。勉強に没頭しているときには忘れているそのことを、学友とのさもない瞬間に都度突き付けられるのだ。

あしなが蜘蛛は風に乗って消えていった。
さっきまでここにいたあしなが蜘蛛は彼女のもとにはもういない。ただ、間違いなく風に乗って何処かの木まで行ったに違いない。
「今ここにある幸せ」をかみしめるジルーシャはあしなが蜘蛛を放した瞬間から虚空を滑らせていた視線を徐々に目の前の世界へと移していく。それは決して自立した女性の強いものではないけれども、今という貴重な時間をしっかりと生きようというジルーシャの精神面の変化が大きく見える。この、"幸せの秘密"が1幕後半、ジルーシャの一段成熟する過程を描く鍵となる楽曲になっていた。

心の在り様に大きな変化があったジルーシャは農場の主センプル夫妻とのエピソードを軽快に綴っていく。
舞台には登場しない夫妻の風貌がジルーシャの豊かな声色と夫妻を想像して笑いをかみ殺すジャーヴィスによって浮かび上がってくる。
極めつけが夫妻が崇拝する不合理なピューリタンの神に対し、真っ向から切り込んだジルーシャのシーン。

この辺りから、観客はジルーシャを見守るジャーヴィスの視点を持つようになる。堪えきれぬ笑いを漏らしてみたり、年相応に成長したはずの少女が学校とは異なる環境で再び見せる幼い表情に共感するようになっていくのだ。

そして、ジルーシャは屋根裏部屋に隠された髑髏マークの箱を見つける。
箱の中には児童小説。その表紙にはいたずら書きがあり「ジャーヴィス・ペンドルトン」の名前が記されていた。
11歳のころ病気療養で訪れ、夏になる度にロックウィローを訪れていたジャーヴィス。ジャーヴィスが相続した後、現在の主センプル夫妻に譲渡された農園だったが、まさか自分の持ち物が残っていたとは思ってもいなかった彼はこの芝居始まって一番の動揺を見せる。

ダディはジャーヴィスの血縁にあたる年配の男性…60歳…いや、90歳の老人などと想像を始めたジルーシャにジャーヴィスが頭を抱えるのは無理からぬことだ。
だけどね、悪いのは真実を告げない君自身だよ、ジャーヴィス。
観客のクスクスという笑い声は「しまった!」という感情を全身で表現するジャーヴィスに向けられ、彼の動揺をさらに大きく見せる。

センプル夫妻がジルーシャに「ジャーヴィー坊ちゃん」のことをどこまで話したのかは分からない。だが、観客の笑い声はジャーヴィ―坊ちゃんの心の慌てようを更に増幅させるものになっている。
ここに見える舞台と観客の信頼関係も実に気持ちがいい。

拠り所を探していたジルーシャが自分の足で立ったのとは対照的に名乗り出ることを恐れるジャーヴィス。ここでふたりの初めて出会ったときの歌ー"あなたの目の色 (リプライズ1)"が再び穏やかに流れる。
殻から抜け出せないままのジャーヴィスを残して1幕は終わった。


夏休みを終え、2年生に進級したジルーシャからの手紙で2幕は上がる。
ジルーシャは溌剌さの中に自分の核を見出す。髪型も少し変わり凛とした佇まいを見せるようになったジルーシャは大学生活にも馴染んでいく。そして彼女の手紙は、学習で得たものや置かれた環境についての話から次第に友人や日々の出来事についての報告が増えていく。

クリスマス休暇、サリーに誘われ彼女の家族と共に過ごしたジルーシャはそこで出会ったサリーの兄ジミーについてもダディに報告をする。
手紙を読む坂本さんの声はただただ楽しかったクリスマス休暇について淡々と語っているのだけれども、それを文字で追うジャーヴィスの心中は穏やかではない。
坂本ジルーシャの声からは友人の兄、もっと言えば年の近い男性との会話が楽しかった様こそ伝われど、そこに親密さといったものは全く表現していないのに、だ。
観客には「ジャーヴィス・ペンドルトン」という風変りな紳士はもはや見えていない。舞台に存在しているのは11歳から精神的に成長した様子のない「ジャーヴィー坊ちゃん」その人だ。

かくして、2幕の舞台には90歳を超えた好事家の紳士に手紙を書き続けるジルーシャと精神年齢11歳の坊ちゃんが、そしてそのちぐはぐさとギャップを微笑ましく見守る観客という構図が劇場内に生まれる。
「ダディはジャーヴィスよ!気が付いてあげて」なんてジルーシャに語り掛ける観客は誰ひとりとして存在しない。
自業自得、ドツボに嵌りゆく坊ちゃんを温かいーいや、生あたたかな目で見守る観客の感情が劇場内に緩やかに支配している。

居ても立っても居られないジャーヴィスはチョコレートの大箱を持って再び学校を訪ね、週末にジルーシャとサリーをニューヨークの街に連れ出すことになる。

この学校を訪れるシーン、箱のリボンをつまむように持ち背中を向けたままぶっきらぼうに渡すーいや、半ば投げつけるようなジャーヴィスは殊におかしい。これで当の本人は彼女に対する感情に対して無自覚なのだから本格的に手に負えない。
(観劇日は投げ捨てるようにデスクに置いたチョコレートがすってんころりんと一回転し「ドスン」と箱が音を立てた。目を丸くする坂本さんと肩をピクっと振るわせ一瞬の動揺を隠しきれなかった井上さんを目撃することになった。)

ニューヨークへやってきたジルーシャを案内するジャーヴィス。
光に溢れるマンハッタンを歌った"My Manhattan"はこのミュージカルの中で一番明るくアップテンポの曲、そしてミュージカルらしさのつまったナンバーだ。
井上芳雄の歌声は様々な景色を描くことができるが、裏拍子がリズミカルで細かく音が動くこの曲は彼の新たな表現力を見せつけてくる。
特に今回は音楽を奏でる楽器が少なく、より彼の声が活きてくる。観客への信頼ということに言及したが、演者への絶対的信頼がここに見える。
井上芳雄の面目躍如である。

マンハッタンの街並みにジルーシャの表情と瞳はコロコロと変わる。
対するジャーヴィスはこれまでと打って変わっていきいきとした姿を見せる。ジルーシャがペンドルトン邸を訪れた際、息を殺したようにふるまうジャーヴィスに驚く描写があったが、ジャーヴィスがこんなにも自然に振る舞う姿を観客がこれまで観ることはなかった。
舞台の幕が上がって実に1時間20分ー初めてジャーヴィスが魅力的な男性ーいや、「ひとりの人間」として観客の目に写ったのだと思う。
初対面では手紙の中の人物として振る舞っていたジャーヴィスが、このシーンではジャーヴィス本人としてジルーシャと歩いている。
ジルーシャの反応を気にするジャーヴィスは、彼女の名前を2回呼ぶ。1回目は「楽しんでくれているのかな」と覗き込み、2回目は彼女の反応を伺う。ジルーシャがその視線を受け切れず、高鳴る旨の響きを隠すように視線を外すころに距離感の縮まる速度が見えてくる。
ジャーヴィス、いつもの貴方でいればいいのだよ。そんなにも魅力的なのだからと声をかけてあげたい衝動に駆られる。

そして、これは完全な余談なのだがー
この曲の歌詞は私に酷く響くものだった。
初めてタイムズスクエアの真ん中に立った時の感情や、雪が降りそうな曇天の日に目にした煌めく劇場街のネオン、リンカーンセンターや劇場の門をくぐり圧倒されたこと、メトロポリタン美術館の階段を駆け上がったこと、早朝のセントラルパークを散歩したこと、Saksで大学の卒業式用に買ったお気に入りのカクテルドレス、Avenue of the Americaを歩きながら足がステップを踏み出すのを止められなかったあの感覚、転職してNY本社に初めて足を踏み入れた時のこと…
マンハッタン。何度行っても、街に足を踏み入れれば自然に口角が上がり、歩幅が広くなり足取りは軽やかになる。
私にとってニューヨークは5歳の時からあこがれの街だった。そして足を踏み入れてからは頻繁に行けずとも常に近くにある街で、今住まう街や働いている東京と同じくらい愛してやまない街である。
2020年9月。現在、ニュースに映るマンハッタンは人影もまばらで劇場も開いてはいない。
でも、この歌の中には私が大好きなマンハッタンがそのままあったのだ。
「入り乱れる光 にぎやかな道」「この街はけっして眠らない」
そんな日が早く来て戻ってきて欲しいと切に願っている。

2年生の夏休み、再びサリーから夏休みをマクブライド家でとの招待をもらったジルーシャはダディに許可を求める。
サリーからの誘いは魅力的で、乗馬や釣りなどのアクティビティをサリーの兄ジミーに教えてもらうというもの。手紙に「ジミー」という謎の男の名が登場するたびに目を吊り上がらせていくジャーヴィス。
ジャーヴィスは沸き上がる嫉妬を手紙にぶつける。
「Mrスミスは貴方が昨年同様ロックウィローでの夏休みを過ごすことを希望されています」
盛大な音を立てて文字を吐き出すのはタイプライター。タイプライターで打たれた無機質な文字の羅列ーそれも命令形の文章を目にしたジルーシャがどう思うかなど考えも及ばないジャーヴィスは苛立ちに任せて手紙を出してしまう。

「Mrスミス、貴方のご指示に従います」
結局ジルーシャはサリーの誘いを断りロックウィローへ向かう。
窓の外は夕暮れ。1年前と同じ景色が広がる窓辺できれいな景色を見ることもなく、足を抱えるジルーシャの姿は所在無げで、マンハッタンの街を歩いていた時のような瞳の輝きは失われている。
1年前ならば彼女はダディの「命令」を素直に受け入れていたかもしれない。だが自分の足で立てるようになったジルーシャと思いがけない謎の男(実際ジルーシャにとっては友の兄に過ぎない相手なのだが)の出現に動揺するジャーヴィスの間にすれ違いが生まれるのは仕方がないことだ。
ダディは彼女にとって"世界で一番わからない人"になってしまった。
そして、彼女は「ひと月に1回の手紙を書く」という約束を初めて破る。

2か月ぶりに届いたジルーシャの手紙に、安堵するとともに、Mrスミスの正体を告白せねばと勇気を振り絞ろうとするジャーヴィス("なり得ない男")。だが、どこまで行っても正直に振る舞うことの怖いジャーヴィスはことさら不自然で言い訳がましいこじつけの手紙を書き、ロックウィローに滞在するジルーシャのもとを訪れる。
ズボンの裾をハイソックスの中に入れ、街中では被ることのないキャスケット帽の出で立ちだ。書斎から一歩足を踏み出せばそこはジルーシャのいるロックウィローだ。

ふたりはロックウィローで様々なことをして休暇を過ごす。10日を過ぎても帰る気配のないジャーヴィス…そして、ジルーシャが本来ならばジミーに教えてもらうはずだったアクティビティの数々を教えるジャーヴィスの満ちたりた表情!
本来、ジミーと一緒に得られるはずだった「経験」をMrスミスによって奪われてしまったことにがっかりしていたジルーシャが目を輝かせるのは当然だ。ジャーヴィスの筆舌に尽くしがたい大人げなさがジルーシャに与えた心の痛みを知ってしまっている観客としては心底腹立たしくもあるのだが、ジルーシャに戻ってきた笑顔を見れば何も言うことはない。

同級生の少し風変わりな伯父様は、初めて会った日からジルーシャにとって魅力的な人物であったに違いないことは容易に想像ができる。
学校での出会いで受けた彼の印象は、彼女の知っている世界を全て知っている、それ以上の世界を知っている年上の人。そして、その視線に何となく包み込まれているような錯覚を覚えていたものが、ロックウィローでの会話やスカイヒルへのハイキングなどの共通の時間のなかで精神的な距離がぐっと近づいていく。

特に、センプル夫妻が信奉するピューリタンのミサをサボタージュしてスカイヒルへと向かう描写は魅力的だ。
舞台の縦の空間は大掛かりな装置がないとなかなか使いきれないものだが、舞台上に置かれた沢山の箱を移動させ重ねることで、スカイヒルへとハイキングに向かう様を描写していく。この箱を用いた転換は景色を流れるように変化させ、ふたりが仲を深めていく時間軸を穏やかに描き出す。
スカイヒルの頂上から景色を見、焚火をしながら食事を共にし、降り出した雨をやり過ごすのに松の木の下で雨宿りをしー
ジャーヴィスとしてジルーシャの視線をしっかりと受け止める姿に自らの正体を明かせないジャーヴィスの後ろめたさはない。限りある時間をただただ愛おしみ楽しむ年相応の青年がいるだけだ。

あしなが蜘蛛の姿に今を生きることの大切さを自覚したジルーシャ。
その1年後、数日のバカンスを過ごす中でジルーシャへの特別な感情を自覚したジャーヴィス。
其々のシーン歌われた"幸せの秘密"は各々の心の成熟を描写しており、ミュージカルのリフレインが与える効果をじわじわと味わうことができる。
夏の始まりに所在無げだったジルーシャが浮かべる穏やかな笑みはしっかりと目の前にいるジャーヴィスに向けられている。ジャーヴィスを見つめるとき、彼女の瞳にかかっていた「若き日のダディ」というフィルターは外れ、ジャーヴィス自身に向けられている様がしっかりと見て取れる。
傍から見ていてそう感じるものを…当のジャーヴィスは受け止めきれないというのだから、本当に彼は救いがない男である。
自分が持ち得ない世界を見せてくれる他者というのは魅力的に映るものだが、その機会に恵まれなかったジルーシャが無自覚な好意を持つジャービスの魅力に引き込まれる過程を観客は優しい気持ちで見守っている。

3年生の夏休み、ジャーヴィスはジルーシャにパリ旅行を用意する。最も、誘ったのはジュリアであるが、彼女はそれを断る。
持つ者は何とも思わないだろうが持たざる者は「持っていない自分」に敏感に気が付く。友人たちとの関係の中でジルーシャは孤児院育ちという自分の出自に都度直面していくのだ。
ジルーシャがパリにやってくると疑わないジャーヴィスはダディへの手紙で彼女がパリへは来ないことを知らされる。これを知ったジャーヴィスはジュリアの従兄としてジルーシャに手紙を送る。
「君は愚かだ。こんな機会を逃す馬鹿者はいない」

あぁ、どこまでも愚かな坊ちゃん…
そんなことを書けば自立心に満ちたジルーシャがどう反骨するかなんて容易に想像ができようものを。
激しい往復書簡の応酬の末、策士としてはまだ幼いジルーシャは見事ダディに勝利する。バカンスをジルーシャに振られたジャーヴィスは「友達と出かけることにした。じゃあ」と精いっぱいの強がりを「吐き捨てて」て消える("煮え湯")。
当然、ジルーシャはその様までもコミカルにダディへ報告する。
ジャーヴィスは自分で仕掛けた戦いによって受けた傷口に、ジルーシャがダディに宛てた手紙で塩を塗りこまれるというダブルパンチを受けるのだ。

そう、冒頭でジルーシャの手紙を無視し続け、彼女の精神をギリギリまで追いやったジャーヴィスが、今度は彼女の可愛い反撃により精神的にダウンするのだ。
立場が入れ変わった自然なシーンのリフレインも物語の時間経過とふたりの成長の過程を描いていく。

「貴方以上に心が揺さぶられる人を思うことを、貴方はどう思うかしら」
ジルーシャの心はジャーヴィスの言動によって激しく揺さぶられている。
そのことをダディに打ち明けるジルーシャ。その顔の浮かぶのは悲しみではなく諦め。
ジャーヴィスは丁寧に書かれたジルーシャの恋心に顔を曇らせていく。ジルーシャからの楽しみだった手紙が、秘密を抱えたままのジャーヴィスの心に重くのしかかり、彼の頭は静かに沈んでいく。
だが、坂本ジルーシャはジャーヴィスとの関係を語るときに決して横を向かない。そして下も向かない。ただ、視線の先に見えている「ダディ」に向かって正直な心の内をぶつけていくだけだ。
このさもない対比がすれ違うふたりの立場を巧く表現している。

4年生になったジルーシャはダディとの約束である文筆家としての活動を開始するために出版社に原稿を送る。が、原稿は即座に返送されてくる。
辛辣なプロの批評は彼女の足を焼却炉へと向かわせる。
清掃員は何も言わず、焼却炉のふたを開けてくれた。原稿を焼却炉に投げ込む瞬間の思いを彼女は「我が子を火葬するような気分であった」だとダディに告げる。

これまでのジルーシャの手紙にはなかったほの暗い表現。
幼児が少女に、少女が女性になる過程で傷付き、傷付くことでしか得られない「実感」を初めて文章にしたのがこの瞬間だった。
でも、ジャーヴィスはその手紙をただ眺めることしかできない。彼女が文筆家としての成長を見せた瞬間であったにもかかわらず。自らのことで精いっぱいのジャーヴィスはその片鱗に気付く力さえ残っていないのだ。

残りの1年はあっという間に過ぎ、ジルーシャは卒業の時を迎える。首席だ。友人ジュリアの参列者はついけんか腰になってしまうジャーヴィスだ。
「私にはリペット院長と私に教育を与えてくれたダディ、貴方しかいないのよ。この日だけは」と参列を乞う手紙を認める。

卒業式当日ー
ジルーシャは卒業証書を手に深い呼吸をして参列者の席に視線を送る。
スポットの中には誰も座っていないジルーシャの参列者の為に用意された席が浮かび上がる。

3年前、病床に届けられたバラの花束を手にした時、ジルーシャは確かにダディが存在することを感じていた。手紙の返事はなくとも、ダディの心が示されたことでジルーシャの心は平穏を手に入れていた。
友達ができ、ジャーヴィスという魅力的な人物と出会い、ダディへの精神的依拠は徐々に減っていった。
だがジャーヴィスとの不安定な関係、そして「援助をする者」と「援助をされる者」というダディとの関係が卒業式をもって終わる事実をはっきりと認識した時ジルーシャはバラの花束をもらった時に封印したダディへの思いを心の奥から引きずり出す。

「貴方はここにいないのね」("卒業式")
そう歌うジルーシャの目はまっすぐに誰もいない席を見つめている。
震える声を一生懸命振り絞り歌い、笑ってみせようとするジルーシャに不思議と痛々しさはない。
グラデュエートキャップをゆったりと外す動作は傷付いて抜け殻になった大学生のジルーシャを静かに穏やかに葬るように見えた。

「僕はここにいる」
誰も座っていないスポットの並び、ジャーヴィスは彼女の親友の参列者として座っていた。
真上から落ちるスポットは井上ジャーヴィスの顔に影を落とし表情をクリアには見せないが、優しく穏やかな声がジルーシャの震える歌声に呼応する。
ジャーヴィスとジルーシャはしばらく顔を合わせておらず、その間にジャーヴィスは精神面が成熟してきているように見えた。それはきっとダディに宛てられたジルーシャの素直な声に真摯に向き合ったからこそなのだろうと。

卒業したジルーシャをしっかりと見送ったジャーヴィスは、ひとり彼女の卒業を祝う("チャリティ")。
ジャーヴィスは自分の手元には彼女からの手紙以外何もないことに、ことここにきて気が付いてしまったのだ。金銭的支援の上にしかジルーシャとの関係は成立しないことに。
だが、自らが彼女自身と対峙しなかったことを悔いる表現はここにはない。超えられない壁を作ってしまった自分。だが、金銭的支援なくしてはすれ違うことさえなかったふたりの人生がそこにはある。彼の心はジルーシャの存在を求めているのに、その心に正直になることも叶わない。
「与える者」と「与えられる者」が逆転していたことを歌う彼の表情はジルーシャ同様、ジルーシャとの関係を密かに葬るかのような穏やかさがあった。

そしてこの"チャリティ"はミュージカル俳優・井上芳雄の独壇場だった。
どん詰まりにあるジャーヴィスの気持ちとは反対に心地よく伸び上がる声。泣くのを堪える声なのにしっかりと伸びてくる。この曲が持つ性質と相反する彼の声によって観客はジャーヴィスの行き場のない心に思いを寄せることができるのだ。

この何もかもが少しずつかみ合わないーすれ違い続けるふたりのい物語が酷く悲嘆にくれた重いものにならないのはジルーシャの生命力の強さがそれを支えているからに他ならない。
ロックウィローに移り住んだジルーシャからダディへ宛てられた手紙には小説が売れ原稿料を受け取ったこと、そして1,000ドルもの小切手が同封されていた。ジルーシャとの関係が消滅したと思っていたジャーヴィスのー驚きに満ちた、そしてその後に弾けた笑顔には思わずこちらまでつられてしまう。
パリに行こうとわがまま放題を言い続けた坊ちゃんが"卒業式"から"チャリティ"にかけて精神的成長-大人になる姿を見て、観客はジャーヴィスに幸せになって欲しいとの思いが芽生えてくる。

ジルーシャは残り2,000ドルをダディに返し終えたら、その後の原稿料はダディがしてくれたように孤児院に寄付をして賛助員になると宣言する。
「貴方は嫌でも私に会わなくてはならないのよ」

あぁ、なんてジルーシャの精神は柔軟で格好いいのだろうか。
柳のようなしなやかさで人生で得たすべてのモノを自らの糧とし、力に変えて進んでいくのだ。

志高く自立した女性への一歩を踏み出したジルーシャ。"チャリティ"で自分がジルーシャとは対等な関係になく、彼女の卒業をもってもう関係がなくなってしまうのだとどこかで思っていジャーヴィスの弾ける喜びと、彼女に会いに行こうと決意する様は2幕冒頭の"My Manhattan(リプライズ)"で。
このアレンジは彼の浮き立つ心にとてもしっくりくる。そして井上さんのどこまでも気持ちよく伸びる声にも。
ただ、こういったシーンでの明るいトーンの楽曲は僅かながらの嫌な予感を引き連れてくる。

ジルーシャの元へと駆けつけたジャーヴィスは跪きプロポーズをする。
…ダディの正体が自分であると告げることはなく…!
観客の嫌な予感は的中する。ジャーヴィス、君はなんて君は臆病なんだ。
「ジャーヴィスとして私がダディと言うべきか」
「ダディとしてジャーヴィスと名乗るか」
君はそう言っていたというのに。カミングアウトすることをこの期に及んで恐れている。嘘で固めた心の奥で小さくなっている11歳のジャーヴィスが垣間見えた瞬間、舞台はジルーシャのスポットに切り替わり、ジャーヴィスはすっくと立ち上がり踵を返す。

このスポットライトが切り替わる描写は1幕でバラの花束を手配したジャーヴィスが手配した瞬間で一度使われたきりの手法だった。
あの時との違いは、スポットが完全にブラックアウトせず無表情なジャーヴィスが去っていくのが見えることで、ジルーシャが自分自身が作り上げた怯えの中に逃げ込んだことを伝えてくる。

ジルーシャは再び筆を執り、ジャーヴィスのプロポーズを断ったことを告白する。
パリ旅行の時には既に芽生えていた「持つ者」と「持たざる者」の悲哀。「持たざる者」であるジルーシャは、出自の分からぬ自分が名家のジャーヴィスにふさわしくないことを誰よりも理解していると。私が孤児であることを告げられないと。
プロポーズを断ったジルーシャ。それでも昇華しきれない恋心を歌う坂本ジルーシャは感情を闇雲に爆発させるわけではなく、張り裂けそうな思いをどこか淡々と歌い上げる。ダディに癇癪を向けた時のような激しさもなければ、卒業式の時のように掠れ震える声ではない("心を引き裂いた")。
感情をきちんと表に出せるようになったジルーシャが引き裂かれる心を静かに響かせるこのシーンは物語のクライマックスだ。

一方、プロポーズを断られたジャーヴィスからは一切の感情が消えている。気だるげにジルーシャからの手紙を開けば、自分のプロポーズを断ったという文字が並ぶ。目を閉じたジャーヴィス。震える手と、頭の奥にツンと来るほどに顔をしかめたジャーヴィスに去来した思いは何だったのだろう。
後悔とは少し違う、自分でも処理しきれないただただ心の痛みを前面に出してくる演技だったと思う。

「感謝の言葉を告げてはならない」
偏屈ジャーヴィスの所為で、ジルーシャは間接的な言葉でダディへ心を伝え続けてきた。そしてジャーヴィスもいつしかその心を受け取るようになっていた。
「私の心を救って」というジルーシャの叫びを受け取れるまでにジャーヴィス自身も「成長」していた。

ジャーヴィスは勢いよく立ち上がり、ついにペンを取る。
「若き御婦人。会いに来てください。来週水曜日、マンハッタンの家へ」

原作の小説でその多くは語られないジャーヴィス。
もちろんふたりが同時に表現されることもない。だが、舞台では最初から最後まで同じ時を舞台上の異なる空間でふたりは同時に存在する。
孤児のジルーシャという社会的弱者を見守ってきた観客はその自立の過程に安堵を覚え、いつしか人間が誰しも持つ弱さや自信のなさ、心の歪みといったものを具現化したかのようなジャーヴィスをもどかしい思いで眺めることになる。
そんなジャーヴィスを励ましたり応援したりー時には呆れたりもする過程で、翻って自分はどうかと自問自答しながら。

すべてを告白するためにジルーシャを呼び出したジャーヴィス。
ジルーシャはどんな顔をして彼の部屋の扉の前に立ったのだろうー
そんなことを思いながら舞台奥の扉に目をやろうとすると、坂本ジルーシャは私の予想に反しためらいなく扉を開き部屋に勢いよく飛び込んできた。
この時を待っていたとばかりにー
ジャーヴィスのプロポーズを断ったことで深く傷を負ったジルーシャにとって、ダディからの手紙がどれほど彼女の希望になっていたことか!

そして。
幕が上がってから2時間以上、分断されていたジルーシャが生きてきた世界とジャーヴィスが籠ってきた世界がようやくひとつになる時が来た。
ジルーシャは部屋の中央に座る後ろ姿のダディを目に止める。
ようやく会えたという感慨よりも、好奇心が勝ったかのような表情は少し大人びてはいるものの大学に入ったばかりのジルーシャを再度思い起こさせる。

物語冒頭、背筋をしゃんと伸ばし椅子に座っていたジャーヴィス。
ゆったりとした所作を見せていたジャーヴィス。
そんな育ちの良い、ちょっと偏屈な彼はもういない。
長い足を折り畳み、内巻き気味な肩には一片の自信も見えない。そして、正面を向く勇気もない。丸まった背中は90歳ーとまでは言わずとも相応に年老いた男性のそれに見える。

そんなジャーヴィスに声をかけるジルーシャ。
ピクリとも反応できないジャーヴィス。
もう一歩、ジャーヴィスに近づき、Mrスミスの名を呼び。
ジャーヴィスの顔を捉えた瞬間、混乱で取り乱す彼女が怒りに続き羞恥に染まる坂本さんの鮮やかな様と表情よ!
「なぜここにいるの!?」
「(消え入る声で)いや」
「あ、貴方…まさかMrスミスの秘書?」
「違う…」
「じゃぁどうして」

ジャーヴィス、この期に及んで逃げるの?こんなにもシリアスなシーンなのにジルーシャの慌てふためく反応とジャーヴィスの臆病なやり取りに観客はくすくすという笑いが堪えられない。
物語の最後がハッピーエンドであることの確証を得ている観客はジャーヴィスの勇気ある告白を待っている!

「僕がMrスミスなんだ」
受け入れがたい告白に呆然とするジルーシャ。
「…私の手紙、読んだ」
「孤児院の出だってことも?」
「プライベートな内容なのよ!?」
絞りだした言葉はダディ=ジャーヴィスということがわかってしまえば意味をなさないとんちんかんな質問ばかり。その言葉に激しく走る動揺と平静さを取り戻そうとするジルーシャの健気さが垣間見え、どこまでも愛おしい。
そして、それ等の問いに「こくん」とうなずくことしかできない「ジャーヴィー坊ちゃん」の頼りなさ!
さぁ、ちゃんと返事をしよう、ジャーヴィス。It's your turn!
「だって、貴方!」

「君が悪いんだ!
 支援相手に興味なんてなかったのに、あんな魅力的な手紙を送ってきて!
 だから興味がわいてしまったんだ!」

言葉では勝てないジルーシャが喋りだしたのを大きな声で遮り、彼女の声をかき消したジャーヴィスの姿は11歳よりも幼い子供のよう。

期待、驚き、怒り、羞恥、怒りと目まぐるしく自分を襲う感情の波を坂本さんは自在に操っていく。
子供のように思いを吐き出したジャーヴィスは彼女の眼には所在無げなかつての自分に見えたのではないだろうか。
彼の背中に見えるのは自己嫌悪-彼女がダディからの返事をもらえず混乱する中で書きなぐった言葉とまるで同じだったのだから。4年ばかり早く、大人になっていた坂本ジルーシャは感情をコントロールしようと努めている。

「…続けて!」
坂本ジルーシャはジャーヴィスに本心を見せないように怒りの表情をわざと作り、肘のあたりのブラウスを握りしめ、自らの顎で軽くジャーヴィスに促す。物語最終盤になってさえ、ジルーシャは新たな表情で異なる魅力を見せつけてくる。
ジルーシャはこれまで自分の肘や腕を触るー腕を組むような動作をしてこなかったと思う。彼女がここにきて初めて行った動作は彼女の動揺の大きさと、それを悟られないようにしようと必死に振る舞う乙女心のせめぎあいが見られ、その可愛らしい健気さに観客が柔らかな笑顔になるのを禁じ得ない。

他方、言葉を発するたびに所在無げになっていく井上ジャーヴィス、いや、ジャーヴィー坊ちゃん。客席から送られる「ほら、ちゃんと言いなさい!」という無言のプレッシャーもあってか、彼女が部屋に入ってきてから背中が泣き続けている。

「最初からあなただったなんてね」
井上ジャーヴィスは顔をあげることができない。思いの丈を吐き出したにもかかわらず、ジャーヴィスはジルーシャが部屋に入ってきた時よりもさらに小さく見える。
この時、マイクには入らない、ジルーシャの呆れるようなため息が聞こえた気がした。ジルーシャの優しい表情はきちんとジャーヴィスに向けられているのだから。

「禿げてなくても許してあげるわ!」
あぁ、こんなウィットに富んだセリフを、眉間に寄せたしわを緩ませながら、嬉しくて泣き笑いになっているジルーシャの口から聞くなんて。

ジルーシャが差し出した片手を両手で包むジャーヴィス。
その上にもう片方の手を重ねるジルーシャ。お互いの手をゆっくり重ね合わせ、心がほわっとなったのもつかの間、「私が上!」「僕が上!」と一番上に置く手を互いに入れ替えるふたり。
互いの顔ではなく、入れ替わる手を見つめる。
ジャーヴィスが右手を一番上に置いたところで、自分の手をその上に重ねることを止めたジルーシャ。
ここで、ジルーシャが部屋に入ってきてから初めてジャーヴィスは顔をしっかりあげてジルーシャの顔を見つめる。相変わらず不安の色が残る情けない顔をしているが所在無げな表情ではもうない。

そして、はじかれたようにジルーシャをしっかり抱きしめるジャーヴィス。
手を取り合うときーあんなにもゆっくり怖々と手を差し出したというのにー手を入れ替えるという子供の遊びのような短いコミュニケーションの中でジャーヴィスがどれほどジルーシャに心を開いたかが抱きしめる動作に見えるいい演技だったと思う。最後にやっと自分から行動できたジャーヴィス。

少し遅れて彼の広い背中をしっかりと握りしめるジルーシャの手。一度で彼の広い背中をしっかりとつかめず、滑りそうになる手をもう一段腕からのばしてしっかりと握りしめる姿にまた心を持っていかれた。

【追記 - 2020.9.28】
日本版の演出が手を握ってハグをするものなのかと思っていたのだが、過去はオフブロードウェイ同様、キスシーンだったとのこと。
コロナ対策での演出変更とはいえ、このふたりにはキスよりもこの不器用な心の確認がしっくりくるように思う。素敵な演出なので、コロナが落ち着いてからも是非演出の選択肢に残ることを願う。

文字にするとこんな言葉でしか表現できない舞台なのだ。
その舞台がこんなにも心を満たしていくなんてー

ひとりの少女が書き続けた手紙をただ読み続けただけなのだ、このミュージカルは。手紙の中に沸き上がる感情を、手紙の受け取り手である謎の紳士を舞台上に登場させることで見事に昇華させているから気が付きにくいが。
本当に「それだけ」なのである。

過日、井上芳雄がミュージカルとストレートプレイの違いについてこのようなことを言っていた。

「ミュージカルとストレートプレイは真逆だ。ミュージカルはクライマックスのドラマチックな部分を更にドラマチックにするために歌や踊りで表現する。片やストレートプレイは物語が起こる前後を丁寧に描き、ドラマチックな部分は直接表現しない。」
出所:「井上芳雄×中川晃教」初のリモート飲み【後編】https://www.youtube.com/watch?v=3Abhn5vvxL8

Daddy Long Legsという作品はミュージカルという形態をとりながら、ミュージカルらしさのない作品だった。心の動きを丁寧に描写するそれは、ストレートプレイの手法そのものだったように思う。
かといって音楽劇や歌劇かと問われればそうではない。
やはり、ミュージカルなのだ。芝居とミュージカルの境目がないほどに作りこまれた良質なミュージカルなのだ。

全編に流れる音楽はすべてが穏やか。
突出した世界観を持つ曲も奇抜さ伴う音楽もない。ひとつひとつが胸に響くが、主張する曲はひとつもない。
感情の振幅はあるが、基本的には穏やかな凪の中で進んでいく物語はチェロが紡ぐ重低音の心地よい音に支えられていた。
そのチェロが奏でる旋律に感情を声に乗せる天才の坂本真綾が「親愛なるダディ」と発し、音のない世界に孤独に鳴るピアノの旋律に歌で思いをぶつける天才の井上芳雄が歌う。

脚本と演出、演者と音楽、丁寧に選ばれたセットと小道具、適度な空間と照明ー全てが揃うとこんなにも舞台というものは煌めいて、満ち足りた気持ちを残してくれるのかと。
柔らかな風がずっと吹いているかのような、川面にひらりと落ちた葉っぱが穏やかな流れに乗って大海まで旅をするかのようなー
全てのものが自然のうちに辿り着くべき場所に辿り着いたー
そんな舞台だった。

はっきりと言語化をしたことがあるわけではない。
だが、自分が舞台に望んでいたであろうものがすべて詰まった「たからもの」のような舞台だった。

観劇に衝撃はない。ただただ、幸せな時間を過ごせた。
至福の時だった。
そして、観劇から時間が経った今もしみじみとしあわせをかみしめている。

劇場を出ると雨は上がり、濡れた道にネオンの光が反射していた。
雑然とした池袋の街の向こうに、セントラルパークに秋の柔らかな木漏れ日が降り注ぐーあたたかな光を感じながら帰路についた。
千秋楽を翌日に控えたこの日、素晴らしい観劇に誘ってくれた友人に心からの感謝を伝えたい。
数日後に、またひとつ歳を重ねる自分にとって、自分の過ごしてきた人生を振り返る時間にもなったことも書き添えておく。

そして、この日。
こっそりウィスキーを開けたのはジルーシャには秘密である。

ダディ・ロング・レッグズ ~足ながおじさんより~
2020/9/26 (土) 17:30
東京建物 Brillia HALL
1階E列 センターブロック

ジルーシャ・アボット 坂本真綾
ジャーヴィス・ペンドルトン 井上芳雄

音楽・編曲・作詞:ポール・ゴードン
編曲:ブラッド・ハーク
翻訳・訳詞:今井麻緒子
演出:ジョン・ケアード


Revised

・September 30, 2020
 Daddy Long Legs Off-Broadway version 2010 / 2015
 再生に伴い追記・表現修正

・September 28-29, 2020
 インタビュー記事等を読んだことを追記

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