感情と社会 1

はじめに

ここ30年ほどでしょうか、人間やその活動、社会や文化などを研究する人々の間で、「情動論的転回 affective turn」ということばが頻繁に聞かれるようになりました。人間を考察する上で、ありとあらゆる場面で、情動が基本的で決定的な役割を果たしているのではないか、という立場を一括して表したもののようです。その華々しい始まりは、よく、アメリカの脳科学だと言われたりしていますが、情動、あるいはもう少し前から、特にフランスの歴史学で使われていることばを使うと、心性と呼ばれるものが、人間の社会活動をほぼ決定しているのではないかという研究は、すでに第2次世界大戦前のフランスの歴史学やドイツの社会学などで大きなテーマになっていました。

ぼくがこうした動向の重要性に思いが至ったのは、もう21世紀に入ってからのことなのですが、自分なりに、感覚や情動と呼ばれているものが、人間を理解する上でじつは最も肝心なことなのではないかと、それ以前から感じ続けていました。

物心がついた頃からずっと、芸術の世界に親しんできたせいもあって、子供の時からぼくは心の動きにかなり敏感で、そのせいでしょう、思春期あたりから、心の研究をしている書物にとても興味を覚えるようになっていました。高校の頃に、フロイトを読んで、けっきょくほとんど理解ができなかったのを覚えています。それからずっと、大学では、文学、美学、芸術学、哲学、文化論、認知心理学、大脳論、認識論全般、臨床心理学、動物生態学、そして心性の歴史など、分野としてはいろいろなところを渡り歩いてきましたが、ぼくの関心が、人の心というところから外れていたことは一度もなかったようです。

いろんな書物を読み漁っている中で、フランスで大規模に行われている心性史の研究に出会ったのは、ぼくにとっては大きな事件でした。現存している資料を遡れるだけ遡って、人類の営みの歴史を、心、情動という視点から描き出していくという壮大な試み。それは、ぼくにとっては驚きに満ち溢れた新たな歴史物語に溢れていました。歴史学者によるこの努力は、ぼくの心の中で、精神病理学、臨床心理学、感覚理論、認知理論、神経生理学、動物行動学などで知ったことと、すぐさま反応を始めて、ぼくなりに、感情、情動、心性といった概念で、ヒトを大きな枠組みで見つめる機が熟していったように思えます。

感情そのものを語るというのは、じつに困難な試みです。いかに<客観的>たろうとしたところで、ぼくは自分自身の感情から逃れることはできません(<客観>という物語が生まれた歴史的な経緯、あるいは感情的な事情については、後ほど詳しくお話しします)から、ここでぼくがお話しすることはぜんぶ、ぼく自身が生きていこの文化圏の中で、そして現時点という歴史的にとても限られた時刻の中で作り上げられた感情から発するものです。ですから、そのすべてが、とても個人的な偏見であると批判されても、それに対して返す言葉を、たったひとつしか、ぼくは持っていません。批判をする人もまた、自分自身の感情から逃れた、模範的に<客観的>な、どう表現すればいいんでしょう、感情とはまるで無縁な、知的で緻密でバイアスのかかっていない無謬の計算を行なっているという確信など、持ち合わせていないはずです。

ぼくはぼくの感情が生み出した価値感で、ずっとお話をしていかざるを得ません。ぼくが大切にしたいと欲求するもの、ぼくが告発したいと思うもの、そういったものが紡ぎ出す物語が、この試みのすべてです。

この文章はもともと、2020年からSNSに書き続けてきたものを、まとめて手直ししたものです。ひとつひとつの節に、ちょうどその時に読んでいた本のことや、飛び込んできたニュースなどが織り込まれています。ぼくは、こういう時間性、そのときでなければ起き得ないような思いなどは、考えること、考えを文章にして人に何かを伝えようとすることにとって、とても本質的なことだと思っています。古典的な理論書のように、歴史と時間を消去して人類の<真理>に貢献しようという、「知的」な営みに特有の風習から得られることは、ぼくにはあまりないように思えます。


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