感情と社会 20
暴力が止まない現実をどう感じ取るか
ニューヨーク・タイムズでベストセラーと報じられて、ビル・ゲイツも「永遠の一冊」という賛辞を送っている、スティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』では、カントやエリアスを援用しながら、人類が<文明化>と<民主化>のプロセスを進んでいるおかげで、暴力(とはいえピンカーの言う暴力は殺害という物理的にわかりやすいものに限られています)が近代以降確実に減少しているのだ、と、たくさんの統計データを示しながら主張しています。
エリアスの著書を、こんな風に人間の文明化を賛美しているかのように捉える傾向は、珍しいものではありません。でも、このような捉え方は、エリアスの論調と、そして何よりも、この著書が書かれた当時の時代状況を、あまりにも軽く受け止めているように思えます。とりわけ、エリアスの著書にずっと流れている不穏で重苦しい情緒を、きっとピンカーは感じ取っていません。
以前にもご紹介した、エリアスの『文明化の過程』のあの箇所を、もう一度引用しましょう。
「国家同盟やさまざまな種類の超国家的単位による地球を取り囲むような緊張体制の最初の輪郭が見られる。地球全域に広がる排除闘争ならびに覇権闘争の前触れが、地球全体にわたる暴力独占を形成するための前提条件が、地球全域に及ぶ政治的な中央の制度を確立するための前提条件が、そしてまた地球上の平和化のための前提条件が見られる。」(『文明化の過程』下巻 pp.473-4)
「緊張 Spannung」「排除闘争 Ausscheidungskämpfe 」「覇権闘争 Vormachtkämpfe」「暴力独占Gewaltmonopol」。物騒な単語がずらっと並んでいます。
エリアスは、文明化のプロセスが進むにつれて、やがて国家を超え出た地球規模の組織が、地球上の平和維持のために出現するだろうと、たしかに述べています。そしてそれは、国際連合の成立によって、あるいは(ピンカーが加えている)アメリカ合衆国を中心とした多国籍軍の活動によって、実現しているかのようにも思えます。
しかしエリアスは、地球規模での平和維持のプロセスがどう起きるかも描いています。それは「地球全体に広がる排除闘争ならびに覇権闘争」が当時始まっていたということであり、そして「地球全体にわたる暴力独占を形成するための前提条件」としても動き始めていた、ということなのです。この、超国家的な暴力管理というエリアスの考えを、ピンカーも否定はしていませんが、肝心なのは、エリアスはそれが「文明化」が引き起こす<よいこと>だとは、どこでも述べていないという点なのです。
ピンカーが指摘する通り、物理的にわかりやすい暴力の行使、つまり殺害は、たしかに統計上、個人のレベルでは減少の一途を辿っているのでしょう。ただそれは、<暴力はなくなっていきつつあるのだ>という簡単で素朴なまとめに落とし込んで、それで済むようなことではありません。
ピンカーが指摘する通り、またエリアスがはっきりと述べている通りなんですが、権力装置による統治が確固たるものになっていくという歴史的なプロセスの最中で、権力装置は(それが「国家」であれ、特定の「民族」や「宗教的イデオロギー」でまとまっている組織であれ、あるいはまた「国際的な」機関であれ)暴力もまた、その権限のひとつとしてその管理を強めるようになったことを示しています。暴力、ピンカーに従うなら、ある程度の人数を殺害するという行為は、権力装置が堅固になるにつれて、私的な行為ではなくなりつつあるということです。これは喜ぶべきことなのでしょうか?
1936年という、すでにユダヤ人をはじめとするホロコーストが勢いを増していて、国力を誇示するための祝祭として、(2021年同様)異様なオリンピックが開催されていた年、そして数年後の他国への侵攻がすでに明瞭になっていた年に、エリアスは先ほど引用した文章を書いていました。イタリアのファシスト党はもう数ヵ国を武力で併合、イギリスは中東を徹底的に痛めつけ続けていて、日本は中国大陸と朝鮮半島を荒らしまくっていました。まさにこの時期、「超国家的」な暴力管理、つまりは支配機構による、じつに整った暴力の行使が行われていたわけです。とりわけドイツの勢いには当時すさまじいものがあり、エリアスの目には、ひょっとしたら来るべき「政治的な中央の制度」に、ドイツ帝国が大きく関わる可能性があると映っていたのかもしれません。そうだとしたら、まさに悪夢です。
現代、暴力がまさしく権力装置の独占事項になったことを、ハラリはこう表現しています。
Some people think they can advance their own interests through hatred, violence and death. They call it politics. It also goes by the name of human sacrifice.(Yuval Noah Harari Twitter 2021.05.13)
自分の利害を推し進めるには、憎悪と暴力と死を用いればいいのだと考える人たちがいる。彼らはこれを政治と呼んでいる。それは、人的犠牲という名前でもまかり通っている。
ぼくが政治と感情をテーマにした文章を書き始めた時からずっと、権力を目指す人の心は残虐性を持っていることを、通奏低音のようにお話ししてきました。歴史を振り返ればその通りで、権力者はもっぱら ーそう言っていいでしょうー もっぱら残虐性の具現としての暴力をあからさまに行使して、いわゆる<政治>を維持してきたわけです。そして、残虐であることをなんとも思わない人々の心には、他者に対する際限のない憎悪、他者を倒すべき敵としか感じない感情があります。引用したハラリのことばをこの流れで敷衍すれば、他者に対する自分の際限のない憎悪を取り除くために、暴力を独占することでそれを達成する。そうやって(決して長続きする見込みもない)一時の安心感を手に入れる。安心感を持続させるには、憎悪への報復としての暴力は際限なく残虐である必要がある。暴力の到達地点は死、敵の徹底的な排除であるにしても、できる限り苦しませて、できる限り無情を味わわせて、自分を相手にすれば救いなど微塵もないのだということを思い知らせておく必要がある。こうした行為を「躊躇なく」押し進められる人が、集団をまとめるという欲望を激烈に抱くのでしょう。そしてそれが、ホモ・サピエンスにとっては不幸なことに、フーコーが告発しているpolice 治安維持と語源を共有している、politique 政治へと連なる観念としてまとめ上げられ、正当化され、さらにそれが modernisation、civilisation という<栄光の>衣をまとって、現在まで悪夢の踊りを続けています。
ぼくたちは、この踊りが悪夢だとは感じにくい。長い長い統治(police(治安の維持)を掲げる権力という暴力的小集団)に慣らされていくプロセスの中で、ぼくたち被支配民が、あるいは必要に迫られて、あるいは奇妙な支配層への憧れから、あるいは上昇への欲望から、政治が(つまり政治という名前で支配に関わっている一握りの残虐な人々が)持っている奇妙な感情的ルールを、それはまさに自分のものなのだと感じ続けて、内面化してしまっているからです。
エリアスは、物理的であからさまな暴力の行使が国家権力の権能に吸収されていく過程で、個人のレベルでの暴力的な情動が、<私的な暴力はよろしくない行為なのです>という、支配者が(彼らにとってうってつけなので)強要してくる社会的なルールの要求を内面化した結果の道徳感情と、個人の心の中で乖離してしまう可能性も指摘しています。
目の前で自分が大切にしている人が暴行を加えられた、あるいは殺害された時に、「文明人」は激情に駆られてその暴行者に暴力での報復を「してはならない」。悲劇に見舞われた「文明人」は、「法律に従って」<私的な>感情を抑圧「しなくてはならない」。その葛藤の凄まじさは、とてもとても、想像したくないくらいです。この「文明人」が、なんとか<私的な>感情に任せた行動に出ることを思いとどまれば、たしかにその場での暴力行使は起こらなくなります。でもそれは、お気づきだと思いますが、暴力に訴えたいという衝動が、跡形もなく消え去っていることと、決して同じではありません。「文明人」に与えられた、<私的な>感情と<社会的な>ルールとの間の葛藤、この緊張状態は、そっくりそのまま、その人の中に残ったままなのです。これは、<統計的>に暴力行為が減少している、という見解とは、まるで違う心の光景を表しています。<報復の連鎖>は良い結果を生むはずがない、ということは確かだろうと思いますし、そう言うのはたやすいことですが、ぼくやあなたが、報復をしたくなるような状況に巻き込まれたと想像してみてください。それが生み出す葛藤を、ぼくはとてもとても、あっさりと<合理化>できる自信がありません。
「文明化」のプロセスは、個人の心の中に<社会的な>ルールの内面化を引き起こしました。これは未曾有と言っていい、手に負える見込みのない葛藤をぼくたちの内面に植えつけました。報復として暴力を行使することで、ある程度は感情の荷下ろしができるはずかもしれないのですが、<文明化>が進んだ、あるいは<文明化>を強いられ続けたぼくたちは、内面化されたルールによって、私的な暴力の行使を制御され、抑圧されるに至りました。でも、制御と抑圧で、ぼくたちの暴力への欲求はあっさりと消え去ったのか。ぼくたちは「定言命法」という「理性の声」(プロテスタントの巨頭、カントのように)に従う<文明人>になり遂せたのか。(「定言命法」をカントが kategorischer Imperativ と名づけたことと、彼が絶対王政、あるいは帝政Empire を政治体制として支持していたことは、偶然ではないように思えます。Empire と Imperativ は、語源が同じなのです。)
そんなことはありません。権力機構がしっかりと権限を握っている法的組織。police と呼ばれる制度的に管理された暴力装置(警察が単なる暴力装置であることは、ミャンマーで、香港で、起きていることを見ればすぐにわかりますし、日本でも警察という職種の人間だけが、穏やかな日差しがあたっている、ごく普通の商店街でも、銃と棍棒を持って歩いています。その光景は「当たり前」なことなどではなく、支配機構が暴力を独占していることを見事に表現しています)。そして内面化された行動原理としての<倫理>。これらすべてが、ぼくたちが私人のレベルで行使できたかもしれない暴力を、まさしく<内なる声>として抑止しています。私的な暴力への欲求は、こうして巧妙に、自分でもそれを正当なものだと思い込むほどに巧妙に、抑圧されただけで、じつはずっとずっと、心の中に住み続けています。
ピンカーのように<暴力=殺害行為>なんだ、と決めつける単純な指標で見えてくるものは、ホモ・サピエンスの集団のごく一部の現象にすぎません。また、そうではない、私的に抑圧されて内面の奥底に沈み込んでしまっている<暴力への傾向>も、ピンカーが言うような、進化生物学的な決定論で片づけられるようなものでもありません。
ぼくたちホモ・サピエンスが持っている感情というものは、狂気を論じた折のフーコーが明らかにしたとおりで、<理性>とそれに反するもの、あるいは認知機能と情動機能、といった具合に、簡単に分割して隔離できるような、そんな手やすい相手ではないのです。それはぼくたちの心の本体であり、それはぼくやあなたが生まれ落ちた時代と場所と環境のすべてに、貫き通されてしまっているものなのです。
エリアスの言う、<文明化>による暴力性の内面化という考え方は、フロイト流の単純な抑圧理論だという批判を受けることがあります(プランパーはエリアスの言う「情動のエコノミー Ökonomie」を、フロイトに由来している機械的な「気圧式モデル」だと批判したローゼンワインを援用しています ー ヤン・プランパー『感情史の始まり』p.86)が、果たして事情はそれほど単純なんでしょうか。理論に整合性があるかということに自分の<理性>を使い果たすよりも先に(つまり、「私はあくまでも知的に考えていて、感情をしっかりと排除しているのだ」、と思い込むよりも先に)、<文明化>されたぼくたちの「輝かしいenlightened, éclaire, aufgeklärt」現代社会における暴力のあり方を、見てみませんか。まっすぐ、ちゃんと。
都市化が進んで、近隣に暮らしている人たちが誰かもわからないという疎外 alienation が急速に進んだ19世紀のアメリカとイギリスで、推理小説、20世紀になると mystery と呼ばれるようになるフィクションが生まれました。識字率の飛躍的な増大、大衆消費社会の拡大などにも後押しされて、この<娯楽>は未曾有のヒット商品になります。
読者はそこで、主に殺人という犯罪を(もちろん心、つまり情動というスクリーンに映し出されたイメージとして)体験します。このフィクションは今日に至るまで衰えることを知らず、本の中で、テレビ画面の中で、劇場のスクリーンで、端末のモニターの中で、今もたくさんの殺人者がスターとして活動し、それに合わせてたくさんの人たちがあっけなく殺されています。それをぼくたちは、<娯楽>として享受しています。
ハリウッドに代表される大作娯楽映画でも、大量の人たちが殺害されます。切断され、銃弾を浴び、血しぶきが上がり、手足がもげ、頭が吹っ飛び、体が粉々に粉砕され、炎に包まれる断末魔を、いくらでも見ることができます。映像を眺めながら、ぼくたちは(なんならビーガンの)食事をすることだってできてしまいます。
こうした<娯楽>では、ぼくたちは殺害を眺めるだけにとどまっていました。自らが(もちろんヴァーチャルに)殺害行為を実行するには、射的をするか、ゲームセンターで標的を撃つかという、フィクション商品という受け身の<娯楽>に比べれば、かなり体験できる頻度の低いものしかなかった。
コンピュータ技術の発展に伴って、武装して「敵」を殺害するゲームがすっかり根づきました。テロリスト、仮想敵国の兵士、ゾンビ、異形の者たち、モンスター、異星人。「プレイヤー」は彼らを熱心に探し回り、執拗に追い回して、手当たり次第に血祭りに上げていきます。ついにぼくたちは、いつでもどこでも、もちろんヴァーチャルに、殺害行為を心底楽しめる状態になりました。隣に自分の小さな子供が座っていても、お父さんやお母さんは、スマホの中で思う存分、殺害を楽しむことができます。なんならその子と一緒に「プレイ」することだってできます。
ぼくたちはそういう「罪もない」「仮想の」暴力行為を、たわいもない<娯楽>として楽しんでいるのでしょう。ぼくもおそらく30代あたりまでは、暴力的な<娯楽>に、恐怖と緊迫感と快感とが渾然一体となったあの感情、thrill と呼ばれる、すでに16世紀末には分節化されてそう名づけられ始めた感情としてあったらしい、20世紀という大衆娯楽の時代に至ってその区画が大きくはっきりと現れてきた感情に、喜んで身を任せていました。
ヴァーチャルな殺害という<娯楽>の隆盛。いったいぼくたちは、ぼくたちの心の中にある何を、まんまと合理化しようとしているんでしょう。暴力行為が限りなく無力化され、儀式化されたという側面を否定しようもない sports(語源を辿ると「気晴らし」「愉しみ」)のように、その歴史的な痕跡もわかりにくいほどに、暴力を提供する<娯楽>が同じように<合理化 rationalization (損得の釣り合いをうまくとること)>をし遂せているようには、とても思えません。映像技術の進歩につれて、殺害の再現は日々、その<リアルさ>を増すばかりです。
そして、未解決のままの葛藤。抑圧、隠蔽、合理化。
ぼくたちの心の中に、内側に向かって折れ曲がった暴力性という鋭い刃。「理性ratio」(語源は「損得の計算」)はこれをうまく手なずけて、退場してもらうことに成功したんでしょうか。それとも、ぼくたちの「情動のエコノミーÖkonomie(やりくり)」は、ぼくたちの心の隅っこに追いやられてなお、押さえ込まれた感情を、今でも心の収支決算表に、はっきりそれとわかる形で、記載し続けているんでしょうか。