感情と社会 32

知覚の歴史

知覚にも歴史があります。感覚を意識的にテーマ化するのは、とても困難です。そういう習慣をぼくたちは身につけてきませんでしたから、あるいは身につけないように訓練されてきましたから、知覚が歴史的に変化するなんて、と、意外に思う人も多いのではないかと思います。さらには、知覚とは、生物が生得的に持っている<能力>だから、歴史、ましてや文化概念としての歴史とは関係がないんじゃないかと、そう思うこともあるかもしれません。フーコーの言説 discours、あるいはその堆積物である集蔵体 archiv というイメージを役に立てるなら、ぼくたちが「知覚 perception」と呼んでいるものは、そういうsignifient として、何かを想定して切り分けた概念、個人をすでに離れて、個人の署名を失って共有された、やはりイメージにすぎません。イメージが歴史的に変動することは、繰り返しお話ししてきたとおりです。

心理学がとても新しい学術分野であること。また、心理学が「心」そのものを実定 positioner しようと言いつつ、じつは研究者自身の「心」が透明で、いわば不在になる、つまり疎外されるという、不条理極まりない手続きを行ない得るのだという勘違いから始まっていること。この2点からしてもう、知覚について心理学的な、あるいはありとあらゆる実定的 positif な学術の知見に期待するのはやめたほうがいいでしょう。心理学、少なくとも現在までの心理学とは、心をそのように捉えようという欲望の歴史の一コマにすぎません。心理学そのものが、ここ1世紀半ほどのホモ・サピエンスの心の欲求でしかないのです。

知覚というのは、実定科学がそう呼びたがる<認知>を可能にしている機能でしょう。つまり、生物は知覚する際に、知覚しているものたちを区画します。区画しないと、どこまでが獲物で、どこからがそうではないのか、とか、どれが体を支える実体で、どれがそうではないのか、などが判断できなくなる。(ドイツ語の「判断する beurteilen」は、部分に分けるというイメージをそのまま写し取った言葉です。)ですから、ぼくたちが知覚と呼ぶような機能が働いているところでは、もうすでにぼくたちは、知覚している相手を、自分の都合で切り出して、加工し終えてしまっています。(じつはこれが、ギブソンが考えていたアフォーダンスの中核です。)ぼくたちは、知覚することですでに、じつは、ありとあらゆるものを捉え損なっています。よく考えれば、ぼくたちの知覚が捉え損ないだというところまでは、ぼくたちはなんとか理解できるのですが、ではいったい知覚の相手が「本当は」どんなものなのか(「物自体」?)は、おそらく永遠にわかりません。それがわかる、客体はいつかきっとわかるのだという思い込み(フーコーの言う観察主体の透明化)を、まだ信じ込んでいる人は多いでしょうけれど。ぼくたちが知覚すること、知覚<内容>を、ある程度他者と共有していることは、したがって、社会の一部、つまり共有され、承認されたイメージでしかありません。ですから、知覚には、社会と同じで、明らかに共有されたイメージの変遷の歴史があるのです。

20世紀の前半に、ユクスキュルは、生物の種が異なれば、外界の知覚と、それによって作られる世界像が、まるで違うことを指摘していました。それどころか彼は、同じ種、たとえばホモ・サピエンスであっても、乳幼児期と成人とでは、たとえば視野の広さ、深さなどに違いがあることも予見していました。この予見はのちにかなり確実性があるらしいことが、実験データによって裏打ちされることになります。
一生のほとんどを海底ですごすヒラメは、はたして陸のこと、エベレストのことなどを知覚したり、考えたりしているのでしょうか?
ぼくたちのようには手を使わない動物、たとえばゾウは、ものをつかむということをどう知覚して、どうイメージしているんでしょうか?
分散神経系という特異な神経システムのある身体を持っている頭足類は、どこで何をどう知覚しているのでしょうか。
身体表面に嗅覚器官が満遍なく分散している魚類は、ぼくたちが「匂い」と名づけるものを、どう知覚して、どう感じ取っているのでしょうか。
猫は動くものに「反応」したり、動くものを目で追いかけているように、ぼくたちには見えます。でも、その知覚、つまりそうしたイメージによる猫に対する解釈が正しいかどうかは、わかりません。

動物行動学による観察が豊かになっていくにつれて、それぞれの動物が、それぞれの世界とのつき合い方、つまりは世界のイメージを持っているらしいことがわかってきました。ぼくたちも動物ですから、これだけでもう、ぼくたちが知覚してイメージしている世界が、唯一の正しい世界だ、などと言えるはずがないことは、十分お分かりいただけると思います。ぼくたちが言えそうなことは、どうやら世界というものはあるらしい、ということに限られているようです。
ホモ・サピエンスが誇りたがる「認知」どころか、「認知」という居丈高なイメージを作るよすがになっている知覚がすでに、個体が持つ世界感、世界に対するイメージを決定してしまっています。知覚は徹頭徹尾、自己準拠的 self referentialでしかあり得ません。ぼくたちホモ・サピエンスは、知覚に始まるイメージの数々から、現在では文化、文明と呼ばれるような複合的な感情の編み合せを作ってきました。

それぞれのホモ・サピエンスにきっとある程度は共通している身体性と、感覚器官が似通っている点から、ぼくたちはともすると、すべてのホモ・サピエンスが同じ知覚を持っている、だからすべてのホモ・サピエンスに共通する世界を実定してもいいはずだ、と、そう勘違いしがちです。
「認知」「情動」「感情」などはきれいに区画されているわけではありません。これらの諸概念は(というか概念というものはじつは全部)、学識があるという自負のある人々、どうしたことかそれがない人に比べて優越感を感じている人々が発明したイメージ(学識がある人々はこれを操作概念と呼んだりもします)にすぎません。この諸概念は、空と陸のようにすっぱりと区別されているわけでもないし、じつは空と陸をすっぱりと区別しているのも、ぼくたちホモ・サピエンスがでっち上げている勝手なイメージである可能性の方が高いのです。空と陸を区別するのは、ホモ・サピエンスの身体性との関係性でそうなっている(アフォーダンス)だけですし、そうしたアフォーダンスに基づいて知覚が行なわれ、それに従って行動が決まってくるわけです。情動はこうした関係性の網に沿って、それぞれの種に特異なものとして備わっていくでしょう。そして感情はそのだいぶ後で、社会生活における雑多なイメージを単純化した記号として現れてきます。そして、そのうちでも社会的な共有度、一般的にいう「認知度」が高いと評価されるものが、さらに聖別されて、「認知」あるいは「知」と呼ばれるようになります。

この流れがある程度妥当だとすれば、こう考えることができます。
 知覚が感情を方向づける
そして逆ではありません。
そして、感情として方向づけられたもの(イメージ)のうち、さらに硬直化して、したがって知覚の現場からおびただしく離れてしまったものを、ぼくたちは「認知」あるいは「知識」と呼んで、こともあろうに大変ありがたがっています。

知覚には歴史があり、決してその中に普遍項を探し求めることなど、できません。

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