人と長時間一緒に居れない自分はおかしいのだろうか?
人と一緒に居ると疲れる。
長時間一緒に遊んだりできない。
どんなに仲がいい人でも、数時間後には解散して一人になりたい。
そんなことを言うと、いつも「変わってるね」と言われる。
人間関係を築くことは、物心ついた頃から周りの大人たちに教えられることである。
小学生になれば友達を多く作ることを前提に「友達100人できるかな」なんて歌を口ずさみ、「友達を大事にしなさい」と耳にタコができるほど教えられる。
あたかも誰もが友達を必要としていて、友達と一緒にいることが子どもの幸せであるかのように大人たちは考えている。
でも、それは真実なのだろうか。
「周りと違う=おかしい人」というレッテル
大人たちはよく「人は一人ひとり違う」という事実から目を背ける。
特に子どもに対しては、親たちは「周りの子どもと同じである」ことを望み、「普通の子ども」からはみ出さないように注意する。
自分の子どもが少しでも周りの子どもと違う行動をしたりすると不安になり、大人が持つ「理想の子ども像」を元に子どもの性格を丸く削っていく。
これは子どもだけに限らず、会社の中でもおこなわれていることである。
大人たちは会社や社会に迎合し、個性を失うことで年上の言うことを聞く従順な人間になることを求められる。
会社や上司に従属し、いざとなれば退職して責任を取るような存在である。
「人間関係を大事にすべき」という意見も、結局のところ「人間」を単純化し、一般的的な解釈を当てはめているだけに過ぎない。
だからこそ、人間関係を疎かにする人や、人付き合いが苦手な人は変人扱いされる。
「周りとは違う」というだけで「人間的にどこかおかしい」とレッテルを貼られてしまう。
何が「普通」なのかは一人ひとり違う
自分が他人と長時間一緒にいることができないのは、人間嫌いだからではない。
自分も含め、人間は本質的に醜い生き物であることを理解した上で、自分も他人もそれなりに愛そうと割り切って生きている。
本気で人間が嫌いだったなら、多分自分の性格上かなり昔に自殺していたのではないかと思う。
それでも今も自分が生きているのは、紛れもなく「人間が好き」だからである。
自分はほかの人よりも「一人の時間」が好きなのだと思う。
特に何かをしているわけではないが、ただ「一人でいること」が好きなのだ。
ただボーッとしている時間もあれば、窓の外を見ながら何時間も考え事をしてる時もある。壁の一点をずーっと眺めている時もあれば、目をつぶって瞑想してるときもある。
少なくとも、こういうことが好きな人はあまり多くはないだろう。
でも、これが自分にとっては「普通」なのである。
普通という言葉は個人の解釈でいくらでも変わるもので、世間一般が抱く「普通」も多数派の意見でしかない。
多数派は「多い」だけで、「正しい」わけではない。「普通」という言葉の正しい解釈なんてどこにも存在しない。
あるのは一人ひとり、その人だけの「普通」である。
何が幸せなのかは一人ひとり違う
一般的には、一人きりになることは好ましく思われていない。
「一人=孤独」という解釈が強く、一人でいることは寂しい、悲しい、空しいという感情と結び付けられがちだ。
できるだけ人と交流し、気の合う友達と遊び、好きな異性と一緒の時間を過ごし、みんなで笑って楽しく生きる。
これが現代の大多数が抱く幸福観である。
でも、それも「大多数の幸福観」であって、自分の幸福観ではない。
「人間関係こそ人生でもっとも大切なものだ」と思っている人にはわからないかもしれないが、自分にとっては「一人きりの時間」こそもっとも心が安らぐ時間なのである。
何度も言うが、自分は別に人間が嫌いなわけではない。とにかく「一人の時間が好き」なのだ。
友達と遊ぶ日もあるけれど、数時間後には一人になりたくなる。誰かと話すのは楽しくても、次第に楽しさよりも精神的な疲労のほうが上回ってくる。楽しいけど疲れる。
自分の場合はその導火線が極端に短い。だから人と長時間一緒にいることができない。
トルストイは「すべての幸せな家庭は似ている。 不幸な家庭はそれぞれ異なる理由で不幸である」と言ったが、人生においては逆の法則が成り立つ。
つまり、「人生で感じる嫌なことは誰もが似ているが、幸せはそれぞれ異なる理由で幸せである」ということだ。
何が幸せかは一人ひとり違う。だから自分なりの見つけることが大事なのである。
人生は自問自答の足跡
私は自分で自分のことをめんどくさい人間だな、と感じることがよくある。
むしろ、感じない日がないぐらいにめんどくさい自分にめんどくささを感じている。
そして、そんな自分をどこか冷めた目で見つめるもう一人の自分もいる。
「お前は本当は人付き合いがしたいんじゃないのか?」
「一人がいいなんてのは強がりで、本当はうまく人間関係を築けない自分を守ってるだけなんじゃないのか?」
そんな声が時折頭の中で流れてくるが、30年以上生きてきて気づいたのは、「人生は自問自答の足跡に過ぎない」ということ。
自問自答し、その瞬間瞬間で答えを出し、その答えを自分に言い聞かせて生きていく。そしてまた次の問いが現れ、自問自答し、答えを出して自分に言い聞かせて歩んでいく。
そうした道のりのことを、人は「人生」と呼ぶ。
矛盾した感情こそ人らしさ
何が自分にとって正解かは、答えを出して実際にその道を生きてみなければわからない。
人間関係についての問いも、きっと死ぬまで尽きることはない。
でも、現時点の自分は他人と時間を共有することよりも、一人でいることのほうが好きみたいだ。
いつかこの考えが変わるかもしれないし、数年後には常に誰かと一緒に生きているかもしれない。
社会的な動物である遺伝子を受け継いでいる我々は、とえどんなに孤独を愛していても、人間である以上「人恋しさ」からは逃れられない。
一人が好きという言葉も強がりかもしれない。でもそれでいい。自分の生き方が正しいのかどうかは、いつか時間が明らかにしてくれる。
人は好きだけど、一緒には居れない。一人が好きだけど、人恋しさを感じる。
そんな矛盾した思いに「人らしさ」を感じる、少し肌寒い5月である。
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