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ヒュームとデュルケームの議論に見る、契約と慣習の関係


民法上の大原則「私的自治の原則」の限界

「私的自治の原則」とは

私的自治の原則」という言葉をご存知でしょうか。大学で法学部出身の方などであれば、聞いたことがあるでしょう。法律、特に民法、民事訴訟法などを学ぶ際には、必須の概念と言っても良いものですから。逆にいうと、法律を詳しく学んだことがない方には、あまり聞き馴染みがない言葉かもしれません。

まず、私的自治の原則の意味を、法務省のHPで確認してみましょう。

Q49 私的自治の原則の意義
Q 私的自治の原則とは何ですか。
A  私的自治の原則は、個人と個人との間で生ずる問題については国家が干渉すべきでなく、それぞれの個人の意思を尊重して、その自由な判断・決定にまかせるべきだというものです。契約自由の原則も、個人と個人の間で結ばれる契約については、国家が干渉せず、それぞれの個人の意思を尊重するというものですから、私的自治の原則とほぼ同じことを意味しています。

法務省「私法と消費者保護

なるほど、簡単に言い換えるならば、「個々人は、自分のことは国家に決められるのではなく、自らの自由意思で決めるべき」という考え方ですね。

実は、我々のような個々人が結ぶ契約というものも、上記の私的自治の原則によって正当化されてきました。なぜならば、契約を結ぶという行為は、我々私人が、国家によるルールに強制されるのではなく、我々私人の合意によってルールを作るという営みであるからです。

このように、「私的自治の原則」は、個人主義、自由主義の理念を法的に体現したものであると言えるでしょう。

なぜ我々は、契約による義務に拘束されるのか

さて、我々が無事他人と契約を結べたあかつきには、その効果としてその契約に基づく権利と同時に義務も発生します。例えば、僕が売主としてある商品の売買契約を誰かと結ぶならば、僕にはその商品を相手方に渡す義務が課されるわけです。

しかし、ここで問題が発生します。それは、契約の義務を履行したくなくなった場合です。上記の例えで言うなら、僕が、「その商品をその人にはやっぱり渡したくない!」と思うようになった場合です。その場合に、私的自治の原則を貫徹するならば、どうなるでしょうか。「自分のことは自分で決めるべき」なのですから、「やっぱり契約はなし!無効!なぜなら自分の意思が変わったから!」と宣言することが正当化されるようにも思われます。

しかし、そんな自分勝手なことは当然許されません。実際に、法律上においても、原則として、法律上定められた事由がある時でなければ勝手に一方的に契約を解除することはできないという建て付けになっています(契約の解除権を定めている民法541条、542条を参照)。

つまり、「契約の拘束力は、私的自治の原則では説明できない」ということです。このことは、先ほど見た法務省のHPにもよく現れています。次のQ &Aを見てみましょう。

Q47 契約解消の例外性
Q 「契約に伴う責任」といいますが、消費者保護の授業で教えられているように、都合の悪いことが起これば、契約は解消できるのではないのですか。
A  契約は、成立してしまうと、当事者のいずれかの都合で解消することは、原則としてできませんこれは、私たちが社会常識として持っている、「約束は守らなければならない」ということと同じであり、法律用語上「契約に伴う責任」と呼んでいます。

法務省「私法と消費者保護」

この答えは非常に面白いですね。「私的自治の原則に従えば契約はいつでも解消できそうなのに、なぜ契約を解消できないのか」という問いに対する答えは、私的自治の原則などではなく、「社会常識」に拠らざるを得ないのです。
これを言い換えるならば、社会の慣習ということもできるでしょう。そして、その慣習とは、法務省によるならば、「約束は守らなければならない」というものだということです。(法学においては、このような説明はあまり明示的にはなされないのが不思議なところです。)

ヒュームの慣習論

ここで思い起こされるのは、社会契約説を徹底的に批判した哲学者であり、保守思想の先駆としても有名なディヴィッド・ヒュームです。ここで一度、社会契約説と、それに対するヒュームの批判について、確認しておきましょう。

社会契約説とは

社会契約説とは社会の成り立ちの説明の一つです。つまりはこうです。

人々は原初においては、社会や国家を作らず、バラバラな個人として存在した。これが所謂「自然状態」です。しかしそれでは、いつなんどき寝首をかかれるかもわからない。これが、所謂「万人の万人に対する闘争」です。

そのような自然状態に嫌気がさした個々人が集まり、国家・社会を作ってそこの政府に権力を授けましょうという契約をしたのだ。これが国家・社会の始まりである。これが、一番プリミティブな社会契約説による国家・社会の成り立ちの説明です。

社会契約説へのヒュームの批判

このような考え方に批判を加えたのがヒュームです。ヒュームは「原始契約について(Of the original contract)」というエッセイで、上記のような社会契約説を強く批判しました。ヒュームはこのように言います。

国家は、人々の合意によって成立するのではなく、人々は国家の中に生まれ落ち、国家の権威を受け入れるのである。国家の中に生まれ落ちるのに、選択や合意の余地などがあるはずはない
実際に、国家というものは、侵略戦争やら内戦やらによって暴力的に成立することが多い。その国家が長期にわたって存続すると、時間の効果と慣習によって、人々は、その国家の権威を受け入れるようになるのである

大事なことは、社会を個々人の自由意志やそれに基づく契約によって基礎付けしようとする社会契約説に対し、ヒュームは、そのような説明は欺瞞である、と喝破しているという点です。

個々人の自由意志に基づいて成り立ちが説明されていたものが、実は慣習によるものであったと暴く構造は、先ほどの契約の拘束力の話と、驚くほど似てはいないでしょうか。実は、それだけではないのです。次で見るように、ヒュームは、契約の拘束力は社会の慣習によるのである、ということも論じていたのです。

我々はなぜ約束を守るのか

契約を守らなければいけない理由は、「約束は守らなればならない」という社会の慣習にまで遡る、という話を既にしました。

なんと、若い頃に法律を学んでいたヒュームは、人がどうして規則や規範を守ろうとするのかを社会哲学的に考察した結果、同様の結論に辿り着いていました。ヒュームは、人が約束の言葉を交わしただけでその約束を守ろうとするのは、慣習に基づいて、約束の言葉に義務感を感じさせる力が備わっているからだ、と説明します。つまりはこういうことです。

約束の言葉とは、社会的に制度化された「象徴あるいは記号」である。社会に生まれ落ちた人は、成長の過程で、社会が共有する象徴や記号、言語やルールの意味を習得する。それによって、他人とのコミュニケーションや、社会生活を営むことが可能となるのである。
言い換えれば、他人に約束や契約を守らせるのも、社会的に共有された象徴や制度の力なのである。ヒュームは、そのような象徴や制度の蓄積のことを「慣習」と呼びました。

中野剛志『国力論』85頁より孫引きで恐縮ですが、ヒュームによれば、慣習とは、

他人の行動が将来も規則的であるという確信を与えるものである。そして、この期待があってこそ、我々の寛容も節制も成り立つ。同様に、言語は、なんら約束なく、慣習によって次第に形成されたのである。

つまり、ヒュームは、まさに直接的に、約束という極めて私的な行為ですら、慣習という超個人的な実体に依存している、ということを指摘しているのです。

デュルケームの「非契約的関係」

このような指摘は、社会学の祖として知られるエミール・デュルケームによる議論においてもみられます。

デュルケームは、当事者同士が、契約遵守の期待や契約の解釈を共有する社会的な関係になければ、契約を結ぶことはできない、と指摘しています。そして、このような社会的な関係が「非契約的関係」です。この非契約的関係は、個人間の合意の前提として存在しなければならないものなのです。

あらゆる契約は,それを締結する当事者たちの背後に,結ばれた契約を尊重 させようとして干渉せんばかりの社会がある,ということを前提とする。(中略)それゆえにこそ,社会は復原法が決定するあらゆる関係にあらわれており,最も完全に私的なことと思われる関係においてさえ,現存する。

デュルケーム, 田原音訳『社会分業論』114頁

また、デュルケームは、所有権などの近代的な法制度が人々によって守られるのは、そういった制度の持つ聖的な「象徴」の力によるとも論じています。つまり、契約の例で言えば、まさにこのnoteの冒頭の画像が象徴しているように、契約文書へのサインや握手が、その象徴の役割を果たしていると言えるでしょう。このことは、ヒュームも同様に指摘していたことです。

このように、ヒュームが「慣習」として論じたものとほとんど同じことを、デュルケームは「非契約的関係」ないしは「象徴」の議論によって指摘しているのです。

自由の前提を自覚する必要性

以上の議論で見てきた、契約の前提となっている慣習とは、「約束は守らなければならない」というものでしたが、これはある意味では、個人の自由を縛る規制でもあります。

しかし、そのような自由を縛る慣習が相手方との間で共有されていなければ、相手との間でうかうか契約を結ぶこともできないのです。なぜなら、相手がいつ約束を反故にするかわかったもんじゃないわけですから。

つまり、そこには、自由を縛る慣習ないし規制が、むしろ自由を保障してくれている、という逆説的な関係を見てとることができます。このような、言われてしまえば至極当たり前に思えるような事実を、我々はしばしば忘れてしまいがちです。

そのような当たり前を思い出せ、と我々に諭してくれるのが、保守思想なのだろうな、とふと思いました。

参考文献

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