見出し画像

小さなスナックで/青春物語5

「おい永尾。【福】行くか?」
帰り支度を始めた稲村さんが給湯室から戻った彼に声を掛けた。
福は会社前の道路向こう側にある小さなスナックだった。
いわば社員御用達のお店だった。

「行きます!おごってくれるんですか?」
「ツケだよ、ツケ。桜田さんも行く?」
「えっ?いいんですか?」
「女の子もいないと。先に行ってるから着替えたらおいでよ」
稲村さんはそう言って課長と永尾さんと降りて行った。

福のドアを開けると「待ってました〜」とカウンターから稲村さんの声がした。
もうすでに酔っ払っているらしい。
カウンターには永尾さんと彼と同期入社の小林さんと高岡さんもいた。
6人でいっぱいになる程のカウンターとBOX席2つのアットホームなスナックだった。

私は稲村さんと課長の間に入れてもらって水割りを頼んだ。
「課長のボトルだから薄めでいいです」
「あらっ。課長のだからどんどん飲んでいいのよ」
ちょっと年配のママさんは笑いながらそう言った。

「稲村さん、次の曲はいるよ」
マスターに促された稲村さんはカラオケのマイクスタンドに歩み寄った。
その時 私の隣に永尾さんがグラスを持って詰めてきた。
「この歌、稲村さんの十八番なんだよ」
「へぇそうなの?」
稲村さんが(初恋)を歌い始めた。

五月雨は緑色 悲しくさせたよ 一人の午後は
恋をして さみしくて とどかぬ思いを暖めていた
     (村下孝蔵・作詞作曲)

「いい歌ですね。切なくなりますね」
「さっきの給湯室での続きだけど彼氏は学生?社会人?」
「ひとつ上の社会人です。でも永尾さんみたいに最近お互い忙しくて会えないんですよ」
「家とか会社、遠いの?」
「家は同じ市内ですけどサラリーマンじゃないので夜勤があったり休みも不規則なんです」
「付き合って長いの?」
「う〜ん1年ぐらいかな?永尾さんはどれぐらい同棲してたんですか?」
「大学入ってすぐだから4年近いかな?ねぇそれよりも敬語やめてくれない?桜田さんのが会社では先輩なんだから」
「えっでも私、3つも年下ですよ。まだ未成年だし」
「え〜未成年がこんな所でお酒飲んでていいの?」
「いいの。もうすぐ誕生日で20歳になるし」

稲村さんが満足げに戻って来た。
「はい、みんな席の移動〜」
その時タイミングよく小林さんがそう言ってみんなが立ち上がった。

私の横には永尾さんと小林さんが座った。
「永尾と何を話していたの?」
「ん?永尾さんの彼女さんと私の彼氏の話。小林さんも彼女いる?」
私もちょっと酔っていた。

「いないよ。今、募集中」
「男の人ってみんなそう言うんだよね」
「そうそう。彼女いるのにお酒の席ではいないって言うヤツいるんだよね」
「永尾、俺の印象悪くするなよなぁ」

課長のカラオケが始まっていた。
シナトラの(マイウェイ)だ。

いま船出が 近づくこのときに 
ふとたたずみ 私は振り返る
私には愛する歌があるから 信じたこの道を 私は行くだけ
すべては心の決めたままに
     (訳詞・中島潤)

「課長もこれ十八番なんだよ」
そう永尾さんは言った。
「なんかしっとりしてていいね。課長らしくないと言うか」
「課長のうち、カカァ天下なんだって。この間ここでボヤいていたよ」
「そうなの?でも大恋愛だったらしいよ」
「へぇ羨ましい」
「永尾さんだって大恋愛でしょ。4年も同棲してるんだし」
「男女の仲って言うよりただのルームメイトみたいなもんだったよ」
そう言って彼は少し視線をはずした。

この記事が参加している募集