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認知症?頑固な盲目の父と介助の母と。

週に一回、実家へ行く。
母がディサービスに行く日、ほぼ全盲の父の面倒を見るために。

糖尿病から来る失明で片目がわずかばかりの光が見える程度らしい。
目が見えないくせに昭和の頑固者で他人の手を借りるのは嫌だと言う。
高い介護料も払っているのに当然、ディサービスを利用したこともなく日中は母と二人きりだ。

長年住んでいる家なので自室からトイレまでは手すりを伝いながら行く。
何年か前、二世帯住宅に改装したとき和式トイレにこだわった。
建築士さんも、今時和式トイレにする人いませんよ、洋式のが楽ですよ、と助言したけど「お前が口出すな」と怒った。
昔から口が達者でカッとすると声を荒げる。
私たち姉妹にはとても優しかったけれど。
その分、母に当たっていたのかもしれない。

足腰が弱くなってきてた母が猛反対していたが、二階に行って洋式トイレを使えばよいと我を通した。
1つ和式トイレに変更することでかえって改築費用がかさむと言うのに。

数年後、いよいよ母が二階への階段の上り下りができなくなり一階も洋式トイレに改装することになった。
父はなかなか説得に応じなかったが最終的には、ばあさんも可哀想だしなと折れた。

改装が済んで、それまで洋式トイレと言うものを使用したことがなかった父は全く馴染めなかった。
トイレに行くのが嫌で水分を控えていたと言う。

そしてある日、用を足して立ち上がって水を流したあとどっちがドアがわからなくなった。
自分が前を向いているのか、後ろを向いているのか。
手探りでドアの取手を探すが空を切るばかりでパニックになって大声を出した。
声を聞いた母がトイレに行きドアを開けたと言う。

それ以来、トイレまでは行けるが戻って来れなくなった。
潔癖症の父は洗面所の石鹸で手を綺麗に洗わないと気が済まない。
これは父の習慣だ。
それゆえ、トイレから出られても洗面所で長い間立っているうちに出口が前後左右わからなくなってすんなり自室に戻って来れなくなった。

父に災害用の笛を持たせた。
わからなくなったら吹きなさいと。
日中一緒にいる母は父がトイレから戻るのが遅くても気に病むことはなくなった。

でもある日、父が玄関から落ちた。
幸い、並べてあるいくつかの靴の上に尻もちをついただけで事なきを得たそうだ。
それよりも家族は、トイレから続く手すりが途切れたら自室だと認識していたのがまっすぐ歩き続けたことに不安になった。
自分の部屋はまっすぐ行った所と言い出したからだ。

認知症が始まったのかもしれない。
母は父の目が離せなくなった。
夜中のトイレも洗面所でご丁寧に手を洗っては帰り道を迷う。
トイレに立ってから戻るまで気を揉む母は眠れなくなりだんだん苛立っていった。 

二世帯住宅と言えど夫婦共働きで、日中は父と母だけだった。
朝昼晩の食事はもちろん、糖尿病の薬やら数時間置きの目薬やら時間に縛られる母の負担は大きい。
父はすべてに介助が必要なのに母にありがとうの一言もなく、むしろ当たり前のように振る舞い、薬を飲む水が足りないだの、目薬が鼻に入っただの、母に怒ってばかりいた。

だんだん口ゲンカが多くなり、夜その声が二階まで聞こえるようになった時、父を週一でもいいからディサービスにお願いしようとした。
だけど、他人の手は借りん!と頑なに嫌がり、見え隠れする認知症にも手を焼き、とうとう母の方がおかしくなった。

ある日、父がディサービスを利用しないなら自分が利用すると言い出した。
よっぽど家から離れたかったのだろう。
その頃は足腰も弱くなっていたので要支援介護1で近くのディサービスに週一で通うことになった。

父に朝ごはんを食べさせ、お昼ごはんまでに帰って来る、たった半日のディサービス。
それでも、手足のこういう運動をしただの、読み書きのクイズをしただの、出される飲み物が美味しいだの、楽しそうに通っている。

通い始めの頃は父もおとなしく待っていた。
だけど母が帰ってきてからも、ばあさんはどこ行った?と呼ぶようになったらしい。
何か用があるわけでもなく、不安に駆られるのだろうかしょっちゅう呼ぶようになった。

父をひとり置いてディサービスに行けないとなった時に私の出番が来た。
当時パートだった私は母がディサービスに行く日を休みにしてもらって父の面倒をみることになった。
週一の訪問ヘルパーもどきだ。
そうして今に至る。

そして病状が進む父との戦いが始まった。
(つづく)

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