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青春物語〜あなたに恋をしました〜

しんしんと雪が降るこんな夜はあなたを想い出す。
今、どこにいるのかな。
何をしているのかな。
きっとあの頃のあなたのままでいるでしょうね。
          *
その日は月末処理で残業をしていた。
膨大な請求書を、導入されたばかりのデスクトップのパソコンに夢中で打ち込んでいた。

「まだ終わりそうもない?」
課長が煙草をふかしながら私に聞いた。

「はい。一生懸命入力してるのですが…」
「大丈夫、期限までまだ日にちがあるから。僕は先に帰るよ」
「はい。私もキリのいいところで帰ります」

そう言ったものの、内心穏やかじゃなかった。
なんでパソコンなんて導入したのよ。システム化ってなに?台帳に記帳するほうが早いのに!
そんなことを思いつつキーボードを叩いていた。

ふと後ろを振り向くと受付に永尾さんが座っていた。
彼は先月配属され、5人いる新卒者の中で一番気さくな人だった。

社内はワンフロアに7つの部署が分かれていた。
FAXを流しに行く時、彼の部署を通るのだけど決まって声を掛けてくれた。
それは挨拶程度だったけれど。

残業時間は21時までと決まっていた。
「桜田さん、こんな遅くまでご苦労さま」
私の背後から、そう言いながら彼が近づいて来た。

「いや永尾さんこそ、当直ご苦労さまです。仕事慣れました?」
「まぁまぁかな。でも好きで入った会社だから」
「そうですね。頑張って下さいね」
「桜田さんもね。じゃあ俺、社内の戸締りしてくるよ」

彼と面と向かって話したのは初めてだった。
少しドキドキしている私がそこにいた。

21時近くになると社内の人たちはそれぞれ帰り始め、ひとつ、またひとつと部署の明かりが消えていった。
私はパソコン机から離れ、受付うしろの自分の席に戻ると彼が点検ファイルを抱えて走って来た。

「仕事、片付いた?」
「まだです。今月からコンピューター管理になって、てんてこ舞いです」
「そうなんだ?コンピューターって難しいんでしょ?」
「みんな、システム化って初めての試みだから戸惑っているんです。でも今月処理すれば来月からすごく楽になるらしいです」
「そこのパソコンって東京本社と繋がっているってヤツ?」
「そうそう。本社と全支社が繋がっているとか。
どこで営業がサボっているのか社長に瞬時にわかるそうですよ」
「えっホント?わかっちゃうの?パソコンってそんなにすごい機械なの?」
そう言いながら焦る彼を見てドキッとなった。

「ウソに決まってるじゃないですか。わかるのは数字だけです。すぐ着替えて来ますから戸締まり待ってて下さい」
私は気持ちを抑えて3階の更衣室に向かった。

急いで着替え、裏口へと続く階段を一気に駆け下りるとすでに彼が鍵を片手に立っていた。
「すいません。お待たせしました」
「いや大丈夫だよ」
彼はそう言って私の頭をポンと叩いた。

「バスあるの?」
「はい。永尾さんは男子寮ですよね?」
「そう、そこの。送っても行けないね」
「大丈夫です。じゃあ、お疲れさまでした」

バス停に着いてすぐ、後方からバスがやって来るのが見えた。
そのバスが近づいた時、会社前で彼が手を振って立っているのがヘッドライトに映し出された。
「あっ」
私は小さな声を上げた。
バスが来るまで彼が見守ってくれていたのかと思うと、またドキドキした。

翌朝、私は部署の掃除当番だった。
いつもなら眠いだの面倒くさいだの愚痴が出たが、今朝はなんとなくリキが入っていた。

社員の机を拭いていると永尾さんが3階から降りて来た。
「おはよう。掃除当番なの?ご苦労さま」
「はい。永尾さんこそ朝早くからご苦労さまです」
「俺、7時に鍵開けちゃった。総務課の課長さん、朝早く来るって聞いたからさ」
「課長、家が遠いから早めに出社するみたい。でも7時は早過ぎでしょう?」
「昨日 初めての当直だからよくわからなくって。防犯システム解除するのに手間取るかもって心配だったんだ」
「そうなの?永尾さんって慎重派なんですね」
「なんせ新入社員だからね。じゃあ掃除 頑張れよ」
そう言って彼はまた私の頭をポンと叩いて去って行った。

その時、私はどうして掃除当番がイヤじゃなかったのか自分自身の気持ちに気づいた。

永尾さんは東京本社で採用され、第一希望の勤務地とは程遠い私の支社に配属となり、地元を離れて男子寮に入っていた。

21時近くになって部署内の灰皿を集めて給湯室へ行った。
そこにはコーヒー片手に煙草を吸っている彼がいた。

「毎日、残業大変だね。デートもできないんじゃない?」
「そんなことないですよ。永尾さんこそ遅くまで営業で、デートできないんじゃないですか?」
「俺、地元に彼女 残してきたんだ。最近は電話もできないんだけどね」
「そうなんですか。淋しくないですか?」
「少し慣れたよ。今は仕事のが大事だから」
「彼女さんのほうが淋しいんじゃないですか?」
「そうかな。同棲してたから後ろ髪引かれる思いでこっち来たよ」
「同棲してたんですか。じゃあ彼女さんも連れてくれば良かったのに」
「だって男子寮だもん。それに彼女は向こうで就職したし」
そう言って彼はコーヒーを飲み干した。

「おい永尾。【福】行くか?」
帰り支度を始めた主任の稲村さんが、給湯室から戻った彼に声を掛けた。
稲村さんは彼の寮の先輩でもあり、【福】は会社前の社員御用達の小さなスナックだ。

「行きます!おごってくれるんですか?」
「ツケだよ、ツケ。桜田さんもおいでよ」
稲村さんはそう言って課長と永尾さんと降りて行った。

【福】のドアを開けると「待ってました〜」と薄暗いカウンターから稲村さんの声がした。
もうすでに酔っ払っているらしい。
店内には永尾さんと、彼と同期入社の小林さんと高岡さんもいた。
6人でいっぱいになる程のカウンターと、BOX席2つのアットホームなスナックだ。

「稲村さん、次の曲はいるよ」
マスターに促された稲村さんは、カラオケのマイクスタンドに歩み寄った。
その時 私の隣に永尾さんがグラスを持って詰めてきた。
「この歌、稲村さんの十八番なんだよ」
「へぇそうなんですか」
稲村さんが[初恋]を歌い始めた。

五月雨は緑色 悲しくさせたよ 一人の午後は
恋をして さみしくて とどかぬ思いを暖めていた
    (村下孝蔵・作詞作曲)

「いい歌ですね。切なくなりますね」
「さっきの続きだけど彼氏は学生?社会人?」
「ひとつ上の社会人です。でも永尾さんみたいにお互い忙しくて、最近ぜんぜん会えないんですよ」
「家とか会社、遠いの?」
「家は同じ市内ですけどサラリーマンじゃないので夜勤があったり休みも不規則なんです」
「付き合ってどのくらい?」
「う〜ん1年ぐらいかな?永尾さんはどれぐらい同棲してたんですか?」
「大学入ってすぐだから4年近いかな?ねぇそれよりも敬語やめてくれない?桜田さんの方が会社では先輩なんだから」
「でも私、3つも年下ですよ」
そう言って私はケラケラ笑った。

課長のカラオケが始まっていた。
シナトラの[マイウェイ]だ。

いま船出が 近づくこのときに 
ふとたたずみ 私は振り返る
私には愛する歌があるから
信じたこの道を 私は行くだけ
すべては心の決めたままに
     (訳詞・中島潤)

「課長もこれ十八番なんだよ」
そう永尾さんは言った。
「なんかしっとりしてていいね。課長らしくないと言うか」
「課長のうち、カカァ天下なんだって。この間ここでボヤいていたよ」
「そうなの?でも大恋愛だったらしいよ」
「へぇ羨ましい」
「永尾さんだって大恋愛でしょ。4年も同棲してるんだし」
「男女の仲って言うよりただのルームメイトみたいなもんだったよ」
そう言って彼は少し視線をはずした。

「小林さん[夢の途中]はいったよ!」
いつのまにか歌のリクエストをしていた小林さんにマスターが声を掛けた。

さよならは別れの 言葉じゃなくて
再び逢うまでの 遠い約束       
このまま何時間でも 抱いていたいけど
ただこのまま冷たい頬を あたためたいけど
     (作詞・来生えつこ 作曲・来生たかお)

「小林さぁ。いま彼女いないらしいよ。こっち来る前に別れたんだって」
「そうなの?やっぱり遠距離になると別れるものなのかな?」
「俺の友達にも地元離れることになったら別れたヤツいるし」
「でも永尾さんは別れて来なかったじゃない?」
「だってお互い好きなんだから別れることないでしょ。別れる時が来たらそれはそれでしょうがない」
「しょうがないって案外 短絡的だね」
「いや、ただ単に引き止めておく自信がないだけ。人の心って移ろうでしょ」
「でも私が彼女だったら永尾さんに引き止めてほしいな」
「それは俺もそうだよ。でも相手の気持ちってものもあるしね」

「おい永尾。お前もなんか歌えよ」
カウンターの端っこから稲村さんが言った。
「じゃあ[旅立ち]をお願いします」
彼はそう言うと水割りを一口飲んで立ち上がった。

私の瞳が ぬれているのは 
涙なんかじゃないわ 泣いたりしない
この日がいつか 来ることなんか
二人が出会った時に 知っていたはず
     (松山千春・作詞作曲)

私はほんの数分の歌に、彼の気持ちが凝縮されているように思えた。
一気に歌い終えて戻った彼の顔は紅潮していた。

会社ではコンピューター化のため毎日残業が続いていた。
顧客のデーターベースを作成しつつ月末処理をする。
投げ出してしまいそうなぐらい忙しい毎日でも頑張ってこられたのは、きっと永尾さんの存在があったからだろう。
彼はいつも遅く営業から帰って来て、経理課を通る際に必ず「ただいま」と私の顔を見て言った。
そんな些細なことが私には嬉しかった。

その日、部署の灰皿を片付けに給湯室へ向かってると「ねぇ」と彼が後ろから声を掛けてきた。

「俺さ、明日から研修なんだ」
「そうだってね。さっき課長が言ってた」
「なんだか行きたくないんだ」
「どうして?」
「1週間も行ってるとせっかく覚えた仕事を忘れそうだから」
「大丈夫だよ。それ以上に研修で覚えてくるんじゃない?」
「それに俺も忘れられそうだし」
「そんなの忘れられるわけないでしょ。入社して1ヶ月以上経っているんだから」
「桜田さんも忘れない?」
「忘れるわけないよ。なに心配してるの」
「それならいいんだ。じゃあ」
そう言うと彼は給湯室の前でUターンした。

着替えて裏口から出ようとした時、彼が自販機でコーヒーを買っていた。
「お疲れさまでした」
「あっお疲れさま。バスある?」
「うん大丈夫。すぐ来るから」
「もう真っ暗だから気をつけろよ」
「ありがとう。じゃあね」

振り返ると彼が見送っていた。
いつかのように…
そしてドキドキしている私がいた。
いつかのように…

翌朝10時に彼ら新入社員は研修センターへ出発だった。
「タクシーが来ましたよ〜」
私はみんなが集合しているA会議室に顔を出した。
永尾さんが振り返り駆け寄った。
「ねぇ電話してくれない?」
小さな声で彼は言った。

「えっ電話?無理でしょ」
「だって俺、忘れられたくないから」
「だから大丈夫だって。それにセンターにどうやって電話するの?」
「呼び出してくれればいいから。お願い」
「じゃあ永尾さんの部署の子にしてもらいなよ。忘れられないように」
私は笑いながらそう答えた。

「・・・」
意外な反応だった。
彼はずっと黙っていた。
ドアを開けて出て行こうとすると
「それじゃ意味ないんだ!」
と少し怒った口調で言い放った。
私はそのまま振り返らずに階段を駆け下りた。
「なに?なんなの?なんで怒られなきゃならないの!」

彼には4年間同棲していた彼女がいる。
私にも1年間付き合っている彼がいる。
どうしろって言うの?

でも3日も経つと、永尾さんの姿が見えないことが無性に淋しかった。
その頃、彼氏の健太郎先輩にも会えなくなっていた。
私は自分の気持ちに戸惑った。
永尾さんに会えなくて淋しいのか、健太郎先輩にに会えなくて淋しいのか…。

「課長、自動車部の永尾さんからお電話です!」
翌朝、ざわめいた社内で先輩が受話器を持って叫んだ。
その声を聞いた途端、胸が高鳴った。

「永尾のヤツ、研修先でも仮払いできますか?って言いやがった」
課長は前の席の稲村さんに言った。
「何に使うのでしょう?研修先には何もないのに」
「たばこを買う金もないらしいよ。却下したけどね」
そう言って課長は笑った。

声が聞きたい。
たった4日間、永尾さんの声が聞けないだけで淋しかった。

残業が終わる21時前に電話が鳴り、見回りに行った当直の代わりに受話器を上げた。
「はい、株式会社タイヨウでございます」
「桜田さん?今日も残業?」
「はい?」
「俺、永尾だよ」
「えっ永尾さん?よく私ってわかったね」
「わかるよ、桜田さんの声ぐらい」
その言葉を聞いてまた胸がドキドキした。

「電話してねって言ったのにしてくれないんだね。毎日待ってたのに」
彼は不満そうに言った。
「しようと思ってたけどなんて言っていいのか、わからなくって」
私は早口に答えた。

「俺さ、ずっと桜田さんの声聞きたかったんだ。でもこっちには公衆電話もないし。トイレ行っても掛かってくるんじゃないか気が気じゃなかったよ」
「今、どこから掛けてるの?」
「外。外出禁止だけど抜け出してきた」
「私も永尾さんの声、聞きたかったけど電話できなくて」
「今日さ、経理課に電話したんだ。ひょっとして桜田さんが電話取るかもしれないと思って」
「知ってる。課長と話したんでしょ」
「今、声聞けてよかったよ。もうチャリ銭ないから切れたらごめんね」

彼からの思いがけない電話で舞い上がっていた。
でも彼はどう言うつもりなんだろう?
私の声が聞きたかっただなんて。

数日後、研修が終わって帰ってくるはずなのに退社時間になっても彼は姿を現さなかった。
すっかり沈んだ気持ちで残業をしていると、階下から声が聞こえてきた。
振り返ると私服姿の永尾さん達がいた。

「なんだお前ら。明日からじゃなかったのか?」
課長が最初に声を掛けた。
「さっき帰って来たんですけど食堂に晩メシ用意してあるって言われて」
「そうか、じゃあ早く食べて来い。食堂のおばちゃんたちに迷惑だから」
「はい、そうします」
そのまま3階への階段を登りながら、永尾さんが私を見て手招きをした。
私は周りの目を気にして思わず下を向いた。

今日はもう帰ろうと更衣室に向かった時、まだ食堂の明かりが付いていた。
その時、彼がひょいと顔を出した。
「あっ」
小さな声を上げ立ち止まる私に彼はまた手招きをした。
ずっと会いたくて声が聞きたかった彼なのに、そこへ行く勇気がなかった。

彼女がいる人を好きになったなんて誰にも知られたくなかった。
そっと更衣室から出て一気に階段を駆け下りた。
裏口のドアに手を掛けた時、後ろから彼の声が聞こえた。
「桜田さん、待って!」 

彼は息を切らしていた。
私はその姿を伏し目がちに見て「あっおかえりなさい」と言った。

「元気だった?」
「うん、元気だったよ。永尾さんは?」
「俺、毎朝のマラソンがキツくてへこたれていた」
「ああ地獄の早朝マラソンね?空腹で走れないよね」
「朝から晩まで研修だし、もう本当にクタクタだったよ。でも最後の2日間は、桜田さんの声を聞いたから頑張れた」
彼のその何気ない一言に私の心は揺れた。

「もう行かなきゃ。バスの時間だから」
「ごめん。ずっと話したかったから」
「言う人、間違えてない?」
私はそう言って笑った。

「間違えてないよ」
彼は急に真面目な顔つきで言った。
「そう?だって彼女いるじゃない。あ、彼女の声は毎日聞いていたか…」
「聞いてないよ。桜田さんの声が聞きたかったんだよ」
「ん?その手には乗らないよ。お疲れさま」

私はわざとおどけて言った。
4年も付き合ってる彼女がいるのに、からかわれているような気がしてならなかった。
でも真面目な顔つきの彼が頭から離れなかった。
どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、検討がつかなかった。
ただ、自分が傷つくのを恐れていた。
本当の気持ちを隠して平然としている、可愛げのない私がそこにいた。

帰宅後、久しぶりに健太郎先輩から電話があった。
「今度の日曜、空いてる?」
「うん、空いてるよ」
「じゃあさ、いつもの駅まで来てよ。俺、夜勤明けになるからさ」
「無理しなくていいよ。また今度で」
「午後からでいい?話したいこともあるからさ」
「話?なんの話?」
「会ってから…」
彼の話は想像できた。
たぶん別れ話だろう。

日曜の午後、待ち合わせた彼と何度か行ったお店に入った。
薄暗い店内にバラードが流れ、テーブルには生花とキャンドルが灯る落ち着ける空間だった。
結局、その店では彼は別れを切り出さなかった。
駐車場に止めた車のエンジンをかけると、カーラジオから[銀の指環]が流れていた。

夕べも僕はねむれなかったよ 終った愛をさがしていたんだ
二度と帰らない 夢のような恋よ 
君はいつのまにか 消えてしまったよ
おぼえてるだろ銀の指環を 二人がちかった愛のしるしさ
君は言ったね 指にくちづけして 
二度とはずれない 不思議な指環だと
     財津和夫 作詞・作曲

二人は黙って聴いていた。
曲が終わると煙草に火をつけながら彼は言った。
「あの指輪、どうした?」

1年前に二人で買ったペアリング。
咄嗟に指を隠しながら私は答えた。
「今日は忘れちゃった。先輩は?」

「俺はここに持ってるよ」
そう言って片手で首のチェーンを引っ張った。
チェーンには色褪せたシルバーリングが通されていた。
彼はそれをずっとしていたのだろうか?

相変わらず二人は黙っていた。
もうすぐ私の家だった。
カーラジオのDJは次の曲は[秋の気配]と言った。

あれが あなたの好きな場所
港が見下ろせる こだかい公園

こんなことは 今までなかった
ぼくが あなたから離れていく
ぼくが あなたから離れていく
   小田和正 作詞・作曲

曲が終わると彼はカチッとラジオを消した。
「ずっと聞こうと思っていたんだけど…俺たちの関係のこと…俺のこと、どう思っているの?友達?」
「友達って言うか…今一番信頼できる大切な人だよ」
「知り合って1年になるけど平行線のままだよね」
「1年って言っても月に1,2回しか会えなかったでしょ。電話もできないし」
「いつも言ってるけど、夜勤明けても次の日が休みとは限らないんだ。そしたら市内に帰ってる暇ないし」
「でも電話ぐらいできるでしょ」
「じゃあナナが職場のほうに来てくれればいいのに。最初の頃はよく来てくれただろ」
「だって私もコンピューター化で残業や休日出勤が続いていたんだもん!」
私は少し興奮した声で言った。

「俺、無理したくないんだよ!ナナにも無理させたくないし!」
彼も少し声を荒げた。

「じゃあどうすればいいの?電話すらままならないのに。ずっと平行線に決まってるじゃない!」
「俺もう曖昧な付き合いはイヤなんだ。友達のつもりならはっきり線引きしたいんだ」 
「友達なら付き合えないってこと?恋人じゃないと付き合わないってこと?」
「まぁそう言うことかな…」

長い沈黙のあと、私は言った。
「じゃあいいよ。健太郎先輩のことは友達だと思っているから」
「わかった。俺は友達なんだね?」
「うん」
その言葉を聞いた彼はエンジンをかけた。

私の家を少し通り越して、彼は中から助手席のドアに手をやった。
さぁ降りてと言わんばかりに。
「ありがとう。じゃあ…」
「じゃあな」
その夜が最後だった。
あっけない別れだった。
幼い恋だった。
          *
冬がそこまで来ていた。
「ねぇ桜田ちゃん、今夜飲みに行かない?」
昼休みの食堂で同じ経理課の春木先輩が言った。
「うん、行く」
「さっき稲村さんが仕事終わったらみんなで【福】行こうって」

水割りで乾杯のあと、8トラとレーザーディスクの入り混じったカラオケ大会が始まった。

忘れてしまいたい事や どうしようもない寂しさに
包まれた時に男は 酒を飲むのでしょう
飲んで飲んで飲まれて飲んで
飲んで飲みつぶれて寝むるまで飲んで
やがて男は 静かに寝むるのでしょう
   川島英五 作詞・作曲

[酒と泪と男と女]を課長が歌っていた。
あはは、また奥さんに怒られたのかな?

次に稲村さんがマイクを持った時、カランカランとドアが開いて永尾さんと小林さんが立っていた。
「よっ」
永尾さんが振り向いた私に敬礼した。
そして課長と春木先輩の間に座った。

しばらくして彼が隣に座り、何杯目かの水割りを一口飲んで言った。
「ねぇ本当に別れたの?」
「本当だってば。いつの話してるの」
「だってあんまり、しょげてなかった」
「しょげてたよ。思いっきり」
「原因は?」
「いいじゃない、もう。幸せな永尾さんには言いたくないよ」
「俺たちも自然消滅したよ」
「えっ?」

今なんていったの? 他のこと考えて
君のことぼんやり見てた
好きなひとはいるの? こたえたくないなら
きこえない ふりをすればいい
君を抱いていいの 好きになってもいいの
君を抱いていいの 心は今 何処にあるの
   小田和正 作詞・作曲

小林さんが[Yes-No]を歌っていた。
彼の言葉に驚いて、歌声は耳に入っていなかった。

「だから自然消滅したんだよ」
静かに彼は言った。
「えっ、なんで!4年も一緒にいたのに」
「4年も一緒にいたからだよ」
「意味わかんない」
「大人になればわかるよ」
「もう大人だってば」
「揺るぎない愛なんてものは ないんだよ」
「そうかな?私は永遠の愛を信じるけど」
「だからお子ちゃまだって言うの」
そう言って彼は笑った。
無理して笑った顔だった。

永ちゃんの[夏の終り]の前奏が聞こえてきた。

君と二人で歩いた 浜辺の思い出
あの時二人で語った 浜辺の思い出
ああ もう恋などしない 誰にも告げず
ただ波の大人だけ さみしく聞こえる
   矢沢永吉 作詞・作曲

「ねぇ、永尾さん彼女と自然消滅したんだって」
私は歌ってる彼を横目に春木先輩に言った。

「あらっチャンスじゃない。頑張りなさいよ」
「えっ?なに?」
「桜田ちゃんの顔見てればわかるって。永尾さんが好きなんだなって」
「やだ嘘。そんなことないよ」
「だって健太郎くんと別れた時もそんなに落ち込まなかったのは、永尾さんがいたからでしょ?」
春木先輩の鋭い突っ込みに返答ができなかった。

数週間後、社内でクリスマスパーティーが開かれた。
それなのに最終段階のデータ処理で朝からてんてこ舞いだった。
18時からのパーティーに間に合わず経理課だけ仕事をしていた。

「桜田さん、こんなフォアグラ今しか食べれないよ」
永尾さんが経理課にやって来て、キャビアやロブスターが乗った山盛りのお皿を私に手渡した。

「本社に送信した累計と合わないんだってね。今、稲村さんが支社長に説明してた」
「うん。本社にそのままデータが行くはずだから数字が合わないのはあり得ないんだ」
「そっか。ねぇ俺さ、ここ途中で抜け出して営業所のパーティー行くんだけど一緒に行く?萩原先輩が先に行ってるんだけどさ」
「え、うん行きたい。データ処理は月曜日に延長してもらえたから」
「じゃあ駐車場で」
彼は小声でそう言ってパーティー会場の方へ消えて行った。

私は制服からドレスに着替え、彼と約束した時間に駐車場に行った。
先に待ってた彼は私を見つけると手を挙げた。
「タクシーチケットもらったけどここに呼ぶとバレるから、あそこの病院のタクシー乗り場まで行こう」
私たちは誰かに見られないように走って、待機中のタクシーに乗り込んだ。

「俺、二人っきりになりたかったんだ」
「えっ?」
突然の彼の言葉に私は耳を疑った。

彼は私の手をそっと握った。
驚いた私を見ないように彼は言った。
「運転手さん、なるべく早く行きたいのですが」
「じゃあ高速使って行きますか?」
「はい、お願いします」

営業所とそれに隣接する借上げ社宅が見えて来た。
雪がフワフワと舞い始めていた。
「どうしよう。ついて来ても良かったのか今頃、心配になってきた」
「大丈夫だよ。みんな歓迎するって。桜田さんの同期もいるんだし」

私は101号室のインターフォンを押す彼の後ろに立った。
「こんばんは。永尾です」
「おお〜待っていたよ」
そう言って何人か玄関に顔を出した。
と同時に私の顔を見て驚いていた。 

私は好奇の目にさらされながら同期の天野ちゃんの隣に座った。

「まさか桜田ちゃんが永尾さんと来るとは思わなかったよ」
だいぶ馴染んだ頃、天野ちゃんはお菓子を手渡しながら言った。

「うん。ここで二次会するからって永尾さんに聞いて、はずみで着いて来ちゃった」
「永尾さんが来るって聞いていたけど まさか二人で来るなんてさ」
「なんか急にそう言う流れになっちゃって」
「永尾さんとだから来たんでしょ?」

天野ちゃんとは去年の研修で仲良くなっていた。
最近の永尾さんへの気持ちを彼女だけが知っていた。

翌朝、外は銀世界だった。
私と天野ちゃんは先輩の部屋に泊めてもらっていた。
再び101号室に行くと、そこで雑魚寝をした永尾さんたちがいて、私の顔を見て彼は言った。
「その格好で寒くない?」
「おはよう。寒いよ。雪の朝だもん」

ストーブの前にしゃがんで手をかざしていたら、フワッと肩になにか掛かった。
ダウンジャケットだった。
振り向くと永尾さんが立っていて「寒そうだから」と言った。

「えっ、いいよ。永尾さんも寒いでしょ」
「俺はスーツ着てるから寒くないよ。桜田さん、足丸出しだし」
「あっ」
私は思わずダウンで足元を隠した。

「おい永尾!買出しに行くぞ。食べるものないから!」
その時、キッチンの方から萩原さんが叫んだ。

「あっこれ着て行ってよ」
「いいよ。俺、寒くないし車だから」
そう言うと手渡したダウンをもう一度私の肩に掛けた。

永尾さんが離れると、それまで黙って私の隣にいた天野ちゃんが言った。
「あれ絶対、永尾さんも桜田ちゃんに気があるよ」
「そんなことないよ」
「だってコート着てストーブに当たってるのにダウン掛けて行くんだよ?」
「女の子に優しいんだよ、永尾さんは」
そう言って私は彼のダウンに首をすくめた。

週明け、会社に着くなり春木先輩が言った。
「営業所のパーティーどうだった?」
「すごく楽しかった。みんな良い人ばっかりだったし」
「昨日、営業所の青井ちゃんから電話で聞いたよ。二人いい雰囲気だったって」
その言葉に私ははにかんだ。

朝礼後、永尾さんは「おはよう」と私の横を通り過ぎて行った。
まるで何もなかったかのように。
彼に会ったらどんな顔をしようかと思っていた私は、ちょっと拍子抜けした。
あの二日間は夢だったのだろうか…。

年末の忙しさから彼とは話もできないまま一週間が過ぎようとしていた。
お昼の食堂で春木先輩が隣に座って小声で言った。
「明日、永尾さん地元に帰って彼女に会うらしいよ」
「えっ?別れたんじゃなかったの?」
「みたいだね。それともヨリを戻しに行くのかな?」
「そうなんだ。知らなかった」
私は平静を装うので精一杯だった。

そして週明けの社内でとびっきりの笑顔の彼にすれ違った。
「おはよう」と言った声はワントーン高かった。
それで全てを察した私は、彼への想いを閉じ込めてしまった。
自分一人が幸せに酔いしれていたかと思うと惨めだった。
ちっぽけなプライドを守ろうとする私がいた。

そんなある日、小林さんが私を呼び止めた。
「この間のクリスマスパーティーの時、永尾と抜け出して営業所行ったでしょ?」
「・・うん」
私はどう返答しようか迷った。

「それが永尾の部長にバレて忠告されたんだって」
「えっ?部長に?」
「うん。経理の女の子に手を出すなって。社内恋愛も禁止だぞって」
「そんな…ただ一緒に営業所に行っただけだよ」
「その営業所の誰かが部長に言ったらしい」
「で、永尾さんは何て言ってた?」
「さぁ?その話を俺の主任から聞かされただけだから」
そう言って小林さんはちょっとだけ口角を上げた。

新年が明けてから永尾さんは、私が近くに行ってもまったく声を掛けてくれなくなった。
同棲していた彼女とヨリを戻したし、部長に忠告されたこともあって私を避けているのだろう。
想いを断ち切るのは容易ではなかったけど、お門違いだと無理やり心の中に押し込めた。
          *
いつしか彼とは顔を合わすことも言葉を交わすことも、なくなっていった。
そんなある日、彼が同じ部署の女の子と付き合っていると言う噂を耳にした。
しかも部長公認だという。
・・ウソでしょう、彼女はどうしたの?
・・ウソでしょう、部長が社内恋愛禁止だって言ったんじゃないの?
そんな気持ちが渦巻き、噂の真意を今すぐにも知りたくなった。

その日、永尾さんは当直だった。
給湯室に向かう彼の後ろ姿を目で追いながら、私は席を立った。
コーヒーを注いでいた彼は私を見るなり「あっ」と言った。
「今日、当直なんだね」
「おう。桜田さんは残業?コーヒー飲む?」
彼は笑顔でカップを差し出した。

「なんか桜田さんと話すの、久々だね」
「そうだね。永尾さん、冷たくなったから」
「そんなことないよ。気のせいだよ」
「そうかな?じゃあ聞いてもいい?」
私の心臓がドキドキしているのがわかった。

「田中さんと付き合ってるって本当?」
「えっ?」
永尾さんは驚いて目を見開いた。

「付き合ってないよ。部内だけの付き合いだよ」
彼は私の顔を見て笑った。

「それって本当?」
「本当だよ」
「ホントに?」
「ホントに。安心しろよ」
「わかった」
私はそれだけ言ってきびすを返した。

彼の言葉を信じよう。
彼のあの笑顔を信じよう。
これで十分だと机の上を片付け始めた時、彼が給湯室からまっすぐこっちにやって来た。
「桜田さんだって小林と付き合ってるじゃない」
小声で彼はそう言った。

「小林から聞いているよ」
「誤解だよっ」
「そう?昨日も送ってもらったでしょ」
「それは…」
「それは?」
「たまたま帰りが遅くなっちゃったからだよ。ただそれだけ」
私は一生懸命、弁解をした。
永尾さんには小林さんとの仲を誤解されたくなかった。

帰り道、給湯室での永尾さんとの会話を思い出していた。
同棲していた彼女とヨリが戻ったのならしょうがないとすでに自己完結していた。
そのせいか最近は彼への想いが薄れているのを自分自身でも感じていた。
でも、部内の子と付き合ってるとなると話は別だ。
忘れかけていた彼への感情が一気に溢れ出した。

給湯室での彼の言葉を信じよう、そう思った。
私に向けたあの笑顔を信じたい、そう思った。
それなのに、悲しいかな私のその想いは完全に裏切られることとなった。
          *
私はどんなに後悔しただろう。
永尾さんが同棲していた彼女と別れ、傷心状態でいたのを知らずに小林さんと遊んでいたことを。
その隙に後輩の田中さんが、彼の心に入り込んでいたことに気づかなかったことを。

田中さんとの関係を聞いた日から半年が経とうとしていた。
その頃にはもう、私の目から見ても二人が付き合っているのがわかっていた。
社内で二人の姿を見るのは辛く悲しかった。

それでも時が経つにつれて永尾さんへの未練が少しずつ薄れていった。
本当に少しずつ、少しずつ…。
やがて私は退社を決意した。
          *
今年も会社恒例のクリスマスパーティーが開かれた。
退社することを知っていた人たちがビール片手に私の周りに集まっていた。

「桜田さん、水割り飲む?」
ふいに背後から聞き慣れた声がした。
振り返るとうっすら赤い顔をした永尾さんが、同期の高岡さん達とグラスを持って立っていた。
薄明かりの下だったが、彼の顔をまともに見るのは数ヶ月ぶりだった。
驚いた私は「うん、飲む」とだけ言った。

水割りの入ったグラスを2つ持って戻って来た彼は、私にハイ!とひとつ差し出した。
「ありがとう」
私は思いがけない彼の行動に動揺していた。

「さっきからビールばかり注がれて飲んでいたでしょ。苦手だったよね?」
「え?見てたの?」
「うん、まぁ。メロン食べる?持って来るよ」
「いいよ、いいよ。自分で取りに行くから」
「いいよ。俺も食べたいから」
そう言って彼はコーナーへ歩き出した。

永尾さんと話がしたい、瞬間的にそう思った私は彼の後を追った。
彼は生ハムが巻かれたマスクメロンを二つ、お皿の上に乗せていた。
それを見ておととしのクリスマスパーティーを思い出した。
あはは、2年越しに食べられると私はニヤけた。

「永尾さん」
「あっ、持って行ってやるのに。コレ好きだったよね?」
「うん。覚えてたの?」
「だってあの時、コレ食べ忘れてショックだってずっと何日も言ってたじゃん」
私は2年も前の出来事を、昨日のことのように話す彼に驚いた。

「パーティーも、もう最後なんだね」
「知ってた?」
「知ってるよ。退社願を出した日に耳に入ったよ」
「そっか」
「俺このまま桜田さんと何も話せずに離れるのは、イヤだったんだ」
「今さら何を話すの?」
私はそう言って持っていた水割りをグイッと飲んだ。

「ちょっとこっちに来てよ」
彼は私の腕を引っ張った。
「・・嘘つき」
「えっ?」
「永尾さんの嘘つき」
この日まで自分の中に押し込めていた彼への感情が、一気に溢れ出しそうだった。

「あの時、田中さんと付き合ってないって言ったじゃない」
「あっ・・」
「安心しろよって言ったじゃない」
「・・ごめん」
「嘘つき」
「ごめん」
「永尾さんの嘘つき」
「ごめん」
私は思いの丈を彼にぶつけた。

「俺もさ、桜田さんの事ずっと好きだったんだよ」
永尾さんはポツリと言った。

「えっ?」
「パーティー抜け出して営業所行ったこと覚えてる?」
「覚えているよ」
「俺、何度も一緒に飲みに行って騒いだ事も、みんな鮮明に覚えているんだよ」
「私だって…私だって全部覚えているよっ!」
うっすらと涙を浮かべて私は声を上げた。

「今さら言うことじゃないけど俺にとっては、すごくいい想い出なんだ」
「うん」
「桜田さん、結婚決まったんでしょ」
「・・うん」
「俺にも今、付き合ってる人いるし」
「うん」
「お互いにさ、いい想い出として胸に抱いていこうよ」

彼はそう言って、私の頭をポンポンと叩いた。
昔よくやってくれたように。
彼はメロンの乗ったお皿を私に渡して、その場を離れた。
入れ替わりに、今年は支社のパーティーに参加していた天野ちゃんが隣にやって来た。

「桜田ちゃん、大丈夫?永尾さん、なんだって?」
「ずっと好きだったんだって今頃言われちゃったよ」
「えっ?」
「どうせなら1年前に言ってくれれば良かったのに」
「そうだね、今さら言わなくってもね」
「忘れられない想い出ばっかりだけど胸に抱いていこうって。そんなのできないよ。できるわけないじゃん」
私は大粒の涙を流した。

「桜田ちゃん…」
「今さらそんなこと言うなんてズルイよ。私の気持ち知ってたくせに、ズルイよ」
「桜田ちゃん、この事はもう忘れよう」
「なんでもっと早くに言ってくれなかったの。なんで今さら言うの」
「もう忘れようよ」
天野ちゃんはそう言って、私を抱き締めてくれた。
私は彼女の中で声を殺して泣いた。
          *
数ヶ月後、私は子会社のオープニングスタッフとしてお手伝いに行っていた。
結婚式までの契約だった。

ある日のお昼近く、会社から郵便局に向かって歩いていた。
突然、反対車線から「桜田さん!」と大声で呼ばれた。
えっ?と振り向くと、永尾さんが見慣れた看板車の窓から顔を出して走り去って行った。
私は驚いてその場に立ち尽くした。

「見間違いだっただろうか…」
ふと我に返り、また歩き出すと後ろからクラクションが鳴った。
彼だった。
看板車を片隅に寄せ、助手席の窓を開いて「久しぶり!」と笑った。
私は声が出なかった。

「元気だった?」
「うん、久しぶり。こんな所で偶然だね」
私は震える声で言った。

「桜田さんがそこのビルに手伝いに来てるって聞いていたんだ」
「えっ?」
「で、うちの制服を着て歩いていたからもしや?って思って。今、Uターンして来た」
数ヶ月ぶりの彼の笑顔は相変わらずだった。
私は突然の再会にどう話したらいいのか戸惑っていた。

「俺さ、もうすぐ会社辞めるんだ」
「えっ、辞めちゃうの?」
「うん。で、地元帰るんだ。オヤジの具合、悪くてさ。実家手伝おうと思って。今ここで桜田さんに会えて良かったよ」
「私も。また会えるとは思っていなかった」
「偶然にもね。じゃあ…元気で」
「いつ帰るの?」
「来週いっぱいで辞めるよ。んじゃ元気でね」
「うん。永尾さんもね」
そう言うのが精一杯だった。
彼はクラクションを鳴らして走り去って行った。

永尾さんが退社するのは明日だった。
会社に在籍していれば、どこに転勤になっても消息は掴めるだろう。
でも辞めて地元に帰ったのなら…。

もう会えない。永遠に会えないんだ。
そう思うと私は朝からいてもたってもいられなかった。
意を決して、震える指で支社に電話をした。
子会社からなら怪しまれないと思って、彼に取り次いでもらった。

「今からハート銀行へ行くんだけど来れない?」
「えっ?今から?」
「うん。最後に会いたいんだ。銀行で待ってるから」
「・・じゃあ20分後ぐらいに」
「ありがとう」
私は受話器を置くと送金の準備をし、足早に銀行へ向かった。

彼はなかなかやって来なかった。
気が変わったのかもしれない。
どこかですれ違ってもう帰ったのかもしれない。
だんだん不安になって辺りを歩き回ったが、彼の姿を見つけることが出来なかった。
私は失望して、うつむいて銀行内のソファに座り込んだ。

明日で退社と言う彼に、最後に逢いたい一心で思い切って彼に電話をした。
もうすぐ逢える、逢えるんだと胸は高鳴った。
それなのに…。
今、私はここで何をしているんだろう。
何をすればいいんだろう。
バッグの上にポタポタと涙がこぼれた。

ハンカチで目を押さえ顔を上げた時、彼が目の前に立っていた。
「永尾さん」
「ごめん、遅くなって。大丈夫?」
私の顔を見た彼は、うろたえながら隣に座った。

「・・・来てくれないのかと思った」
「ごめん。クレーム処理してたんだ」
「忙しいのにごめんね。ありがとう」
「いや俺、もう大した仕事ないし。電話もらった時、嬉しかったよ」
「明日、辞めちゃうんだよね。もう逢えなくなるね」
「うん。桜田さん、もうすぐ結婚するんだろ。幸せになれよ」
「・・・うん」
彼の言葉に胸が詰まった。

黙った私の手元を見て彼は言った。
「送金したの?」
「あっ、忘れてた!」
「バァカ。何しに来たんだよ」
そう言って、私の頭をポンと叩いた。

変わらない笑顔だった。
大好きな笑顔だった。
このまま時が止まればいいのに…
本気でそう思った。
でも…。

私は窓口に送金を依頼し、彼の元へ戻った。
彼は煙草を消して静かに言った。

「俺も結婚することにしたよ」
「えっ?そうなの?」
「うん。そろそろ身を固める歳だし」
「身を固めるってまだ25じゃない」
私はつとめて明るく言った。

しばらくして窓口に呼ばれ、二人で立ち上がった。
そして出口近くまで来た時、彼は右手を差し出した。
「じゃあ元気でね」
「やだ、みんな見ているよ」
私は彼の手を掴めなかった。
永遠にさよならの握手はしたくなかった。

私たちは無言で駐車場の方へ歩いて行った。
「じゃあ、俺行くよ」
看板車のドアに手をかけ、振り向きざまに彼はそう言った。

「うん。元気でね」
「うん。幸せになれよ」
「ありがとう。永尾さんもね」

彼はエンジンを掛け、窓を開けた。
「幸せになれよ」
もう一度そう言うと、私の大好きな飛びっきりの笑顔を見せた。

「ありがとう。バイバイ!」
私は涙でクシャクシャの顔で笑った。

永遠のさよならだった。
この先もう二度と逢うことはないだろう。
          *
今、どこにいるのかな。
なにをしてるのかな。
雪が降るとあなたを想い出す。
         『完』

#創作大賞2022

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