中学校の夢

 中学を卒業して十五年経つが、今でも時々中学の夢を見る。ほとんどの場合、それは悪い夢だ。
 既に学士学位も修士学位も持っているにもかかわらず何故か中学をやり直す羽目になったり、高校入試で失敗して浪人することになったり、先生が鬼の形相で怒鳴りながら教鞭を振り回したりといった夢から覚めた時、私はいつも冷や汗をかきながら、自分がもう大人であること、そして日本にいることを確認して、ホッとする。
 日本に来た二〇一三年の最後の日、台湾と中国が開戦したという血みどろの夢を見たのだが、夢の舞台がまさに私が通っていた中学校だった。

 日本には「ゆとり世代」という言葉がある。年齢で言えば私もその世代に入るのだが、当然ながら私はゆとり教育というものを受けたことがない。それどころが、私が通っていた台湾の片田舎にある公立中学校(とにかくそれが学校であることを否定したい気持ちが強いので、以下ではX中学と書く)では、進学至上主義のもとで、徹底したスパルタ教育が行われていた。
 それは二〇〇〇年代の中頃だった。既に少子化が叫ばれ始めていたが、それでも台湾は学校の数が少ないからか、一校ごとの生徒数は日本より遥かに多かった。私が通っていたX中学では一学年に約二十クラスあり、一クラス三十五人で計算すれば、三学年で合計二千人以上が在籍していたことになる。片田舎の中学校でもこんな人数だから、これくらいの規模感が台湾では普通だったのではないかと思う。
 中学教育は台湾でも義務教育だが、X中学では入学時に試験を行い、その成績でクラス分けを行う。成績の良い順に「A+クラス」「A-クラス」「人情クラス」「普通クラス」と呼ばれていた。特筆すべきは「人情クラス」というものだが、これは「成績がA-クラスの基準に満たないが、普通クラスに入れるほど悪くないので情けをかけてやろう」というケースと、「成績は悪いが、親は地方の偉い人、またはコネのある人だから配慮しなくちゃ」というケースがあると言われていた。
 エリート志向の私立学校ならいざ知らず、公立学校が学力でクラス分けをすることは法律で禁じられていた。X中学ももちろん大っぴらに「A+クラス」「A-クラス」などと呼んでいない。主管機関にばれないよう、表向きでは普通に「一組」「二組」「三組」と呼んでいたが、馬鹿じゃあるまいし、どのクラスがA+でどのクラスがA-かなどはみんな知っていた。例えば四の倍数に当たる「四組」「八組」「十二組」「十六組」がA+クラス、という具合に。クラス間の格差は、何らかのランク付けがなされる度にはっきりと表れる。定期試験で学年上位に入るのは常にA+クラスの生徒だし、清潔が保たれている、秩序が良い、などといった表彰をされるのも常にA+クラスだった。
 私はA+クラスにいた。A+クラスには良い教師が割り当てられるなど、比較的多くのリソースが割かれるらしいが、私には有難くも何ともなかった。片田舎の良い教師といってもたかが知れている。実際、「先生」と呼ばれるあの大人たちは愚劣で、理不尽で、みっともなかった。今にして考えればそれほど学歴も見識もなく、人格も性格もたいして尊敬に値しないくせに、教師という名ばかりの権威にしがみつき、生徒を支配していた。問題用紙をばら撒くことと体罰することしか能のない彼らが考えつける教育手段は、せいぜいこんなものだった――朝七時に登校、午後五時半に下校、夏休みも冬休みも土日も学校へ行く、夜も九時半まで学校で自習。音楽美術家庭学活は時間の無駄なので全て国語英語数学理科社会に充てる。問題用紙に問題集に参考書、とにかくいっぱい宿題を出す。小テストに週間テストに定期試験に模擬試験、平均して一週間に三十回以上のテストをやる。恋愛するなテレビ見るな漫画読むなゲームやるな小説書くな勉強だけしてろ。部活何それ美味しいの? 宿題をしていない人、遅刻する人、テストの点数が及第点に達しない(及第点というのは概ね百点満点の九十点のことをいう)人は、問答無用で殴ったり校庭を走らせたり腕立て伏せをさせたりする。何か気に入らないことがあるとすぐ癇癪を起こしてクラス全員に向かって訳も分からず喚き散らす。
 そんな劣悪な環境で中学生活を過ごしたら、どんな「青」春でも限りなく灰色に近いブルーになる。

 まず思い出すのは何よりもあの校庭だった。
 南国らしく椰子の樹が植えられ、二百五十メートルの赤いトラックに囲まれる緑の芝生に、生徒たちは毎朝集められ、朝礼を開く。朝礼では校長先生やらなんとか主任やらなんとか先生やらが日替わりで出てきてどうでもいい訓示を垂らす。彼らは大体校庭前方にある、「司令台」と呼ばれる高台の上に立ち、マイクで話す。軍隊よろしくクラス単位で整列して立っている、二千人を超える生徒を見下ろしながら。『HUNTER×HUNTER』の中で、独裁者が高い宮殿から全国民の集まる国民大会を眺める時の感覚を「性交とは全く別の、得もいえぬ快感」と表現しているが、ただ自分の話を聞くために炎天下で集まっている二千人を超える少年少女を見下ろす時、あの何とか先生や何とか主任もさぞかし極上の快楽に浸っていたのだろう。
 一番よく喋るのは校長先生だが、彼は認知症が進行していたのか、記憶機能に使われる脳のスペースは髪の毛の毛量並みに少ないように思う。五分前に喋ったばかりのことを五分後にまた繰り返したり、「それから」といった接続詞で話を無限に繋げたり、「最後にですが」という副詞句を間投詞みたいに使ったりするものだから、私たち生徒は烈日の下で草いきれに耐え、彼の頂上の輝きを見つめながら壊れたテープレコーダーのように延々とリピードされる話を聞かなければならない。ずっと同じ話を繰り返しているだけなのに全く自覚がないように見えるのがすごいが、感心する場合ではない。彼は屋根がついている司令台の上に立っているからいいけど、私たち生徒は亜熱帯の国・台湾の真夏の直射日光にいつまでも晒され続ける羽目になる。つまらないくせに無駄に長いその話は、時に一時間も二時間も続く。身体が弱い女子生徒が熱中症で倒れるのが日常茶飯事だった。病院送りになった人もいたっけな。それでも彼は少しも動じず、毎回毎回長ったらしい訓示を垂らし続ける。自分の話していることは生徒が体調を崩してまで聞くべき大事なことだと本気で思っているのかと、今でも不思議である。
 体調と言えば、生活指導主任の体調が心配だ。身長よりも体の横幅の方が長い彼は、BMIの値がどうなっているのかとても気になる。生徒を殴る以外の運動をしているといいが、そればかりは知りようがない。それにしても、あの二リットルのペットボトル並みに太い二の腕を見ると、殴るのが痛いから生活指導主任なんてものに任命されたのではないかと勘繰りたくなる。毎日昼休みの時間になると、生活指導室前のスペースは処刑場と化す。朝、登校する時に校門で服装検査が行われ、白以外の靴下を履いてきた人、靴下の長さが足りない人、スカートが短い人、ネクタイやリボンやベストを忘れた人、ブレスレットなどアクセサリーをつけている人などは全て名前を控えられる。昼休みに殴られに生活指導室へ行かなければならない。彼は木の板や木の棒で、生徒のお尻か掌を叩く。月に一回、髪の毛の検査が行われ、男子はスポーツ刈り、女子は襟に届かないくらいのおかっぱ頭でなければならず、違反者は同じような処置をする。前世が床屋で現世でも時々腕が鳴るのか、朝礼の時、全校生徒の前で髪の毛が長過ぎる男子の頭にバリカンを滑らせることもある。

 生徒が長い列を作り、様々な原因で叩かれるのを待つ――中学時代の記憶を掘り起こそうとした時に思い浮かんだそんな情景が、私にとって何よりも中学校という場所の在り方を示している。支配が、暴力が体制として制度化しているから、叩く側も叩かれる側も何も疑問に思わない。籐の鞭を手にして「今日はしっかり運動させてもらうぞ」と言いながら腕をぐるぐる回す教師もいれば、叩かれる前にへらへら笑っている生徒もいた。
 叩かない教師がまともだったかというと、そうでもない。叩くのではなく罰走を好む教師もいた。数学教師がそうだった。
 今でもよく覚えていることがある。あの日、数学の授業が最後の一時間で、授業が終わるとそのまま下校になる。先生は答案を返却し、何問か解説すると自習を指示して、教室を出ていった。運動場で他の教師とバスケットボールをやっていたのだ。私たちは静かに自習したが、やがて下校時間になり、ベルが鳴っても先生は戻ってこなかった。他のクラスの生徒たちはみな教室を出て、ぞろぞろと帰途についているにもかかわらず、五分経って十分経っても先生は戻ってこない。このまま待ち続けても仕方がない、そう判断したのか、クラスの委員長はリーダーシップを発揮して「もう帰ろう」と言った。その言葉に従ってみんなが荷物をまとめている時、タンクトップ姿の先生が汗を流しながら戻ってきた。みんなが帰ろうとしているのを見ると激怒し、「誰が帰っていいって言ったんだ? 全員グラウンドを二周してこい!」と怒鳴った。クラス全員が罰走させられる羽目になった。
 そもそも授業の時間なのに教師がバスケなんかしているのがおかしい、ということに私は思いが及んだかどうか、今ではもう覚えていない。思いついていたらそれを指摘できたかどうかも分からない。そんなことより、この出来事が端的にある事実を示している――あの片田舎の狭い中学校において、正義や真理、場合によっては法律も、教師たち、大人たちの都合でいとも簡単に折り曲げられてしまうものだ、ということ。あの数学教師が学校の外で個人塾をやっていたことはみんな知っていた。それはもちろん違法だが、誰も告発しなかった。学校が学力でクラス分けをし、音楽や美術など受験にない教科は一切教えない。それも違法だが、誰も告発しなかった。学校側は名門高校への進学者数を増やし、知名度を上げたいという思惑がある。保護者側は自分の子供に良い成績を取り、良い高校に入ってほしいと願う。学校の主管機関である教育局も事なかれ主義で、違法行為に対しては見て見ぬ振りを貫く。結局のところ、中学校、そして教育システムというのは巨大な共犯構造なのだ。そんな構造にからめとられている一人の生徒にできることなど、何もなかった。
 七〇年代のことではない。二〇〇〇年代中頃の話だ。

 公平を期して付け加えると、あんな環境において、個人にはああするしかなかったという側面も、あったかもしれない。台湾は学歴社会、進学至上主義社会なのだ。名門高校への進学者数が少なければ学校の知名度が落ち、生徒数が減るかもしれない。だから学校側も必死だったのだろう。田舎の生徒はみんな話せば分かるような子ではなく、中には喧嘩を繰り返すヤンキーや不良もいた。教師にとって、厳しい校則を作ること、そして殴ることでしか抑えつけられない場面も、あるいはあったのかもしれない。公立中学校の教師の月給がいかばかりのものか私には知る由もないが、個人塾でお小遣いを稼ぎたくなるほどみみっちいものだったのかもしれない。
 が、そんな大人の事情など知るものか。暴力は暴力だ。百歩譲って、かりにあの人たちが本当に何かしらの事情を抱えていたとしても、それは暴力を受ける側の私が慮(おもんぱか)るようなことではない。私が知っているのは、中学を卒業して十五年経った今でもなお、私は時々中学校にまつわる悪夢にうなされるということ、それだけである。

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