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リストカットがSOSのサインだと知らなかった頃

今私は辛いのだ、とSOSが出せないことがある。
私は何年にもわたり、リストカットをしていた。
それがSOSのサインだったのだ、と知った頃から今もまだ後悔し、過去の過ちの1つだったと思っている。 

私は毒親から育てられ、顔色をうかがう生活に疲れ切ってしまっていた。
私がリストカットの方法を知ったのは今では手に入るかどうかわからない“完全自殺マニュアル”という本で、どうして家にあったのかは知らないがそれは私にとって救いに見えた。 

けれど現実は少しの救いもくれなかった。
死にきれる方法などあまりない。ましてや殆どの方法が誰かに迷惑をかけてしまうということを知ってしまった。
そんな勇気などなかった私はなんとなくカッターを手に取り、切れ味の悪いそれを手首に押し当てた。痛いだけで血はさほど出ない──痛いのは最初だけだったと記憶している。

今度は安全カバーのついていないカミソリを買い、見つからぬように隠した。
そしてお風呂に入るたびに傷は増えていく毎日。
より深く、より血が出るように洗面器にお湯を溜めて。
今思えば後先考えず続けていたこの行為は無駄どころか後悔しか残っていない。 
見える手首を切ればすぐ気づかれ、怒られた。
ならばと肘の裏や太ももなど見えない位置にかなりの傷を残した。
なぜそんなことをしたのか?
この家のせいだ、などとは言えなかった。
嘘をつくことに慣れてしまった私は学校でのいじめのせいにした。
それは半分本当だ。
家にはない居場所を求めようと学校ではわざと明るくふざけたりしていた。
けれどもその不自然なまでのしぐさ、本性はすぐに暴かれ、いじめへと発展することも少なくはなかった。
『お前が弱いからいじめられる』と毒親お決まりのセリフを吐いた父親、“体”に傷がついたことだけを嘆く母親。
私は冷めた目で彼らを見つめた。
私の心などどうでもいいのだ、と思い知った。
それからは堂々と母親にわざと傷を見せつけ、SOSを繰りかえしたがそれは結局のところ意味がなかった。 
自分を傷つけて心配されたい、少しでも気持ちをわかって欲しい。

そんな思いも虚しく私は無理やり精神科(当時はメンタルクリニックなどというものは田舎にはなかった)に連れられてしまった。
しかし母親も同席しての受診ではすべてを打ち明ける──毒親という言葉もまだまだ知られていない時代には、そんなことは不可能だった。
適当に答えてうつ病だと診断はされたものの薬は出してもらえなかった覚えがある。
そのあたりは良く覚えていない。
だが思い出と違って傷はずっと残るのだ。
なるべく傷の見えない服装を選んでも目には必ずつく。 
ウエディングドレス、水着、銭湯などどれも困ることしかない。
後悔しか残らないのだ。
これが私の過ちのひとつであり、これを見たリストカットをしようとしている人には思いとどまってほしい。
そしてしている友人がいたら止めろと強く言わずこんなことになるよ、と優しく話を聞いてあげてほしい。
その子のSOSを受け取ってほしい。
この行為は本当のSOSにはなりえないのだから。


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