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書く禅は小さな乗り物の悪魔の証明


人と話すときに、喋りながら次に喋ることが思い浮かびますよね。
記事を書く時も、書きながら次に書くことを考え浮かぶ感じです。
解きながら問いてまた解くような。
公案禅している感じでしょうか。
セルフで公案を出して坐禅しながらセルフ問答するようです。臨済宗ですね。

曹洞宗は、坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かう只管打座。
チャネリング情報によると、左脳で言語を考えてるよりも、右脳の閃きのアルファ波状態の方が宇宙と共鳴するようです。
そう考えると曹洞宗スタイルの方がいいですね。

しかし道元も、すべては修行だと作務の清掃や炊事を黙々と行うことが悟りとしました。
一心に作務をする、高めた集中でいるガンマ波状態が、ベータ波を越えた高周波数であります。
一心に公案禅するよりも良い波動かもしれません。

いずれにせよ禅は自力の思想。上座部仏教と称する小乗仏教。小さな乗り物です。
みんなで悟れる大乗仏教の他力に委ねるのが宇宙の理な感じもします。

このように仏教をネタにしながらあれこれ考えて解明しようとしても意味はないのわかります。「書きながら次に書くことを考え浮かぶ」限り、分析して解明しても、新たな浮かぶことに分析して解明したくなるだけですから。
問題を答えたら新しい問題が生まれるだけです。
宇宙の仕組みを解明しても、もっと深い宇宙があるのを知るだけですね。


なぜ坐禅するのでしょう。悟る目的は?
厳しい厳しい千日回峰行などの修行があります。
なぜ修行するのでしょう。
修行そのものが目的、坐ることこそ仏の姿とする話があります。
修行する理由がなければ、修行しない理由もありません。
修行そのものが目的ならば、修行しないそのものが目的にもなり得ます。
修行僧のドキュメンタリーなどを見てるとあれこれ思います。

修行する理由や書く理由など問われれば、いかようにも答えになりますが、どれも答えじゃないですね。
生きる理由もなく、生きない理由もない。
波動が高い目的もなく、波動が高くない理由もない。
ないことを証明するのは悪魔の証明と言われますが、あることを証明する狭い事が神の証明でもないでしょう

…などと書く目的もないけど、書かない理由もないんですよ。
無駄な公案です。

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