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リスクは同意しても、拷問を同意したわけではない


さやかアシュタールさんのところで、あれこれ考えます。


リンクのやり方を知ったので、またやりたくなりました。
まあふざけるのは大概にして、内容はシリアスです。
いろいろ考えるのですが、なかなか難しい話です。
自分で理解するのはどういう状況なのか、想定しました。

シリアの子ども達を助けるボランティア活動に参加したとします。
(内容がシリアスなので、シリアにしました。違います。)
活動先でテロ組織に襲撃を受け、拉致監禁され、西側活動者だと拷問を受け、腕を切断されたとします。

そのテロ組織を愛せよとしても、愛するのは難しいです。
テロ組織が西側諸国に追いつめられたのは理解しますが、だからと言って拷問残虐行為する正当な理由にはなりません。
また、シリアでの活動に参加を選択したのは私の意思です。
そのようなテロに合うリスクは知っていましたし、軽い気持ちではないが、実際に起こる覚悟まで受け入れたと言われれば、そうではないかもしれないです。
自己責任と自分で思っても、他人から言われたら納得しません。

顕在意識では、リスクは同意しても、拷問を同意したわけではない。
しかし、リスクはあるのだから、拷問も広義の同意になってしまいます。

腕を切断され、恐怖の一生のフラッシュバックは、取り戻せません。
一生を後悔して過ごすのも意思です。
その出来事を乗り越えるって、いったい何を乗り越えるのでしょう。
人々に平和を訴える?、そんな活動も本質的な同意の意義には結びつきません。
シリアでの活動を選択した過去の自分と、どう和解するのでしょう。
自分の未熟さと向き合うことでしょうか。
不可抗力な事故として諦めるのでしょうか。いや不可抗力なんてないですね。
新しい生活をして癒していくのでしょうか。
一つの経験として、大いなる宇宙に貢献したと思うことでしょうか。
どんな選択もイエスでありノーである、別の記事のアシュタールさんの話がよぎります。
いや、この場合は、どんな選択もイエスなのかも。

過去の自分との和解は、どんな現在の自分でもいいのかもしれません。
その現在の自分が、未来の自分と同時進行しているのでしょう。
うーん、シリアだな〜、じゃなかった、シリアスだな〜。


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