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理性と合理性の違いとカントのチャネリング如何

近代哲学の基盤と言われる哲学者のカント
そして最も難解である「純粋理性批判」。
この2行だけでもう読みたくないと、去ろうとする人、ちょっとお待ちください。
なかなかスピリチュアルというか、量子力学というか、チャネリング情報というか、18世紀の人も結構いろいろ共通するところあるなぁと感じる部分があります。

カントの純粋理性批判は何なのか、学生の頃、友人と話したことを思い出しました。
その友人は、「純粋に理性を批判すること」だと言いました。
なるほど!、なんかそれっぽい!、凝縮した言葉で哲学的だと感心しました。
まぁ、そんなわけはないんですけど、良いですね。
哲学の授業で、理性と合理性の違いは何か、という問いがありました。
どう思います?、ちょっと考えてください。
誰かが、「理性と理性を合わせて合理性」、と答えました。
いやーすばらしいですね。凝縮された言葉は哲学になります。

話を戻しまして、カントの純粋理性批判を私なりに要素をまとめると、以下だと思います。
人は主観から逃れられないが、普遍的客観性を見いだす。
なかなかスピリチュアルな香りしますね。

当時の18世紀のヨーロッパでは、近代科学が進んで世界の全てが科学で説明できる風潮になってきました。
当時からこうですよ。現代のメタトロンとかIPS細胞とかメタバースとか、進んでるようでいて同じ議論があり、大差ないですね。

カントは「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」という視点を解きました。
(ミミィさんからたしなめられましたが、フランクルの「夜と霧 」の一説、「人が人生に何を求めるのかではなく、人生がその人に何を求めるか」という視点に近いものがあります)
私たちには認識主観があります。その認識の共通する部分で科学が客観性を持つのです。
科学が実態となり得るのが私たちの認識という主観です。
乱暴に言えば、物質の存在も心が決めてる、なんてことです。
この世は幻想とか、物質は観測次第とか、スピリチュアル的になってきました。

宇宙にも言及します。宇宙に(当時にはなかったビッグバン概念)時間的な始まりがあるならば、その前は時間が存在しない、だから始まりもしない。ならば神も魂も主体的な観念にある。
しかし、我々の認識として存在している。
それを理解できる範囲を現象界、理解できない範囲を叡智界とカントは分類しました。
因果は現象界にあり、自由意志は叡智界にある、だから自然科学と自由意志は共存でき、主観を持って普遍性を見いだせるのです。
これは、宇宙は有限か無限か、理性では判断出来ないのを証明した、とされますが、「分かんないことが分かった」ってことですね。

当然、カントには限界があります。というか、私の解釈に限界があるような気がします。
私たちは、アシュタールさんにカンニングさせてもらってるので、良くわかるのですが、カントもチャネリング情報ないまま、かなりいいところまでいってるような気がします。
どうです?、哲学とか科学とかも、結構、精神世界との融合を感じる部分が多々あるんですよね。
一般受けしないですし、私もうまく説明できないのですが、普遍的なアプローチは哲学者の頑張りを感じて好きですね。
独善はむしろ楽です。

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