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塗り重ねる浅い人生の描き方

以前に、子供に質問を返すときにファンタジーに答えるのは危険だと話をしました。
現実を踏まえた上での空想は素晴らしいですが、ただの妄想は危なっかしいと考えます。


ピカソは、子供の絵を魅力を感じ、子供の絵の捉え方のような芸術作品に昇華しました。
決して子供の絵は芸術作品ではないです。
ピカソは写実表現を極めて、多くの画家よりも多くの作品を描きに描いて、キュビズムにたどり着きました。
ある視点から対象物を描くのではなく、多角視点からの対象物を同時に(時間と空間がない)表現する描き方です。

とある仕事でピカソを調べた知識なので、細かい見解はご容赦ください。
つまり複雑に複雑を重ねた上で1周回ってのシンプルさは素晴らしいです。
だけど、始めからシンプルなのはただ浅いだけです。
小学校の教室で並んでる子供の絵は、大人が作る社会にある表現に影響があったり、ただの注意力散漫なだけだったり、いろいろです。
子供なりに本人の性格が感じられます。

そういえば今思い出しました。
私は小学生の時に、宿題か何かで描いた絵が全国的な展覧会までいっちゃって、市長のとこまで表敬訪問させられちゃいました。
自分の心の中から出てくるものはなくて、社会が喜びそうなことを踏まえながら面白がって描いただけなので、後ろめたかった記憶があります。
市長が、君は感性が豊かだねぇとか褒めたシーンと、そんなんじゃないけどと思ったシーンを覚えてます。
それぐらい、子供の稚拙なことを過大評価してる部分もあると思うんです。

むしろ不遇の状況にある子供が絵に入り込んで描くと、エネルギーがある本物の絵になります。虐待の子や戦地で孤児になった子の絵などです。でもそれは別の悲しい本物で悲しい感じがします。


群馬県教育委員会は、公立小中学校で図画と美術の授業で対話型生成AIを活用するとのニュースを見ました。
AIは「なぜそう思ったの?」「何が好きなの?」との質問に対して、子どもが自ら答えを出すように促すそうです。
でましたよ、子供の感性を育てるという名の指針ない教育です。
インプットない子供がアウトプットは何もありません。教育委員会の面々は、子供の頃に天才だったのでしょうか。
天才じゃない子供が天才を求められてます。

ボールを渡して好きなスポーツを開発しろと求める無茶ブリより、ボールの蹴り方を教わり上手くなる喜びのサッカーもあります。
思ったこと書けという感想文、描きたいこと描けという図画、無茶ブリですよ。
子供が好きなアニメや漫画を描くのが好きです。模写から真似から創作意欲を刺激する方法もあります。


芸術作品に話を戻します。
見えないところで自分と向き合い続けてきた積み重ねが表現として現れる時、人は感動します。
例えばフワフワしちゃっている人が絵本を描いても、本人にはいいですけど読まされる方は辛いですよね。
人の生き方が芸術作品であり、浅い人がいくら表現しても浅いものは浅いです。
いろいろ付き合いで見せられた時期がありましたが、その人自身が滲み出ちゃっているもんです。生き方も作品も、その人以上にはならないですね。
1周回った空想はいいけれど、地に足がついてない妄想は、根無し草で花が生えないような気もしなくもないです。


ピカソが描いている映像を仕事で編集したのですが、ピカソは何度も重ねて描き直して、出来たらまた塗り重ねて、修正して、ほぼ全部を上描きして、それはそれは一枚の絵に試行錯誤を積み重ねた上でのシンプルな絵画です。
それでいて、生涯の絵画点数が凄まじいです。

世に出たシンプルなことは、相当な複雑な積み重ねの結果です。
塗り重ね描き重ねた人生で深まります。
浅いのは大人に媚びた浅知恵な子供の頃の私。
複雑に絡みこじれ重ねた私は、書く記事さえもまだシンプルになれません。



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