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老子から、坂を登る人と降る人
老子の「徳経」に、素晴らしい教えがあります。
善者吾善之 不善者吾亦善之 徳善
善なる者は吾れこれを善しとし、不善なる者も吾れまたこれを善とす。徳は善なり。
善人も善人じゃない人も、みんな善人だと私は思う。人は本来は善だから。
ということなのでしょう。
高次元の方も、善悪なんてない、どんな人も共同作業で学び合っている、愛について、という話に通じます。
ほんとにその通りだと思いますが、やや息が詰まる感じもします。上り坂を登らなければいけない、そんな苦難な気もします。
ちょっと逆を考えてみましょう。
悪なる者は吾れこれを悪しとし、不悪なる者も吾れまたこれを悪とす。徳は悪なり。
悪人も悪人じゃない人も、みんな悪人だと私は思う。人は本来は悪だから。
不思議とちょっと楽な感じがしました。下り坂を下っていい、落ちる楽さを肯定してる感じです。
人はそもそも悪と唱える性悪説ですね。
カントとか荀子とか言ってました。
性悪説も性善説も、ちょっと刺激が強いので、またちょっと変えてみましょう。
苦なる者は吾れこれを苦しとし、不苦なる者も吾れまたこれを苦とす。徳は苦なり。
苦しい人も苦しくない人も人も、みんな苦労人だと私は思う。人は本来は苦だから。
ブッタの教えのようです。人生は四苦八苦なことを理解すると涅槃になる。うん、いい教えです。全ての人はそれぞれのドラマを抱えており、各々のドラマがその人にとっての傑作ドラマです。
キリがないので、視点を大きくしましょう。
宇宙なる者は吾れこれを宇宙しとし、不宇宙なる者も吾れまたこれを宇宙とす。徳は宇宙なり。
宇宙を感じる人も宇宙を感じない人も、みんな宇宙の人だと私は思う。人は本来は宇宙だから。
どんな局面においても宇宙の中で漂っている、上下も内外もない、1つであって全て。
話を広げすぎた感もありますが、人は善とかも曖昧なのだから、とことん曖昧さを広げた方が本質を見てるような感じがします。
大きく広げた手の先に、何か触れた感じがする面白さがあるかもしれません。
性善説と性悪説の話も、どちらが正しいかではなくて、表から語るか裏から語るかの違いで、文字通り一体です。
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